幽玄の山とリングライト

幽玄の山とリングライト

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「カット。……玄葉(くろは)さん、今の『慈愛の眼差し』、ちょっと弱いです。もっとこう、全人類を抱くような感じで」

標高二千メートル。

酸素の薄い断崖に、電子音混じりの指示が飛ぶ。

樹齢千年の神木。その根元に鎮座するのは、泥のような色の法衣をまとった老人、玄葉だ。

彼の視線の先には、神聖な空気を切り裂く異物が三つ。

最新鋭のドローン、白々しく輝くLEDリングライト、そしてミナだ。

ミナの親指が、スマートフォンの画面を猛烈な速度で叩いている。

爪の先が白く変色するほどの圧力。

彼女の足元には、督促状の束が泥に塗れて散らばっていた。風が吹くたび、赤い文字で印字された数字がチラチラと舞う。

「……ミナよ」

玄葉の吐息は白い。

だが、その白さには、薬草の香りではなく、肺腑の底に溜まった澱のような重さがあった。

「リスのチロが怯えておる。機材のファンがうるさい」

肩に乗ったエゾリスが、小刻みに震えながら玄葉の耳裏に顔を埋めている。

「チロちゃんには後で高級ナッツあげますから! それより同接、見てくださいよ。四万人ですよ四万人!」

ミナが突き出した画面。

そこには、異常な速度で流れるコメントの滝があった。

『救済を』

『金が欲しい』

『あいつを殺して俺も死ぬ』

『薬をよこせ』

文字ではない。

それは、何万もの飢えた口が開閉する、咀嚼の音だ。

玄葉の手のひらには、淡く発光する『万象調律玉』。

彼自身の生命力を削り、数千年かけて練り上げた結晶。本来は、荒ぶる地脈を鎮めるための楔(くさび)。

「在庫、あと五百個は捌かないと……私、もう……」

ミナの声が震えた。

彼女のこめかみには青い血管が浮き上がり、厚塗りのファンデーションの亀裂から、乾いた皮膚が覗いている。

瞳孔が開いている。

彼女もまた、この場の「気」に侵されている。

「……これを売れば、どうなるか」

玄葉は玉を見つめた。

指先が冷たい。

水晶越しに伝わってくるのは、ネット回線を介した数万人の体温。

ぬるりと湿った、欲情と焦燥の熱だ。

『早く売れ』

『じらすな』

『奇跡を見せろ』

通知音が鳴るたび、腐った果実が地面に叩きつけられるような、湿った音が鼓膜を打つ。

「笑って、玄葉さん! スパチャ来てます! 高額赤スパ!」

ミナが悲鳴に近い声を上げる。

玄葉の脳裏に、ふと、焦げ臭い匂いが蘇った。

肉が焼ける匂い。

かつて、彼が「万能薬」を与えた村の末路だ。

幸福を求めた彼らは、互いの幸福を許せなくなり、最後には火を放った。

今のこの画面の向こう側と、何が違うというのか。

「……始めようか。命の切り売りを」

玄葉はカメラを見据えた。

その瞳には、聖人の慈愛など微塵もない。

あるのは、諦念と、わずかな殺意だけだった。

第二章 バズる副作用

配信開始から一週間。

山頂の空気は、異様な鉄錆の匂いに満ちていた。

「すごい……すごいですよ、玄葉さん」

ミナが岩陰でうずくまっている。

彼女の手には、売り物であるはずの『調律玉』の欠片が握られていた。

彼女自身が、それを服用していた。

「肌の艶が戻った……借金の通知も怖くない……全部、全部どうでもよくなってきた……」

ミナの瞳は、濁った泥水のように光を失っている。

口元には、だらしなく垂れた涎。

彼女だけではない。

手元のタブレットが映し出すコメント欄は、もはや言語の体を成していなかった。

『アアアアア』

『視界が溶ける』

『神が見える』

『隣人を愛せ、そして食え』

世界中のニュースなど見る必要はない。

目の前のミナが、そしてこのタブレット一つが、世界の縮図だった。

個人の小さな欲望を強制的に「調律」し、増幅させた結果、人は理性のタガを外された獣へと還っていく。

「……ミナ、鏡を見ろ」

「え? 私、綺麗でしょう?」

ミナが笑う。

