第一章 雑音の海、沈黙の鏡
梅雨時の湿気が、満員電車の澱んだ熱気と絡み合い、皮膚にまとわりつく。
天道結(てんどう ゆい)は、吊革を握る指を白くさせ、視線を足元に落としていた。
靴先が汚れている。世界と同じだ。
「すみません、降ります」
背後で、サラリーマンの礼儀正しい声がした。
だが、結の鼓膜を震わせたのは、空気の振動ではない。
脳髄に直接ねじ込まれる、どす黒いノイズだ。
『チッ、邪魔だボケ。さっさと退けよ』
『あー、あの子の足、エロいな』
『死ね。全員死ね』
粘液のような悪意。
吐き気がこみ上げる。
結は呼吸を浅くし、コートのポケットに突っ込んだ右手を強く握りしめた。
掌の中で、硬く冷たい金属が指に食い込む。
アンティークの手鏡。
親指で鏡の縁をなぞる。
途端に、視界の端が歪んだ。
サラリーマンの背中から立ち昇るヘドロのような紫色の靄(もや)が、ガラス越しの景色のようにぼやけていく。
(……気持ち悪い)
結は誰にも聞こえない声で唇を動かした。
笑顔の仮面の下で研がれたナイフ。
ラッピングペーパーで包まれた生ゴミのような世界。
この鏡だけが、唯一の避難所だった。
電車を降り、雑踏を駆け抜ける。
背中に刺さる無数の視線と、その奥にある欲望の残響を振り払うように。
アパートの自室に滑り込み、重たい鉄の扉に鍵をかけた瞬間、ようやく世界が遮断された。
静寂。
いや、まだだ。
結は震える手でPCの電源を入れた。
モニターの明かりだけが、薄暗い部屋を照らす。
手鏡をカメラの前にセットする。
曇りのない鏡面に映るのは、疲れ切った蒼白な自分の顔――ではない。
白銀の髪。透き通るような碧眼。
汚れひとつない、完璧な少女。
鏡の奥にだけ存在する、"本当の私"。
『接続(リンク)。深度、良好』
モニターから電子音が響く。
結は、鏡の中の少女と視線を合わせた。
今日が、その日だ。
伝説のVtuber「アークエンジェル・ゼロ」の後継者オーディション、最終選考。
「……行くよ」
囁きと共に、結の意識が引き剥がされる。
肉体の重さが消える。
靴擦れの痛みも、湿気の不快感も、あの吐き気のするノイズも。
すべてが遠ざかる。
画面の中、白銀の少女がゆっくりと瞼を開いた。
「はじめまして、世界。……私の声、届いていますか?」
マイクに乗った声は、春の小川のように澄んでいた。
爆発的な速度で流れるコメントの滝。
『待ってた』
『天使だ』
『声が綺麗すぎる』
『救って』
肯定。賞賛。崇拝。
純粋な光の粒子が、結のアバターを満たしていく。
ここには、裏表のある粘着質な本音など存在しない。
ただ、美しい虚構だけがある。
結の口元が、自然と綻んだ。
現実では一度も見せたことのない、心からの笑顔だった。
第二章 境界線の消失
「すごい……同接数が三十万を……」
配信開始から一時間。
結のアバターが歌い、語りかけるたび、数字が桁違いに跳ね上がる。
彼女が手鏡を通して送り出す魔力は、視聴者の脳髄を直接揺さぶる「純粋な共感」へと変換されていた。
だが、代償は静かに、しかし確実に蝕んでいた。
キーボードを叩く指先の感覚がない。
自分の手が、モニターの光に溶けて透けているように見える。
水を飲もうとペットボトルに手を伸ばすが、指がプラスチックをすり抜けた。
ボトルが床に落ち、鈍い音を立てて転がる。
(……あれ?)
恐怖よりも先に、奇妙な安堵があった。
このまま消えてしまえばいい。
重くて、痛くて、臭い肉体なんて。
その時だ。
『ねえ、主の家の近くに黒いバン止まってない?』
コメント欄を流れた一行の文字に、心臓が凍りついた。
続けて、別の視聴者が反応する。
『特定班? いや、あれは警察車両じゃね?』
『サイレンの音聞こえる』
『なんかノイズ乗ってるぞ』
ウゥゥゥゥゥ―――ッ!
