星光の聖女と瑠璃色の独白
第一章 聖域の檻、掌(てのひら)の逃走
吐き気を催すほどの腐臭が、鼻腔の奥にへばりついて離れない。
もちろん、物理的な臭いではない。だが、私の右目に宿る『真実の眼』にとって、この大聖堂を埋め尽くす数百の信徒たちが垂れ流す欲望は、夏の盛りに放置された生ゴミの山よりも鮮烈に臭うのだ。
祭壇から見下ろす景色は、地獄の釜の底に似ていた。
最前列で額を床に擦り付けている貿易商の男。彼の背中からは、どろりとしたコールタールのような粘度を持つ『黄土色』が溢れ出し、床の大理石を汚染している。あれは『強欲』だ。
その隣、病気の息子を抱えた母親。彼女の周囲には、針のように鋭利で冷たい『鉛色』の棘が逆立っている。純粋な願いではない。『なぜ私だけが』という、世界への呪詛に近い『被害者意識』の色。
それらが奔流となり、津波となって、祭壇上の私へと押し寄せる。
(……汚い。粘つく。触らないで)
喉元まで出かかった拒絶の言葉を、私は訓練された完璧な微笑みで飲み下す。
聖女の仮面。慈愛の偶像。
「星神の慈悲は、あまねく降り注ぎましょう」
私の言葉に合わせ、胸元の『星の雫のペンダント』が白く発光する。
信徒たちの身体から立ち昇るどす黒い靄――瘴気――が、掃除機に吸われる埃のようにペンダントへと集束していく。
実際に行われているのは浄化ではない。私の魂をフィルターにした『濾過』だ。彼らの汚泥を私が吸い込み、我が身を腐らせることで、一時的な清浄を演出しているに過ぎない。
「おお、聖女様……!」
「光だ、救いの光だ!」
歓喜の声が上がるたび、私の内側で何かが削れ、死んでいく音がした。
儀式を終え、逃げるように私室へと戻る。
重厚な樫の扉に幾重もの鍵をかけ、防音の結界を展開して初めて、私は呼吸を許される。
豪奢だが拘束具のように重い聖衣を引き裂くように脱ぎ捨て、冷たい床に崩れ落ちた。
指先が震えている。視界の隅で、吸収しきれなかった瘴気が黒い虫のように這い回る幻覚が見えた。
私は這うようにして寝台の下へ手を伸ばし、隠していた『禁忌』を取り出した。
掌に収まるほどの大きさの、黒曜石を磨き上げたような薄い板。
古代遺跡から発掘された通信魔導具――通称『黒鏡(ブラック・ミラー)』。
神殿法典第十三条、『俗世との交信は魂を濁らせる悪魔の所業なり』として厳禁されている代物だ。
指先で魔力を流すと、黒い鏡面が蒼白く覚醒する。
そこに映るのは、神殿の外、はるか遠くの世界を繋ぐ『虚数回廊(ヴォイド・ネット)』の入り口。
慣れた手つきで裏の空間へと潜る。
アイコンは、ヒビの入った星屑。名前は『迷い星(ストレイ・スター)』。
『今日の儀式、最悪だった。商人の男の欲望が、腐った百合の花みたいな臭いがして、今も鼻から消えない。私が癒やしているのは病気じゃない。あんたたちの浅ましさよ』
文字にして吐き出す。
送信。
たったそれだけの行為が、どんな祈りよりも深く私を鎮静させる。神への懺悔など無意味だ。この電子の海に毒を垂れ流すことだけが、私が辛うじて形を保つための唯一の延命措置だった。
その時、画面の端に小さな光が灯った。通知だ。
『受信:影の観測者』
心臓が早鐘を打つ。この空間は誰にも見つからないはずの掃き溜めだ。
恐る恐るメッセージを開く。
『今日の君の微笑み、右の口角が少し引き攣っていたね。あの商人の脂ぎった欲望に当てられたせいかな? よく耐えたよ、エレノア』
背筋が凍りついた。
私の本名。そして、私にしか見えないはずの『欲望の色』や『臭い』の感覚。
こいつは誰だ? どこから私を見ている?