その笑顔は、顔面の筋肉が不自然に引き攣った、仮面のような表情だった。

玄葉は視線を宙へ向けた。

青空ではない。

空には、無数の「眼」が浮かんでいた。

いや、眼に見えるのは、大気中に充満した人々の想念が屈折し、光を歪めている現象だ。

「ヒッ、ヒヒッ……」

チロが逃げ出した。

動物たちは敏感だ。この山が、いや、この星全体が、巨大な精神病棟と化しつつあることを本能で悟っている。

玄葉の視界が明滅する。

フラッシュバック。

燃え盛る村。

「薬をくれ」と這いずり回りながら、互いの足を切り落とす村人たち。

その光景が、今のコメント欄と重なる。

『もっと強いのを』

『俺を見ろ』

『幸せになりたい』

これらは祈りではない。

呪詛だ。

「配信を止めるぞ」

玄葉の声は、枯れ木の擦れる音のように乾いていた。

「えっ……嫌よ。止めたら、私、死んじゃう」

ミナがドローンを抱きしめる。

まるで赤子をあやすように、鋭利なプロペラで頬を切りながら。血が流れても、彼女は痛みを感じていない。

「止めろと言っている!」

玄葉が手を伸ばした瞬間、タブレットが火花を散らした。

『配信ハ、継続サレマス』

『モット、供給ヲ』

機械音声ではない。

数千万人の視聴者の意識が同期し、スピーカーを物理的に振動させているのだ。

画面から伸びた見えない腕が、玄葉の首を絞め上げるような圧迫感。

調律玉が、どす黒く脈動を始めた。

それはもはや癒やしの道具ではない。

世界中の欲望を吸い上げ、爆発寸前の腫瘍と化していた。

第三章 暴かれた欺瞞

「ぐっ……ぅ……!」

玄葉は胸を掻きむしり、苔むした岩の上に倒れ込んだ。

心臓が、早鐘を打つ。

いや、心臓ではない。血管の中を流れる「気」が逆流している。

彼が売ったのは、自身の生命力そのもの。

それが今、世界中の端末を経由して汚染され、真っ黒なヘドロとなって彼の中に還流してきているのだ。

「玄葉さん? ねえ、次の薬は? みんな待ってるのよ」

ミナが這い寄ってくる。

その顔は、もはや人間のそれではない。

欲望の権化。

彼女の背後には、ドローンのカメラが冷酷な複眼のように玄葉を捉え続けている。

『出せ』

『隠すな』

『お前の命をよこせ』

コメントが、物理的な質量を持って玄葉の肌を叩く。

痛い。

何千本の針で刺されるような激痛。

「……お主らが求めているのは、救いではないな」

玄葉は血の混じった唾を吐き捨て、よろりと立ち上がった。

足元が揺れる。

視界の端で、かつて滅ぼした村の少女が笑っている幻覚が見えた。

『おじちゃん、またやるの?』

「ああ、そうだ。また過ちを犯した」

玄葉は認めた。

隠居したのは、世俗を嫌ったからではない。

自らの傲慢さが生み出す悲劇から、目を背けて逃げ出しただけだ。

そして今、小銭稼ぎのために、その封印を自ら解いた。

「ミナ、カメラを固定しろ」

「え? 新商品?」

ミナの目が卑しく輝く。

「そうだ。とびきり苦い、最後の薬だ」

玄葉は懐から、残りの調律玉をすべて取り出した。

それらは共鳴し、不快な高周波音を発している。

空の「眼」が、一斉にこちらを見下ろしているのを感じる。

世界は限界だ。

あちこちで暴動が起き、理性が崩壊し、人々は快楽と万能感の奴隷になっている。

これを止めるには、ただ回線を切るだけでは足りない。

「皆の衆、よく聞け」

玄葉はカメラのレンズを鷲掴みにした。

指紋がレンズを汚す。

その汚れ越しに、彼は世界と対峙する。

「お主らが飲んだのは、ただの増幅剤だ。お主らの中にある、醜悪な獣を肥大化させる餌だ!」

『嘘だ』

『黙れ』

『寄越せ』

批判の嵐。

だが、玄葉は構わず叫んだ。

「その獣を飼い慣らせるか? それとも食い殺されるか? ……その答えを、今ここに見せてやる」

玄葉は、手の中の調律玉を宙に放り投げた。

第四章 真実の周波数

「やめて!」

ミナが叫ぶ。

だが遅い。

玄葉は両手を打ち合わせ、渾身の気を叩き込んだ。

パァァァンッ!

