氷の薔薇は星を砕く
第一章 硝子の檻と熱狂の信仰
王宮の大広間は、腐りかけた果実のような甘い倦怠に満ちていた。
蜜蝋の焦げる匂い。白粉の粉っぽい香り。そして、見えざる鎖に繋がれた貴族たちが発する、脂じみた安堵の体臭。それらが混ざり合い、吐き気を催すほどの芳香となって滞留している。
その澱んだ空気の中心に、エルシー・フォン・グロリアは立っていた。
銀の髪は凍てついた滝のように背を流れ、深蒼のドレスは闇夜そのものを切り取ったかのように重い。扇で口元を覆うその姿は、彫像のように完璧で、また冷酷だった。
パシャン、と何かが弾ける音がした。
広間の隅で、給仕の少年がワインの盆を取り落としたのだ。赤い液体が絨毯に広がる。
少年の顔色が蝋のように白くなったのは、失敗を悔いたからではない。天井を見上げたからだ。
シャンデリアのさらに上。虚空に浮かぶ『星図』のモザイク画が、ぎろりと赤く瞬いた。
「あ……あぁ……申し訳、ござい……!」
少年の言葉は続かなかった。
見えざる重圧が彼を押し潰した。骨が軋み、眼球が飛び出しそうになる。
『星辰の理』。役割を全うせぬ者に下される、絶対的な粛清。給仕は「完璧に仕える」という役割を損なった。ただそれだけで、星は彼を不要な部品として廃棄しようとしている。
誰も助けない。誰も見ようとしない。関われば自分も「役割外」の行動をとったとみなされるからだ。少年は泡を吹き、痙攣して床に伏した。衛兵がゴミのように彼を引きずり出していく。
エルシーは扇の隙間からその光景を一瞥し、冷ややかに目を細めた。
「不愉快ですわね。壊れた玩具はさっさと捨てなさい」
氷点下の声。周囲の令嬢たちが震え上がり、蜘蛛の子を散らすように道を開ける。
完璧だ。
これこそが『悪役令嬢』。星が彼女に強制した、残酷で傲慢な舞台装置。
だが、誰も知らない。
扇の下で、エルシーの奥歯が砕けんばかりに噛み締められていることを。
ドレスの下、コルセットに締め付けられた心臓が、早鐘のように肋骨を叩いていることを。
(来た……!)
視界の端に、白亜の影が映った。
全身の血液が沸騰し、指先まで熱が奔る。呼吸が浅くなるのを悟られぬよう、エルシーは己の太腿に爪を立てた。痛みで正気を保つ。
人垣が割れ、ロデリック・アークライトが歩み寄ってくる。
夜の底のような黒髪。全てを断罪する黄金の瞳。
彼は、先ほど引きずられていった給仕の血痕を、痛ましげに見つめていた。その横顔に浮かぶ苦渋。眉間に刻まれた、世界への微かな疑念と怒り。
エルシーの視界が滲む。
美しい。
あの憤りこそが英雄の証。この腐った『理』に飼い慣らされていない、唯一無二の輝き。
彼だけが、この狂った脚本に抗う可能性を秘めた特異点。
ロデリックが顔を上げ、エルシーを射抜いた。その瞳には、隠しきれない嫌悪が宿っている。
「エルシー嬢。君には人の心が無いのか」
低く、腹の底に響く声。
その音波が肌を撫でた瞬間、エルシーの背筋に電流のような戦慄が走った。膝が崩れそうになるのを、必死の矜持で堪える。
ああ、もっと。もっと私を蔑んで。貴方のその清廉な正義で、私という『悪』を焼き尽くして。
エルシーは顎を上げ、あえて口角を歪めた。練習に練習を重ねた、極上の嘲笑。
「人の心? 下らない。そんな不確かなもので、国が回るとお思い? 騎士団長様、貴方は剣の腕は立つけれど、頭の中はお花畑のようですわね」
ロデリックの手が剣の柄にかかる。革手袋が軋む音。
殺気。
純粋で鋭利な殺意が、エルシーの喉元に突きつけられる。
最高の気分だった。彼が私を殺したいと願うほど、彼は『悪を討つ英雄』としての完成に近づく。
「……言葉を慎め。君が公爵令嬢でなければ、今ここで斬り捨てている」
「あら、怖い。でも残念ね。星は私に『権力』という役割を与えたの。貴方ごときが手出しできる存在ではなくてよ」
エルシーは翻り、彼に背を向けた。
