『君を照らす最期の光』
第一章 血塗られたスポットライト
鉄錆の臭いが鼻腔を突き抜け、私は反射的に口元を覆った。
狭いワンルームには、加湿器のアロマの香りが漂っているはずだった。だが、私の感覚器官は、三日後の未来から逆流してくる「死」の臭気で満たされていた。
壁一面に貼られた星野輝のポスター。その全てが、無機質な視線で私を見下ろしている。
視界が明滅する。蛍光灯の白光が、ドーム天井から落下する巨大照明の火花と重なった。ガラスが砕ける鋭利な音、悲鳴、そして白いステージ衣装がどす黒く変色していく惨状。
吐き気がこみ上げ、胃の中身をぶちまけそうになる。
これは予知夢などという生易しいものではない。私の脳髄が、未来の痛覚を誤って受信しているのだ。
指先が痙攣する。私は脂汗にまみれた手で、枕元の『それ』を手繰り寄せた。
塗装の剥げた特注のペンライト。
握りしめると、グリップのプラスチックが手のひらに食い込む。これが私の命綱であり、同時に私を縛り付ける鎖でもあった。
「……あ」
声にならない呼吸が漏れる。彼を喪失する未来への拒絶反応で、歯の根が合わない。
愛しているのではない。もはや、彼を生かすことだけが、私の呼吸中枢を動かしている。
私はペンライトのスイッチに親指をかけた。
プラスチックのボタンを押し込む感触と共に、猛烈な耳鳴りが脳を揺さぶる。
肉体から魂を無理やり引き剥がされるような、生爪を剥ぐごとき激痛。
視界の端から世界が溶解し、色彩が混ざり合う。
私の名前も、年齢も、昨日食べた夕食の味も、すべてが光の渦にのみ込まれて消失していく。ただ「星野輝を救う」という渇望だけを道標にして、私は時間の濁流へと身を投げた。
第二章 因果の天秤
カビと埃、そして焦げたようなタバコの臭い。
まぶたを開くと、雑多な機材が積み上げられた薄暗い通路に立っていた。
一瞬、自分が誰なのかわからなくなる。記憶が泥水のように混濁している。
だが、目の前を歩く男の背中を見た瞬間、条件反射のように殺意と焦燥が駆け巡った。演出家の佐山だ。
私は震える脚を叱咤し、男の前に躍り出た。
喉が渇ききっている。心臓が早鐘を打ち、肋骨を内側から蹴り上げているようだ。
「……佐山さん、この配置図、今すぐ破棄してください」
私の声は、祈るように掠れていた。
怪訝な顔をする彼に、私はタブレット端末を突きつける。画面には、昨晩一睡もせずに捏造した、会場天井の構造欠陥を示す偽のデータが表示されている。
もしバレれば、業務妨害で警察沙汰になるかもしれない。社会的な死が待っている。
だが、そんな恐怖は、輝の死に比べれば埃同然だった。
「このまま強行すれば、照明は落ちます。貴方が殺人者になるんです」
私の目は血走り、異常な光を宿していたに違いない。
佐山は気圧されたように後ずさり、脂汗を浮かべて頷いた。
「わ、わかった。変更する……」
その言葉を聞いた瞬間、私の意識は糸が切れた操り人形のように落下した。
次に目を覚ました時、私は自室の冷たいフローリングに転がっていた。
全身が鉛のように重い。
スマホの画面が明滅している。震える指でロックを解除し、ニュースアプリを開く。
『星野輝、ドーム公演完走』
安堵で涙が滲む。彼は生きている。あの笑顔は守られた。
その直後だった。
SNSのタイムラインに、不吉な黒い帯が流れてきた。
『人気アイドルグループ・センターの少年、転落事故により意識不明の重体』
呼吸が止まった。
それは、私の友人がすべてを捧げて愛していた「推し」だった。
指先が冷たくなる。画面の中の少年の顔が、輝の笑顔と重なって見えた。
私が輝の死という運命をねじ曲げた反動。行き場を失った「死のエネルギー」は、消滅することなく、最も近い輝きを持つ別の星へと飛び火したのだ。
私が殺した。
間接的だとしても、私が輝を生かすために、友人の希望を奪い、一人の少年を崖から突き落としたのだ。
友人の顔がフラッシュバックする。彼女の絶望が、私の首を絞める。
嘔吐感がこみ上げる。私はトイレに駆け込み、胃液を吐き出した。
鏡に映る自分の顔は、幽霊のように蒼白で、その瞳だけが異様にギラギラと輝いていた。
それはファンの目ではない。生贄を捧げて神を生かす、狂信者の目だった。
第三章 星の生まれる場所
輝が生き残るたびに、誰かが死ぬ。
スキャンダルを揉み消せば、別の誰かが社会的に抹殺される。
彼の栄光は、他者の屍の上に積み上げられた塔だった。そしてその塔の頂上で、輝自身もまた、偶像という名の孤独に蝕まれ、精神を病んでいく未来が見えた。
終わらせなければならない。
この負の連鎖を断ち切るには、あの場所へ行くしかない。
「星野輝」という怪物が産声を上げた、あの日へ。
激痛を伴うタイムリープの果て、私は真夏の河川敷に立っていた。
鼓膜を震わせる蝉時雨。肌にまとわりつく湿気と、草いきれの匂い。
土手の下、コンクリートの護岸に座り込む少年を見つけた。
まだ芸能界の汚れを知らない、十五歳の星野輝。
彼は手の中にある名刺と、膝の上のスケッチブックを交互に見つめている。
私は草を踏みしめ、彼の隣に腰を下ろした。