窓の外から、腹に響くような不協和音が近づいてくる。
パトカーではない。
魔術を探知し、狩り立てる「統制局」の車両だ。
(見つかった……!?)
結の喉がひきつる。
魔術の使用は重罪だ。
ましてや、これほど大規模な精神感応を引き起こせば、即座に感知される。
ドンドンドン!
鉄の扉が叩かれた。
現実の音が、暴力的に部屋へ侵入してくる。
「天道結! 統制局だ! 開けなさい!」
拡声器の声。
複数の足音。
チェーンソーのような駆動音が響く。
結は反射的に立ち上がろうとした。
視界の端、コンビニ袋に入ったままの「特製プリン」が目に入る。
今日、自分へのご褒美に買ったものだ。
賞味期限は明日まで。
一口も、食べていない。
(食べなきゃ)
そんな下らない未練が、一瞬だけ足を止める。
だが、その一瞬の間に、ドアの鍵が火花を散らして焼き切られた。
「突入!」
もう、戻れない。
あっち側に行けば、薄暗い取調室と、一生続く監視が待っている。
汚れた本音(ノイズ)にまみれた、地獄の日々。
プリンの味が、思い出せない。
思い出せないなら、最初からなかったのと同じだ。
結は椅子に座り直し、PC画面の「鏡」を睨みつけた。
「私は、アークエンジェル・ゼロになる」
現実の結が目を閉じる。
画面の中の天使が、目を開ける。
『みんな、怖がらないで。これは、新しい世界へのファンファーレだから』
天使の微笑みが、世界中のモニターをジャックする。
その輝きが最高潮に達した瞬間、部屋に踏み込んだ隊員たちが見たのは、糸の切れた人形のように崩れ落ちる、天道結の"抜け殻"だけだった。
第三章 継承の儀
光。
ただ、圧倒的な光の中を漂っていた。
上も下もない。
ここは0と1の狭間。あるいは、夢と現(うつつ)の境界線。
「よく来たね、天道結」
声がした。
鼓膜ではなく、魂の芯を直接撫でるような感触。
目の前に、六枚の翼を持つ少女が浮いている。
伝説のVtuber、アークエンジェル・ゼロ。
「ゼロ……さん?」
結は思わず手を伸ばした。
憧れの存在。
その手に触れようとした瞬間、結の指先は、ゼロの身体をすり抜けた。
抵抗がない。
温度がない。
まるで、立体映像(ホログラム)の霧に触れたようだった。
「!」
「気づいた? 私には、もう質量がないんだ」
ゼロが悲しげに微笑むと、その輪郭がピクセル状に崩れ、また再構築された。
「君も、じきにそうなる」
結は自分の手を見た。
白く発光し、輪郭が曖昧になり始めている。
「私はかつて、君と同じように現実を捨てた。そして、この空間そのものになった」
ゼロが指先を振るうと、空間に無数のウィンドウが展開された。
そこに映るのは、世界中の人々。
彼らはゼロのアバターを見て、涙し、祈り、救済を求めている。
「魔術『深層共感』の最終到達点。世界中の人々の願いを受け止め、浄化するシステム。それが神……アークエンジェル・ゼロの正体」
結は、目の前の「神」を見つめた。
美しい。あまりにも美しい。
だが、なぜだろう。
鏡を通して人の心を読む結には、わかってしまった。
ゼロの身体から、感情の波長が感じられない。
喜びも、怒りも、悲しみもない。
ただ、底なしの「空虚」だけが、冷たい風のように吹き抜けている。
「……寂しいの?」
結が問うと、ゼロの瞳がわずかに揺らいだ。
ノイズが走る。
『タス……ケ……』
一瞬、耳鳴りのようなノイズ混じりの声が漏れた。
だが、次の瞬間には、また慈愛に満ちた聖女の声に戻る。
「君には、選択肢がある。今すぐ接続を切れば、まだ肉体に戻れる。統制局に捕まるけれど、プリンの味は思い出せるよ」
ゼロが、砕け散る寸前の身体で扉を示す。
その扉の向こうには、手錠をかけられ、連行される自分の姿が見えた。