これ以上は持たない。彼の憎悪を正面から浴び続けるには、心臓が持たなすぎる。歓喜と罪悪感が綯い交ぜになり、胃液が逆流しそうだった。
逃げるようにバルコニーへ出る。
夜風は冷たかったが、火照った頬を冷やすには足りない。
エルシーは震える手で懐を探り、革袋から『それ』を取り出した。
ずしりと重い、真鍮と宝石の筒。『星屑の万華鏡』。
表面には無数の棘のような装飾があり、握るたびに掌に食い込む。
「……確認を。彼の未来を」
エルシーは脂汗を浮かべながら、筒を右目に押し当てた。
ギチリ。
万華鏡を回す音は、骨を砕く音に似ていた。
色彩が反転する。
美しい夜空が、内臓のような赤黒さに塗りつぶされる。
『……裏切り者には死を』
視えたのは、断頭台だった。
そこに引き立てられているのは、ロデリックだ。
彼の美しい顔は無残に腫れ上がり、白亜の軍服は泥と汚物で汚されている。
広場を埋め尽くす民衆が、石を投げ、罵声を浴びせている。
『秩序を乱した愚か者』『星に逆らった罪人』
空には巨大な目が浮かび、彼をあざ笑っていた。
ロデリックは何かを叫ぼうとしているが、舌を抜かれているのか、血の泡が溢れるだけだ。
ギロチンの刃が落ちる――。
「ひっ……!」
エルシーは万華鏡を引き剥がした。右目の周りに、筒の跡が赤く残る。
嘔吐感がこみ上げ、手すりにしがみついて乾いたえずきを繰り返した。
(違う。こんな未来、認めない)
ロデリックが『正義』を貫こうとすれば、星はこのように彼を『反逆者』として処理する。
彼が真の英雄になろうとすればするほど、世界は彼を排除しようとする。
彼を救う道は一つしかない。
彼が星に牙を剥くのではなく、星が定めた『悪』――すなわち私を討つことで、星の理(システム)の内側で『正当な英雄』としての地位を確立させること。
あるいは……私が、星ごと砕け散るか。
エルシーは充血した目で、頭上の星々を睨みつけた。
無数に瞬く光の点が、すべて監視カメラのレンズのように見えた。
「絶対に……殺させない。彼を、あんな惨めな肉塊にはさせない」
指の隙間から血が滲むほど、万華鏡を握りしめる。
「私が最高の悪役になってあげる。彼が迷わず剣を突き立てられる、極上の怪物に」
第二章 歪んだ鏡像と星の囁き
決戦の日。『聖誕祭』まで、あと三日。
エルシーの私室は、狂気じみた作業場と化していた。
床一面に散らばる羊皮紙。そこには、エルシー自身が捏造した『グロリア公爵家の陰謀』の詳細が記されている。
国庫の横領、隣国との内通、王族暗殺計画。
どれも架空の罪だが、証拠は完璧に作り上げた。筆跡を偽装し、古い印章を偽造し、金で買収した証言者を用意した。
「くっ……う……」
ペンを走らせる指が痙攣する。
インク壺の横に置かれた万華鏡が、ジリジリと不快な音を立てていた。
この魔道具は、所有者の精神を削る。未来を覗く代償として、所有者の「存在の重み」を少しずつ喰らっているのだ。最近では、鏡に映る自分の顔が薄く透けて見えることさえあった。
ふと、机の隅にあるスケッチブックが目に入った。
エルシーの手が止まる。
震える指先で、そっと表紙を開く。
そこには、ロデリックの姿があった。
剣を振るう勇姿ではない。
花壇の隅で野良猫に餌をやるときの、困ったような優しい笑顔。
部下の報告を聞くときの、真剣な横顔。
遠くから盗み見続け、脳裏に焼き付けた『私の推し』の、誰も知らない表情。
鉛筆の線は荒いが、そこには魂がこもっていた。
これだけが、エルシー・フォン・グロリアという人間が持っていた、唯一の『私情』。
悪役令嬢としての仮面の下にあった、ただの恋する少女の祈り。
「……残したい」
呟きが漏れた。
私が死ねば、全ては闇に葬られる。この想いも、彼への愛も。
でも、せめてこの絵だけは。彼が孤独ではないと証明するこの記録だけは。
エルシーは引き出しから、小さなナイフを取り出した。
そして、万華鏡の表面を飾る宝石の一つ――鋭利な『記憶の琥珀』を無理やり抉り出した。