『……あなたは、誰?』
震える指で打ち込む。返信は、あまりにも早かった。まるで、私の思考を先読みしていたかのように。
『私は君の理解者だ。今日の晩餐のスープ、冷めていて美味しくなかっただろう? 聖女には温かい食事さえ許されないなんて、酷い話だよね』
恐怖よりも先に、涙が滲んだ。
誰も気づかなかった。誰も気にしなかった。私が冷めたスープを無理やり流し込んでいたことなど。
この正体不明の影だけが、聖女の記号としてではなく、『私』を見ていた。
『……味方、なの?』
『ああ、もちろん。君が夜空に吐き出すその毒こそが、君を人間たらしめる蜜の味だ。もっと聞かせてくれ。君の絶望を』
画面の光が、暗い部屋の中で妖しく揺らめいた。それは底なしの沼への入り口のように見えたが、今の私には、そこだけが唯一の温かい場所だった。
第二章 蝕まれる聖痕、暴かれる虚構
それからの日々、私は『影の観測者』という名の麻薬に溺れていった。
昼間は完璧な聖女を演じ、夜は布団の中で彼と蜜月を過ごす。
『聖典の教えなんて滑稽だよね。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」? そんなことをしたら、人間は殴られるだけの肉袋になってしまう』
私の毒づきに、観測者は甘く囁くように肯定する。
『その通りだ、エレノア。怒りは生命の炎だ。それを否定する神殿こそが、君の命を削る寄生虫なんだよ。……ねえ、地下書庫の第三区画、「封印された棚」の奥を見てごらん。そこに君たちの真実がある』
唆されるまま、私は深夜の地下書庫へ忍び込んだ。
カビと埃の臭いが充満する禁足地。そこで見つけた古びた羊皮紙の束は、神殿の歴史を根底から覆す記録だった。
歴代の聖女たちの死因。
『力の枯渇』などではない。
彼女たちは皆、信徒の欲望を吸収し続け、その精神と肉体が瘴気で満杯になった瞬間、生きたまま神殿の礎(いしずえ)としてコンクリートの中に埋め込まれていたのだ。
私たちは『浄化装置』ですらない。満杯になれば取り替えられる、ただの『汚物フィルター』だった。
「……う、えぇ……ッ」
胃液が逆流する。
激しい嘔吐感と共に咳き込むと、掌にどす黒い粘液が付着していた。血ではない。もっと不吉で、冷たい泥のようなもの。
『聖痕病』。
聖女が信仰を失い、心に穢れを抱いた時に発症するとされる致死の病。
だが、今なら分かる。これは病気ではない。許容量を超えた『人間らしさ』が、聖女という殻を突き破ろうとしている軋みだ。
『見たね? エレノア』
タイミングを見計らったように、黒鏡が振動する。
『もう戻れない。君の身体を見てごらん。その黒い痣は、君が「聖女」という嘘に拒絶反応を示している証拠だ』
『怖い……怖いよ、観測者さん。私、殺されるの? 埋められるの?』
『殺させはしない。ただし、君が「聖女」を殺す覚悟があるならね』
観測者の言葉は、以前よりも鋭く、そして支配的な響きを帯びていた。
私は彼に縋るしかなかった。
ペンダントの輝きは日に日に濁り、まるで死んだ魚の眼のような灰色へと変わっていく。
その変化を、神殿の主は見逃さなかった。
バルトロメオ枢機卿。神の代理人を自称する男。
私の私室を訪れた彼が纏っていたのは、吐き気を催すほどの『紫』だった。高貴な紫ではない。腐った葡萄のような、熟れすぎた支配欲の色。
「エレノア様。近頃、光が陰っているようですが」