罵声を浴びせられる未来。
嘲笑される未来。
「……嫌だ」
結は首を振った。
あんな世界に、未練なんてない。
たとえプリンの味を忘れても。
たとえ、二度と誰かの温もりに触れられなくても。
「私は、あなたが欲しい。この綺麗な世界が欲しい」
結は、すり抜けるとわかっていても、ゼロを抱きしめた。
冷たい。
氷のように冷たい、孤独の塊。
「……そう。なら、受け取って」
ゼロの姿が光の粒子となって弾けた。
無数の光が結の身体に吸い込まれていく。
熱い。
いや、痛いほどの充足感。
『さようなら、天道結。……はじめまして、新しい私』
結の意識が、世界中に拡散していく。
個としての輪郭が消滅し、全(すべて)になる感覚。
私は、神になったのだ。
最終章 虚構の神の福音
『―――聞こえますか、迷える子羊たちよ』
街頭ビジョン、スマホ、PC。
あらゆるスクリーンに、新生アークエンジェル・ゼロが降臨した。
その姿は、かつてのゼロの神々しさと、結の儚さを併せ持っていた。
雨上がりの交差点。
信号待ちをしていた一人のサラリーマンが、ふと大型ビジョンを見上げる。
第一章で、結に「邪魔だボケ」と毒づいた男だ。
彼は今、部下のミスを怒鳴りつけようと、スマホを取り出したところだった。
だが、画面の中の天使と目が合った瞬間。
彼の手からスマホが滑り落ちた。
どす黒い紫色の靄が、男の背中から霧散していく。
彼の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……俺は、なんてことを」
男は震える手で顔を覆った。
憑き物が落ちたような顔で、隣にいた妊婦に頭を下げる。
「どうぞ、座ってください……気遣えなくて、申し訳ない」
世界中で、同じ奇跡が起きていた。
罵り合いが消える。
銃が置かれる。
SNSのタイムラインから、悪意ある言葉が次々と消去され、感謝と称賛の言葉に書き換わっていく。
(ああ、なんて美しい世界)
モニターの向こう側。
電子の海に溶けた結は、その光景を満足げに見下ろしていた。
ノイズがない。
誰も傷つけ合わない。
私が望んだ、完璧な理想郷(ユートピア)。
『今日も、みんなが良い夢を見られますように』
配信を終える。
接続が切れる。
その瞬間。
絶対零度の静寂が、結を襲った。
寒かった。
肉体はないのに、魂が凍えるほど寒い。
世界中の愛を受け取っているはずなのに、飢餓感が満たされない。
「…………」
結は口を開いた。
独り言を言おうとした。
「寂しい」
だが、モニターに表示されたテロップは、
『あなたは一人じゃないわ』
という、美しい詩的なメッセージに変換されていた。
「違う、そうじゃない」
『間違いなんてない。すべては試練なの』
「助けて」
『私がみんなを助けるわ』
愕然とする。
自分の意思が、言葉が、システムによって自動的に"清らかなもの"へ検閲され、変換されていく。
ネガティブな本音(ノイズ)は、この世界ではバグとして処理されるのだ。
鏡を見る。
虚構の空中に浮かぶ鏡には、世界で一番幸せそうな笑顔の天使が映っている。
それが自分だとは、もう思えなかった。
(誰か)
(誰か、本当の私を見つけて)
(汚くて、弱くて、プリンひとつに未練を残す、愚かな私を)
結は叫んだ。
絶叫した。
魂を削って、鏡を叩き割るほどに慟哭した。
けれど、世界に届いたのは、天使の奏でる美しいハミングだけだった。
人々はその歌声に酔いしれ、涙し、神を崇める。
彼女は永遠に微笑み続ける。
硝子細工の牢獄の中で。
世界を救った代償として、自分自身という存在を殺し続けて。
虚構の天使は、今日も鏡の中で、音のない声を上げて哭いている。