社畜ダンジョン・オプティマイゼーション
【社畜ダンジョン・オプティマイゼーション】
第一章 午前三時の境界線
蛍光灯が羽虫の断末魔のように明滅している。
午前三時。オフィスを満たすのは、数十台のサーバーが吐き出す熱気と、佐倉悠斗の気道が鳴らす乾いた音だけだった。喉の奥で、胃酸が灼熱の線を引く。
目の前のディスプレイには、修正履歴で赤く染まった企画書。エンターキーを叩く指先は、もはや自分の意思とは無関係に痙攣を繰り返している。
視界が滲んだ。疲労ではない。世界の解像度が、不気味に歪み始めているのだ。
隣の席の山積みの書類が、腐臭を放つ汚泥に見える。天井のシミが、監視する眼球に見える。そして、上司のデスクから漂う重苦しい気配が、どす黒い靄となって佐倉の首を絞めつけていた。
逃げ場などない。そう思った時、ポケットの中で硬質な熱が脈打った。
ガラスのひび割れたスマートフォン。充電などとっくに切れているはずの画面に、見知らぬアイコンがたった一つ、生物のように呼吸している。
『ダンジョン経営・β版』
指が画面に触れる。選択の余地などなかった。
ガラスの亀裂が指の腹に食い込む。痛みはない。代わりに、佐倉の血管を流れる泥のような倦怠感が、猛烈な勢いで端末へと吸い上げられていく。背筋が粟立つほどの寒気と、暴力的な覚醒が同時に駆け抜けた。
第二章 歪む現実、具現化する悪意
翌朝、佐倉の眼球は「現実」を捉えていなかった。
朝礼で喚き散らす営業部長の姿は、もはや人間ではない。脂ぎった皮膚は緑色の剛毛に覆われ、口からは唾液ではなく毒液を滴らせる醜悪なオーク。
それが、部長の正体(ステータス)だった。
オークが理不尽なノルマを咆哮する。佐倉は無表情にスマホを取り出し、画面上のオークを親指でなぞった。
《対象を排除(デリート)しますか?》
躊躇いはない。スワイプ。肉を削ぐような生々しい振動が指先に伝わる。
その瞬間、現実の部長が言葉を詰まらせた。白目を剥き、操り人形の糸が切れたように膝から崩れ落ちる。周囲が悲鳴を上げて駆け寄るが、佐倉の目には、それらがすべて処理落ちしたNPCの群れにしか映らない。
邪魔なオブジェクトが消え、業務フローが改善された。
佐倉はデスクに戻り、昼食のサンドイッチを齧る。
味がしない。
パンも、ハムも、レタスも、すべてが灰色の粘土のような食感だった。
スマホが震える。同僚からのLINE通知。『佐倉、大丈夫か? 顔色悪いぞ』
文字の意味が理解できない。「心配」という概念が、非効率なデータとして脳から弾かれる。
右手が勝手に動く。同僚のアカウントをブロックし、連絡先ごと消去した。
胸の奥で、人間らしい何かが音を立てて欠け落ちていく。だが、それに代わる冷徹な全能感が、恐怖すらも塗り潰してしまった。
第三章 完璧なる管理者
オフィスの床が透明な幾何学模様に書き換わった時、佐倉は自分が世界の頂点にいることを悟った。
東京の街並みは、整然とした迷宮へと再構築されていた。
信号待ちの時間はゼロ。満員電車の接触圧はゼロ。雑音も、悪臭も、非合理な感情のもつれも、すべてがシステムによって最適化されている。
「佐倉様、決裁をお願いいたします」
声の方を向く。かつて佐倉に企画書を投げつけたあの上司が、直立不動で立っていた。
顔には、定規で測ったような完璧な笑顔が張り付いている。瞳孔が開いたまま固定されたその瞳は、ガラス玉のように光を反射するだけだ。
「コーヒーの温度は摂氏六十八度。カフェイン量は疲労回復に最適な数値に調整済みです」
差し出されたカップからは、湯気ひとつ立っていない。
周囲を見渡せば、同僚たちが機械的なリズムでキーボードを叩き続けている。私語はなく、ため息もなく、ただ「成果」だけを生産し続ける工場。
佐倉は玉座のようなチェアに深く沈み込んだ。
これが、俺が望んだ世界か?
ストレスはない。苦痛もない。だが、ここには「生」の手触りが欠落している。
上司の淹れたコーヒーを一口含む。完全な味。だが、そこには苦味も酸味も、淹れた人間の体温も感じられない。
ただの、温かい泥水だ。
吐き気が込み上げる。胃酸の味が恋しいとさえ思った。
この窒息しそうなほどの「正解」の中で、佐倉悠斗という個体は、バグとして圧殺されようとしている。
最終章 最後の無駄
屋上への扉を蹴り開ける。
風が吹いているはずなのに、肌には何も感じない。空はデジタルサイネージのような均一な青色で塗り潰されている。
スマホが激しく点滅した。画面に文字列が走る。
『警告:管理者権限の放棄は、システムの崩壊を招きます。最適化を継続してください』
脳髄を直接揺さぶるような不協和音。
佐倉は、ひび割れた画面を見つめた。そこには、無表情で生気のない、のっぺらぼうのような自分の顔が映り込んでいる。
「継続? お断りだ」
声が出た。喉が焼け付くように痛い。その痛みが、彼に残された最後の人間性だった。
指先が震える。恐怖か、歓喜か。
システムが完全になればなるほど、人間は不要になる。効率の極北にあるのは、死にも等しい静寂だ。
俺は、間違いたい。失敗して、泥を啜って、みっともなく泣き喚きたい。
そんな無駄だらけの「生」こそが、俺の欲しかった報酬だ。
佐倉はスマホを高く振り上げた。
『エラー。エラー。理解不能。エラー』
端末が熱を帯び、指を焼く。構うものか。
全身の筋繊維を断ち切るほどの力で、彼はそれをコンクリートの床へと叩きつけた。
硬質な破砕音。
世界に亀裂が走る。完璧な青空がガラスのように砕け散り、その隙間から、煤けた灰色の空気が雪崩れ込んできた。
整然としたビル群が歪み、クラクションの不快な騒音が鼓膜を突き破る。
瓦礫と化した世界の中で、佐倉は膝をついた。
激痛。
指先が切れ、血が滲んでいる。胃がキリキリと痛み、強烈な吐き気が喉元まで迫っていた。
目の前には、原形をとどめないほど粉々になったスマートフォンの残骸。
「……っ、痛ってぇ……」
佐倉は顔をしかめ、そして、腹の底から笑い声を上げた。
痛い。苦しい。最悪だ。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、排気ガスと埃の味がした。けれどそれは、あの完璧な泥水よりも、遥かに甘美で、芳醇だった。
よろめきながら立ち上がる。
眼下には、理不尽で、混沌として、どうしようもなく面倒な日常が広がっている。
明日は始末書の山だろう。部長の怒号が飛んでくるだろう。
だが、佐倉の瞳に宿る光は、もう以前のような死んだ魚の色ではない。
彼は血の滲む指でネクタイを緩め、雑踏の喧騒へ向かって一歩を踏み出した。
「さて、行きますか」