乾いた破裂音が、山頂の空気を震わせた。

調律玉が砕け散る。

しかし、それは美しい光の粒子にはならなかった。

どす黒い煙。

玉の中に凝縮されていた数億人の「欲望の汚泥」が、爆発的に解放されたのだ。

「うっ、ぐあアアア!」

ミナが頭を抱えて転げ回る。

画面の向こうでも、同じことが起きているはずだ。

薬によって得ていた偽りの万能感が消え失せ、その反動が一気に襲いかかる。

『痛い』

『寒い』

『私がやったのか?』

『嫌だ、見たくない』

コメントの流れが変わる。

享楽的な叫びから、悲鳴と懺悔へ。

自らの醜さを直視させられる苦痛。

それは、どんな地獄の業火よりも熱く、魂を焼く。

玄葉自身も無傷ではない。

逆流した穢れが、彼の内臓を蝕む。

口からごぼりと黒い血が溢れた。

「見ろ! これが、お主らの正体だ!」

玄葉は血塗れの口で笑った。

カメラに向かって、仁王立ちになる。

「楽になる薬などない! 幸せになる魔法などない! あるのは、泥の中を這いずり回る現実だけじゃ!」

ドローンが強風に煽られ、墜落した。

映像が乱れる。

だが、音声だけは生きていた。

「苦しいか? 痛いか? ならば、まだ救いはある! 痛覚こそが、お主らが人間である証拠じゃ!」

嵐のような風が吹き荒れる。

空に浮かんでいた無数の「眼」の幻影が、涙を流すように溶け出し、黒い雨となって降り注いだ。

ミナが泥水の中で泣いている。

それは、薬切れの禁断症状による涙ではない。

自分のしでかしたことへの、恐怖と後悔の涙だった。

「……ふぅ」

玄葉はその場に膝をついた。

もはや指一本動かせない。

生命力の残滓が、蝋燭の火のように揺らいでいる。

世界は静かにはならなかった。

あちこちで泣き声が、怒号が、そして謝罪の声が響いている。

混沌。

だがそれは、薬漬けの死んだ静寂よりは、幾分かマシな「生きた騒音」だった。

最終章 調律者の朝

鳥の声がうるさい。

玄葉は重い瞼を持ち上げた。

「……生きておるな」

全身が軋む。

骨の髄まで痛みが走るが、それが生きている実感だった。

「玄葉さん、お粥……食べますか」

掠れた声。

ミナが、煤けた鍋を持って立っていた。

厚塗りのメイクは落ち、目の下には深い隈がある。

頬には切り傷。

決して美しくはない。だが、その瞳には、弱々しくとも理性的な光が戻っていた。

「……もらうとしよう」

玄葉は震える手で椀を受け取った。

味は薄い。焦げ臭い。

だが、温かい。

「世界は、めちゃくちゃです」

ミナが地面に座り込み、壊れたタブレットを撫でた。

「集団訴訟の準備とか、副作用の被害者の会とか……ネットは大炎上。私たちは世界中の敵になりました」

「そうか」

「怖くないんですか?」

「怖いものか。……これからが、本当の仕事じゃ」

玄葉は立ち上がった。

法衣はボロボロだが、背筋は以前よりも伸びているように見えた。

岩の上に、予備のスマホをセットする。

レンズのガラスは割れている。

映る映像は歪んでいるだろう。

「まだやる気ですか? 誰も見ませんよ。殺害予告しか来ませんよ」

「構わん。罵倒もまた、人の声じゃ」

玄葉はニヤリと笑った。

その顔は、好々爺のそれではない。

業を背負い、泥の中を歩む覚悟を決めた、修羅の顔だった。

「ミナよ、スイッチを入れろ」

「……はぁ。本当に、懲りない人」

ミナは溜息をつき、それでも指先でタップした。

『配信開始』

一瞬でコメントが埋め尽くされる。

『人殺し』『詐欺師』『金返せ』『でも、目が覚めた』『助けて』

賛否両論。

憎悪と、わずかな救済を求める声の渦。

嵐のようなノイズ。

玄葉は深く息を吸い込んだ。

山の冷気と、人間の熱気が混ざり合う。

「ようこそ、地獄へ。……さあ、話をしようか。痛みを分かち合うための、長い話を」

割れたレンズの向こうで、世界が息を呑む気配がした。

『』

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
玄葉は、過去の傲慢さからの逃避を自覚し、安易な救済の先に待つ悲劇を知りながらも、最終的に自らの命を削って真実を突きつけ、痛みと向き合う「修羅」としての覚悟を決める。ミナは借金と承認欲求に囚われ、薬で理性を失うが、真実を知った後、後悔から再生へと歩み出す。

**伏線の解説**
玄葉がかつて「万能薬」で村を滅ぼした過去は、今回の配信が辿る悲劇と彼の「諦念」を予兆する。空に浮かぶ「眼」は、ネット上の集合的欲望が物理現象化したものであり、調律玉の本来の「地脈を鎮める」役割との皮肉な対比が物語に奥行きを与える。

**テーマ**
物語は、安易な救済と快楽がもたらす破滅、そして痛みや苦悩こそが人間性の証であると問いかける。現代社会の欲望と承認欲求を風刺し、自己欺瞞を乗り越えた先に、罵倒すら受け入れる「真の調律」としての対話と贖罪の道を提示する。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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