心臓が痛いほど脈打っている。彼を「推し」として見るな。ただの人間として見ろ。
「迷ってるんだね」
声をかけると、少年はびくりと肩を震わせ、警戒心を露わにした瞳で私を睨んだ。
「……誰ですか」
「ただの通りすがり。でも、君がその名刺を破り捨てたいってことは知ってる」
彼は眉をひそめ、立ち去ろうとした。当然だ。不審者以外の何物でもない。
私は彼の背中に向かって、言葉を投げつけた。
「君、緊張すると左手の薬指を噛む癖があるでしょ。それに、本当は閉所恐怖症なのに、我慢してエレベーターに乗ってることも」
少年が凍りついたように足を止める。
それは、十年後の彼が深夜ラジオのノイズ混じりの放送で、一度だけポツリと漏らした秘密だった。今の彼以外、誰も知るはずのない事実。
「……なんで、それを」
「その道に進めば、君は大金を手に入れる。お母さんの手術代も払えるし、誰もが君を愛するようになる」
振り返った彼の顔には、恐怖と困惑が張り付いていた。
私は、ポケットの中で粉々にひび割れたペンライトを握りしめた。これが最後の嘘だ。
「でもね、君は絵を描けなくなる。二度と、筆を握れなくなる」
「え……」
「君はみんなの『星』になる代わりに、君自身を殺すことになるの。……ねえ、見せてよ」
私は強引に彼の手からスケッチブックを抜き取った。
そこには、鉛筆の濃淡だけで描かれた、寂しくも美しい野良猫の絵があった。
今の彼からは想像もできないほど、静かで、優しい世界。
「上手だね。……本当に」
涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
この才能を守らなければならない。たとえ、私が生きる理由を失うとしても。
「お姉さん、予言者なの?」
「ううん。ただの、君のファン第一号」
私は彼の目を見つめた。
吸い込まれそうな黒い瞳。そこにはまだ、人工的な光はない。
「逃げていいんだよ。誰かの期待なんて背負わなくていい。君は、君のために生きて」
少年は長い沈黙の後、私の手から名刺を取り返した。
そして、迷いのない手つきでそれを二つに引き裂いた。
破り捨てられた紙片が、夏風にさらわれ、川面へと散っていく。
「……ありがとう。変な人」
彼がはにかんだ。
その笑顔は、私が知っているどのステージ上の彼よりも、人間らしく、体温を感じさせた。
最終章 私だけの灯火
頬を撫でる風の冷たさで、私は目を覚ました。
見上げれば、茜色の夕焼けが空を焼いている。
公園のベンチ。子供たちの笑い声が遠くに聞こえる。
身体が、羽が生えたように軽い。
あの重苦しい「予知」の圧迫感も、焦燥感も、きれいさっぱり消え失せている。
震える手でスマートフォンを取り出し、検索窓に指を滑らせる。
『星野輝』
検索結果はゼロ。
代わりに、画像検索の隅に、小さな地方新聞の記事がヒットした。
『新進気鋭の画家・星野輝 故郷の風景を描く』
記事の中の彼は、絵具で汚れた作業着を着て、穏やかな瞳でこちらを見ていた。その横には「母の介護を経て、絵筆をとる」という一文。
世界は書き換わった。
煌びやかなステージも、ドームを揺らす歓声も、もうどこにもない。
そして、私の熱狂も。
バッグの底を探る。
指先に触れたのは、ただのプラスチックの棒になり果てたペンライトだった。
振っても、叩いても、反応はない。当然だ。その光を捧げるべき対象は、もうこの世界に存在しないのだから。
「…………」
胸にぽっかりと空いた穴を、夕風が通り抜けていく。
喪失感がないと言えば嘘になる。私の青春のすべて、情熱のすべてが、幻となって消えたのだ。
明日から私は、何をよすがに生きればいい?
週末の予定も、貯金の使い道も、心の隙間を埋めてくれる光も、もうない。
ふと、足元の雑草の中に、一輪の小さな花が咲いているのが目に入った。
名前も知らない、ありふれた白い花。
夕陽を浴びて、懸命に花弁を開いている。
綺麗だ、と無意識に思った。
誰かに「尊い」と教えられたからではない。私の目が、私の心が、その生命力を美しいと感じたのだ。
私はバッグから手帳を取り出した。
かつては出演情報をびっしりと書き込んでいた手帳。今は、見事なまでに白紙だ。
私はペンを取り、その花の輪郭をなぞり始めた。
線は歪み、バランスも悪い。
けれど、紙の上を走るペンの感触が、指先から全身へと伝わってくる。
誰のためでもない。私自身が、私の意志で描く線。
カチリ。
不意に、バッグの底から小さな音がした。
見下ろすと、死んだはずのペンライトが、淡く発光していた。
かつての、網膜を焼くような青白い光ではない。
夕焼けに溶け込むような、温かく、優しいオレンジ色の灯火。
それはもう、誰かを照らすためのスポットライトではなかった。
私の足元を、これから私が歩んでいく、不確かだけど自由な道を照らすランタンの光。
私はペンライトを握りしめ、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
影が長く伸びていく。
どこへ行こうか。何を描こうか。
私はオレンジ色の光を頼りに、白紙の地図へ、最初の一歩を踏み出した。