ガリッ、と嫌な音がして、ナイフが滑り、指先を切った。
鮮血が滴り、琥珀にかかる。
彼女はその血濡れた琥珀を、スケッチブックの留め具に押し込んだ。
魔力が反応し、琥珀が紙束と融合する。
これでいい。万華鏡の破片が『楔』となり、このブックだけは世界の改変から外れるかもしれない。保証はない。だが、縋るしかなかった。
「……エルシー様」
扉越しに、老執事の声がした。彼もまた、金で雇った『裏切り者』役の一人だ。
「ロデリック卿が、動きました。貴女様の流した情報を掴み、騎士団を動員しています」
「そう。……早かったわね」
エルシーは涙を拭い、立ち上がった。
鏡の中の自分に向かって、にやりと笑ってみせる。
顔色は死人のように青白く、目の下には隈がある。だが、その瞳だけは爛々と燃えていた。
狂女の顔だ。完璧だ。
「さあ、仕上げよ。ロデリック様」
彼女はドレスの裾を翻した。
「私を殺しに来て。貴方のその手で、私を地獄へ叩き落として」
窓の外で、星々が嘲笑うように明滅した。
システムが、シナリオのクライマックスに向けて収束を始めている。
第三章 断罪の舞踏、崩壊の序曲
聖誕祭の夜。
王城の大広間は、祝祭の場から処刑場へと変貌していた。
ステンドグラスを突き破り、武装した騎士たちが突入してくる。
悲鳴。怒号。グラスが砕ける音。
その混沌を切り裂くように、ロデリックの雷鳴ごとき一喝が轟いた。
「そこまでだ、エルシー・フォン・グロリア!」
彼は抜剣し、切っ先をエルシーに向けた。
その刃はシャンデリアの光を反射し、冷徹な輝きを放っている。
彼の背後には、正義に燃える近衛兵たち。そして、エルシーの悪行(と信じ込まされたもの)に憤る貴族たちの視線。
数千の敵意が、エルシー一人に注がれていた。
大階段の上、エルシーは孤高に立っていた。
深紅のドレス。それは返り血の色であり、罪人の色だ。
彼女は扇を捨て、両手を広げた。
「お待ちしておりましたわ、騎士団長様。……いいえ、英雄ロデリック」
声が震えそうになるのを、腹に力を入れてねじ伏せる。
ロデリックの目は、かつてないほど冷たく、そして激しい怒りに燃えていた。
「数々の不正、横領、そして王家転覆の企て……全ての証拠は揃っている。これ以上、君の茶番には付き合えない」
「茶番? ふふ、ふふふふふ!」
エルシーは喉が裂けるほど笑った。狂気を演出するために。
「茶番ですって? これは革命よ! 星の言いなりになるだけの無能な王家に代わり、私がこの国を支配する。それが『星辰の理』をも超える、私の覇道!」
「黙れ!」
ロデリックが叫んだ。
「君の欲望のために、どれだけの人が泣いたと思っている! 役割など関係ない、君はただの、醜悪な犯罪者だ!」
その言葉が、槍のようにエルシーの胸を貫いた。
『醜悪な犯罪者』。
痛い。痛くてたまらない。
でも、それでいい。彼の中で、私は一片の慈悲も抱かせない『絶対悪』でなければならない。
そうでなければ、彼は私を殺した後、悔やんでしまうかもしれないから。
(嫌って。憎んで。私を殺すことに、微塵の迷いも持たないで)
エルシーは懐から万華鏡を取り出した。
それは今や、禍々しい紫煙を上げ、周囲の空間を歪ませていた。
「さあ、見せてあげるわ。星の力を!」
彼女は万華鏡を掲げた。
だが、狙いはロデリックではない。
天井のガラスドーム。その向こうに広がる、満天の星空だ。
「星々よ! 私の憎悪を喰らい、その理を呪うがいい!」
彼女はありったけの魔力を万華鏡に注ぎ込んだ。
血管が浮き上がり、皮膚が裂ける。
万華鏡は熱を帯び、彼女の手のひらを焦がした。肉が焼ける臭いが鼻をつく。
痛い。熱い。
だが、離さない。
「エルシー、何を――!?」
ロデリックが異変に気づき、階段を駆け上がる。
遅い。
エルシーは血まみれの手で、万華鏡の筒を『逆』に回した。
未来を見るのではなく、現在を破壊するために。
バヂヂヂヂヂッ!!