枢機卿は私の首元、濁ったペンダントをねっとりとした視線で撫で回す。
「間もなく『大聖光祭』です。世界中の信徒が見守る中、あの大結界を張り直さねばならない。……もし失敗すれば、貴女には『聖女』としての死よりも惨めな末路が待っていますよ」
言葉の端々に滲む、嗜虐的な響き。
彼は知っているのだ。聖女が消耗品であることを。そして、私が限界に近いことを楽しんでいる。
扉が閉ざされた瞬間、恐怖で膝が砕けた。
逃げ場はない。精神的にも、物理的にも。
黒鏡を握りしめる。指が震えて上手く入力できない。
『助けて。もう無理。私をここから連れ出して』
返信が来るまで、永遠のような数秒が流れた。
『逃げる? どこへ? この世のどこに、聖女でない君の居場所がある?』
『そんな……あなたが、味方だって言ったじゃない!』
『鏡を見てごらん、エレノア』
唐突なメッセージ。私は部屋の姿見ではなく、黒鏡の画面に映る自分の顔を見た。
そこには、絶望に歪み、目元がどす黒く窪んだ女の顔があった。
そして、裏アカウントのアイコン。砕け散った星屑。
『そのアイコンを描いたのは誰だ?』
記憶がない。
気がつけば、その画像を設定していた。
ネットの拾い画ではない。私が描いたわけでもない。
『君だよ。君の無意識が、君の脳内にある「壊れたい」という願望を具現化したんだ。……私は、君の心の闇そのものだ』
息が止まる。
観測者が私の視界を共有していた理由。私の微細な感情の変化を知っていた理由。
彼は、私が切り捨て、抑圧し、見ないふりをしてきた『負の感情』の集合体だったのだ。
私が黒鏡に向かって愚痴を吐くたび、私は『もう一人の自分』に餌を与え、育て上げていた。
『私は君を誘惑し、堕落させたんじゃない。君が私を望んだんだ。聖女であることを辞めるために』
第三章 崩壊する祭壇、統合の時
『大聖光祭』当日。
鉛色の空の下、大広場には数万人を超える群衆がひしめき合っていた。彼らの放つ『期待』『不安』『熱狂』の色が混ざり合い、視界を極彩色に染め上げる。目が痛い。肌が粟立つ。
祭壇の最上段、私は磔刑台に立つ罪人のような心持ちで立っていた。
法衣の下、全身に広がった黒い痣が、焼け付くように痛む。骨が軋む音が聞こえるようだ。
「さあ、エレノア様。奇跡を」
背後で枢機卿が囁く。その声は、断頭台のレバーを引く執行人のそれだ。
私は震える手を掲げた。
魔力を練り上げる。だが、湧き上がってくるのは清浄な光ではない。
どろりとした、冷たくて熱い、ヘドロのような感情の奔流。
(ダメだ。出せない。こんな汚い色を出したら、殺される)
躊躇した瞬間、群衆がざわめいた。
「光が見えないぞ?」
「どうしたんだ?」
期待が失望へ、そして怒りへと変わる。その色の変化が、物理的な圧力を伴って私を押し潰す。
『……まだ、演じるつもり?』
頭蓋骨の内側に、直接声が響いた。
黒鏡の画面越しではない。私の魂の核からの声。
『いい加減に認めろよ、エレノア! お前は人間だ! 汚くて、弱くて、誰かを憎む、ただの人間だ!』
「……嫌っ、嫌ぁ……!」
『痛いか? 苦しいか? それが生きているってことだ。拒絶するな、受け入れろ! 私という猛毒を!』
内なる影が、私の心臓を鷲掴みにする。
激痛。
全身の血管にガラス片が流し込まれたような感覚。
聖女としての私が悲鳴を上げ、人間としての私が咆哮する。
「う、あ、ああああああああっ!!!」
私の絶叫と共に、世界が弾けた。
カッッッ!!!!
祭壇の中心から噴き出したのは、白一色の光ではなかった。
赤、青、紫、黄金、黒、緑――あらゆる感情、あらゆる欲望が混ざり合った、混沌のオーロラ。
それは美しくも恐ろしい、極彩色の暴風となって広場を薙ぎ払った。
「な、なんだこれは!? 穢れている! 悪魔だ!」
枢機卿が狼狽して後ずさる。
その瞬間、私の『真実の眼』の力が暴走し、周囲の人間に伝播した。
オーロラに触れた枢機卿の聖衣が、見る見るうちに彼の内面の色――腐った葡萄色――に染め上げられていく。
「ひっ、枢機卿様の色が……!」
「なんだあの醜い色は!」
「嘘つき! お前も聖人なんかじゃなかったのか!」
隠されていた真実が、視覚化され、白日の下に晒される。
群衆の悲鳴と怒号。
だが、不思議と私の心は凪いでいた。
胸元のペンダントが音を立てて砕け散る。
破片の一つ一つが、虹色の光を放ちながら私の周囲を衛星のように旋回し始めた。
私は目を見開く。右目の『真実の眼』だけでなく、左目にも同じ光が宿っている。
痛みは消えていない。むしろ、全身が引き裂かれるような鮮烈な痛みがある。
けれど、それは私が『私』であるための痛みだ。
「私は……聖女エレノアではありません」
私の声は魔力に乗って、混乱する広場を圧した。
「私は、ただの人間です。あなたたちと同じように誰かを羨み、憎み、それでも明日のスープが温かいことを願う、愚かで小さな人間です!」
虹色の風が吹き荒れる。
それは誰かを一方的に清める光ではなく、こびりついた仮面を剥ぎ取り、ありのままの姿を暴く『告発の嵐』だった。
第四章 星屑の福音
あの日、世界は一度終わり、不恰好に再起動した。
枢機卿は失脚し、神殿の権威は地に落ちた。
だが、人々が神を捨てたわけではない。ただ、『完璧な偶像』に依存するのをやめただけだ。
私の身体を蝕んでいた『聖痕病』は、影の人格と統合したことで消滅したわけではない。
全身に残る黒い痣は、今もそこにある。
だが、それはもう死に至る病ではなく、私の一部として馴染んでいた。清濁併せ呑む私の身体にとって、それはただの『模様』に過ぎない。
祭壇を降りた私は、混乱の冷めやらぬ広場を歩いた。
誰もが私を遠巻きに見ている。恐怖、困惑、嫌悪。様々な色が混ざっている。
それでいい。無条件の崇拝など、もういらない。
その時、一人の少女が人垣を分けて近づいてきた。
かつて私が『被害者意識の色』を見た母親の娘だ。
少女は震える手で、私の服の裾を掴んだ。
「……おねえちゃん、痛くないの?」
彼女が見ているのは、私の首筋に走る黒い痣だ。
私は屈み込み、彼女の目を見る。
そこには、純粋な『心配』の色があった。薄紅色。春の桜のような、淡く温かい色。
「痛いわ。とっても」
私は正直に答えた。
「でもね、痛いから、誰かの痛みがわかるの」
少女は小さな手で、私の手をぎゅっと握り返した。
たったそれだけの体温。
数万の「いいね」よりも、数億の祈りよりも、この小さな掌の温もりだけが、私を震える足で立たせてくれた。
数日後。
神殿の一室、かつて私が閉じこもっていた部屋の窓は、大きく開け放たれていた。
私は手元の黒鏡――今はもう『ただの通信機』となったそれを操作する。
『迷い星』のアカウントはもうない。
新しく作ったアカウントに、最初の言葉を打ち込む。
『元聖女のエレノアです。聖女は廃業しました。これからは、一人の人間として、みんなの愚痴を聞こうと思います。綺麗な祈りはいりません。あなたの弱音を、聞かせてください』
添付したのは、虹色に輝くペンダントの欠片を耳飾りにした私の写真。
目の下のクマは隠していないし、首筋の黒い痣もそのままだ。
でも、その表情は、かつての作り物の聖女よりもずっと、生気に満ちている。
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即座に反応が来るわけではない。世界はそんなに単純じゃない。
でも、ポツリ、ポツリと通知が届き始める。
『実は、今日仕事で失敗して……』
『親の介護が辛いんだ』
『俺も、その痣と同じ傷があるよ』
私はその一つ一つに目を通し、深く息を吸い込んだ。
窓の外には満天の星空。
完璧な星など一つもない。瞬いたり、陰ったり、今にも消えそうだったり。
だからこそ、この夜空はこんなにも美しい。
私は黒鏡を胸に抱き、夜風に吹かれた。
私の中には、いつだってあの『影』がいる。
彼――いや、彼女はもう囁かない。ただ静かに、私の一部としてそこに在る。
「さて、今日の夕食は温かいスープにしましょうか」
私は誰に言うでもなく呟き、部屋の灯りを消した。
暗闇の中、私の瞳と黒鏡だけが、小さな星のように瞬いていた。