万華鏡から放たれたのは、光線などという生易しいものではなかった。
どす黒い『亀裂』だった。
空間そのものに走った亀裂が、天井のガラスごと、星空へ向かって疾走した。
空が、悲鳴を上げた。
キィィィィィィィンという金属音が世界を覆い、人々は耳を塞いでうずくまった。
星の配列が乱れる。星座が崩れ落ちる。
『星辰の理』という巨大なシステムが、強制的にシャットダウンされていく。
「やめろぉぉぉっ!!」
ロデリックの剣が、エルシーの肩口を捉えた。
鮮血が舞う。
だが、エルシーは倒れない。万華鏡にしがみつき、自らの命を燃料にして崩壊を加速させる。
(ロデリック様……貴方は何も知らなくていい)
(私が悪魔だったと、そう信じたまま生きて)
彼女の視界の中で、ロデリックの顔が歪んでいた。
怒り? 恐怖? それとも、理解不能なものへの畏怖?
彼は決して、彼女の愛になど気づかない。
その断絶こそが、エルシーの望んだ救いだった。
第四章 世界から忘れ去られる祈り
「砕けろぉぉぉっ!!」
エルシーは絶叫し、焼けただれた両手で万華鏡を床石に叩きつけた。
グシャッ。
ガラスの砕ける音と共に、生々しい肉の潰れる音が響いた。
万華鏡の破片が彼女の手に、顔に、全身に突き刺さる。
痛みは限界を超え、感覚が麻痺していた。
その瞬間、世界の色が抜けた。
音も、光も、匂いも、全てが遠ざかる。
砕け散った万華鏡の中心から、『虚無』が溢れ出した。
それは星の理を喰らい尽くし、そしてその原因となった特異点――エルシー・フォン・グロリアを消去し始めた。
「エルシー!」
ロデリックの声が聞こえた気がした。
彼は剣を振り下ろした体勢のまま、固まっていた。
彼の剣は、もう空を切っている。
そこにいたはずの『悪女』の実体が、砂のように崩れ始めていたからだ。
足元から、指先から、エルシーの体が光の粒子となって分解されていく。
因果の修正。
システムを破壊したバグは、最初から存在しなかったものとして処理される。
(ああ……体が、軽い)
エルシーは薄れゆく意識の中で、ロデリックを見上げた。
彼は驚愕に目を見開き、崩れゆく彼女を掴もうと手を伸ばしていた。
だが、その手は虚しく空を掴むだけ。
「な……何だ、これは……!」
ロデリックの困惑した顔。
それさえも、今のエルシーには愛おしかった。
歴史が書き換わる。
人々の中から『エルシー』という名前が消えていく。
彼女が犯したとされる罪も、彼女が紡いだ悪名の数々も。
そして、ロデリックが彼女に向けていた憎悪さえも。
(さようなら、私の愛しい英雄様)
唇が動いたが、声にはならなかった。
最後に残った右目が、彼の姿を捉える。
万華鏡越しではない、ありのままの彼。
星の鎖から解き放たれ、ただの人間としてそこに立つ彼。
(貴方が自由に生きられるなら、私が消えることなんて、安い代償だわ)
光が飽和した。
エルシー・フォン・グロリアは、笑顔のまま弾け飛んだ。
広間には、静寂だけが残った。
床には、砕けた万華鏡の残骸さえ残っていない。
ただ、ロデリックだけが、訳も分からず涙を流して立ち尽くしていた。
彼の手は、何かを掴もうとした形のまま、空中で震えていた。
「……私は、何を斬ろうとしていたんだ?」
彼は空っぽの手を見つめ、呟いた。
胸にぽっかりと開いた穴。その理由を、彼はどうしても思い出すことができなかった。
天井の亀裂からは、見たこともないほど澄んだ、夜明けの光が降り注いでいた。
第五章 名もなき愛の残り香
一年が過ぎた。
王国は黄金期を迎えていた。
『星辰の理』という古い迷信は廃れ、人々は己の才覚で生きる道を切り開いていた。
その先頭に立つのは、若き宰相ロデリック・アークライト。
かつての武人は剣を置き、今はペンと言葉で国を支えていた。
彼は執務室で、山積みの書類と格闘していた。
充実した日々。国民からの信頼も厚い。
全てが順調だった。
だが、夜になると、奇妙な喪失感に襲われることがあった。
まるで、体の半分をもがれたような感覚。
大切な何かを、どこかに置き忘れてきたような焦燥感。
「宰相閣下。グロリア家の旧領地から回収された品々ですが……処分してよろしいでしょうか」
部下の言葉に、ロデリックは顔を上げた。
グロリア家。かつての名門だが、なぜ取り潰されたのか、記録が曖昧だった。当主たちが流行り病で死に絶えたとも、事故だったとも言われている。
「……待て。私が目を通す」
なぜか、胸が騒いだ。
運ばれてきた木箱の中身は、ガラクタばかりだった。
埃を被った装飾品。虫食いだらけの書物。
ロデリックはため息をつき、箱を閉じようとした。
その時、箱の底に挟まっていた一冊のスケッチブックが目に入った。
表紙には、琥珀色の鋭利な宝石が突き刺さっている。まるで、何かに抗って封印されたかのように、その宝石は紙束を貫き、赤黒い錆のような色で汚れていた。
血の跡だ。
「これは……」
ロデリックは指先を震わせながら、琥珀を引き抜いた。
固く閉ざされていたページが開く。
息が止まった。
そこに描かれていたのは、彼自身だった。
今の彼ではない。もっと若く、険しい顔をしていた頃の自分。
ページをめくる。
剣の稽古をする自分。
馬の手入れをする自分。
眉間に皺を寄せて空を見る自分。
数え切れないほどのロデリックが、そこにはいた。
絵のタッチは、稚拙だが、狂おしいほどの熱量を持っていた。
線の端々に、描いた者の鼓動が聞こえるようだ。
執着。崇拝。そして、押し潰されそうなほどの切ない愛情。
誰だ。
誰が、こんなにも僕を見ていた?
誰が、こんなにも僕を愛していた?
ロデリックの手が止まる。
最後のページ。
そこには、自分を描いたものではない、唯一の肖像画があった。
銀の髪を高く結い上げ、傲慢そうに、けれど今にも泣き出しそうな瞳で微笑む少女。
彼女の顔を見た瞬間、ロデリックの脳裏に、強烈な痛みが走った。
『目障りですわね』
『貴方が剣を振るえば熱くなるのではなくて?』
『……さようなら』
記憶の蓋が、内側から吹き飛んだ。
氷のような冷たい声。
その裏に隠された、震える指先。
バルコニーで背中を向けた彼女の、華奢な肩。
そして、光の中で消えゆく瞬間の、聖母のような微笑み。
「……エルシー……」
名前を口にした途端、世界の歪みが修正された。
彼女がいた。確かにそこにいた。
世界を守るために、僕を守るために、自ら悪となって、世界ごと自分を殺した少女。
僕は彼女を憎んでいた。殺そうとさえした。
彼女の真意など何一つ知らず、彼女が血を流して掴み取ったこの平和の上で、のうのうと英雄気取りで生きていた。
「あっ……あぁ、ぁぁぁぁ……ッ!!」
ロデリックはスケッチブックに顔を埋め、慟哭した。
喉が張り裂けるほどの絶叫。
どれだけ叫んでも、どれだけ悔やんでも、彼女はもういない。
彼女が命を削って守ったこの世界には、彼女の席だけが用意されていないのだ。
スケッチブックに落ちた涙が、血の跡を滲ませる。
最後のページの隅に、震える文字で、走り書きが残されていた。
『私の推しが、いつか心から笑えますように』
それは呪いのような、祝福だった。
彼女は知っていたのだ。自分が忘れられることも、二度と報われないことも。
それでも彼女は、この結末を選んだ。
僕の笑顔を守るためだけに。
「笑えるわけ、ないだろう……」
ロデリックは泣き崩れたまま、彼女の絵を抱きしめた。
しかし、窓から差し込む夕日は、残酷なほどに優しく、暖かかった。
彼女が愛した世界は、今日も美しく回っている。
長い時が過ぎ、ロデリックは顔を上げた。
目は赤く腫れ、胸の痛みは消えない。一生、消えないだろう。
それが、彼女を殺して生き残った、自分の受けるべき罰であり、彼女と共に生きる唯一の方法だから。
彼はペンを取り、スケッチブックの隣に置いた。
そして、執務に戻るために背筋を伸ばした。
鏡に映る自分の顔は、以前とは違っていた。
ただの英雄の顔ではない。
一人の少女の愛を背負い、その祈りに応えるために生きると決めた、一人の男の顔だった。
「見ていてくれ、エルシー」
彼は誰もいない虚空に、微かに、しかし力強く微笑みかけた。
「君が命を懸けたこの世界を、僕は絶対に幸せにしてみせる」
風が吹き抜け、スケッチブックのページがめくれた。
そこには、未来のロデリックが、柔らかな表情で誰かと手を取り合っている――叶わなかった夢のスケッチが、夕陽に照らされて輝いていた。