硝子のプリズム、あるいは希望の色彩について

硝子のプリズム、あるいは希望の色彩について

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第一章 透明な万華鏡

七月の湿った風が、教室の窓枠をガタガタと揺らしている。

僕、如月レンの視界は、今日もノイズで埋め尽くされていた。

右隣の席、男子生徒が教科書をめくる指先から、焦げ茶色の煤が舞い上がる。肺の奥にへばりつくような粉っぽい気配。テストへの焦燥だ。前席の女子生徒の背中からは、蛍光ピンクの粘液が絶えず湧き出しては弾けている。甘ったるい腐臭を伴う、浮ついた期待。

世界はいつだって極彩色の暴風雨だ。

怒りは煮えたぎるタールのように皮膚を焼き、悲しみは砕けた氷の刃となって鼓膜を切り裂く。

僕はシャツの上から胸元を強く握りしめた。布越しに伝わる、ひんやりと硬い感触。「無色のガラスペンダント」。物心ついた時から肌身離さず身につけている、この騒がしい世界で僕を繋ぎ止める唯一の錨だ。

「おい、レン。聞いてんのか?」

肩を小突かれた瞬間、ドロリとした深紅の熱波が僕の二の腕に流れ込んできた。

苛立ち。

反射的に奥歯が鳴る。熱した鉛を流し込まれたように、二の腕の筋肉が強張り、胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。他人の感情は、触れれば触れるほど僕自身の輪郭を侵食し、溶かしていく。

「……聞いてるよ。ノートなら貸す」

喉の奥で悲鳴を殺し、相手の目を見ずにノートを差し出す。深紅の色が、少しだけ薄いオレンジへと和らぐ。熱が引くと同時に、今度は酷い悪寒が走った。

逃げるように教室を出て、トイレの鏡の前に立つ。

冷たい水を顔に叩きつけ、濡れた前髪の隙間から鏡の中の自分を睨んだ。

そこには、何も映っていなかった。

物理的な肉体はある。眼球も、鼻も、口もある。だが、その内側にあるはずの「感情の色」が、僕には一色たりとも見えない。周囲の極彩色に対し、僕だけが世界から切り取られたような空洞。精巧なガラス細工の人形。

「……空っぽだ」

ペンダントを指で弾く。どんな光も反射せず、ただ透過させるだけの無機質なガラス。

僕は誰かの色を映すだけの、出来損ないの鏡なのか。

排水溝に吸い込まれる水の音が、僕の空虚な心にゴボゴボと虚しく響いた。

第二章 蝕まれる黄金

アイリス学園の地下ラウンジは、防音壁によって外界の雑音が遮断されている。

ここだけが、僕にとって息ができる場所だった。

「レン、紅茶が入ったわよ。今日はアールグレイ」

ふわりと柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。

生徒会長のセラが、湯気の立つカップを僕の前のローテーブルに置いた。彼女は「光」を操る異能を持ち、その身体からは常に神々しいほどの黄金色が溢れ出している――はずだった。

「……ありがとう、セラ」

「ふふ、どういたしまして。あなたといると落ち着くわ。みんな私に『期待』や『羨望』の色を押し付けてくるけれど、あなたはただ、静かな透明でいてくれるから」

セラは微笑み、自身のカップに口をつける。

静寂。僕の「無色」を肯定してくれるのは、世界で彼女だけだ。この穏やかな時間だけが、僕が人間でいられる唯一の証だった。

だが、僕の目は誤魔化せない。

彼女が纏う黄金の輝き、その中心に、腐った沼のようなドス黒い「何か」が渦巻いている。

それは日に日に大きくなり、彼女の内側から肉体を食い破ろうとする寄生虫のように脈打っていた。

「セラ、手を見せて」

「え? どうしたの、急に」

彼女がカップをソーサーに戻す。その時、カチリと硬質な音が鳴った。小指が痙攣している。

僕は躊躇いながら、彼女の手首に触れた。

バチッ。

静電気ではない。神経を直接ヤスリで削られるような激痛が、僕の指先から脳天へと突き抜けた。

「っ……!」

「レン!?」

僕は弾かれたように手を引っ込める。今の感触はなんだ?

セラの体内を荒れ狂っているのは、彼女自身の感情じゃない。

数千人の生徒から吸い上げたであろう、桁違いの「苦痛」と「消耗」。泥のような汚濁が、黄金の皮一枚の下で出口を求めて暴れている。

次の瞬間、セラの背後から溢れる黄金が、突如として黒い泥へと変質した。

「あ、が……っ!」

彼女が喉を掻きむしり、カーペットの上に崩れ落ちる。

「セラ!」

駆け寄り、彼女の背中を支える。

彼女の肌は氷のように冷たく、それでいて内側からは溶岩のような熱を発していた。

(これは……転嫁じゃない)

特別生徒は代償を他人に押し付けているのではない。彼らは「代償の集約点」だ。

学園中の異能者が排出する精神的なゴミ、肉体的な負荷、その全てを一手に引き受け、その身が砕け散るまで濾過し続けるフィルター。それが彼女の役目だったのか。

「触らないで……! 移るわ、あなたまで壊れてしまう……!」

セラが僕を突き飛ばそうとする。涙で潤んだ瞳が、恐怖で見開かれている。

しかし、彼女の意思とは裏腹に、彼女の中のドス黒い泥は、まるで新たな出口を見つけた水のように、僕の「空っぽ」の器へと急速に流れ込み始めていた。

第三章 アキレスの契約

僕はセラを医務室へ運んだあと、立ち入り禁止区域である学園の最深部、「コア」へと足を向けた。

重厚な扉をこじ開けると、そこには異様な光景が広がっていた。

部屋の中央に鎮座する、巨大な水晶体。そこから無数のパイプが天井へと伸び、血管のように壁を這っている。

パイプの中を流れる液体を見て、僕は息を呑んだ。

蛍光ピンク、焦げ茶色の煤、ドロリとした深紅。教室で見た、あの「生徒たちの色」だ。

視線を追う。パイプは学園の居住区画から伸び、一度「特別生徒」の部屋を経由して、このコアへと繋がっている。

逆だ。

エネルギーを供給しているんじゃない。特別生徒というフィルターを通して不純物を濾過し、純粋なエネルギーだけをこの水晶体に吸い上げている。

そして、濾過しきれなかった毒素――「代償」が、セラの体内に蓄積されていたのだ。

「……なるほど。そういう仕組みか」

背後で、乾いた拍手の音が響いた。

振り返ると、学園長が立っていた。彼の周りには色がない。いや、あまりに多くの色を混ぜすぎて、濁った灰色になり果てている。

「見ての通りだよ、如月レン。この学園は巨大な浄化装置だ。世界中に拡散する異能の歪みを処理するための焼却炉。セラ君たちは、その燃えカスを受け止めるための優秀なフィルターだった」

学園長が、灰色の瞳で僕を見下ろす。

「だが、フィルターはいずれ詰まる。交換が必要だ。……君のような、決して溢れることのない『空っぽの容器』とな」

僕の胸元のペンダントが、共鳴するように熱を帯び始めた。

ガラスの中で、何かが脈動している。

――違う。

これは僕を守るためのお守りではなかった。

僕という底なしの「器」が、周囲の感情を無差別に吸収し尽くしてしまわないための、安全装置(リミッター)だったのだ。

「君は適合者だ。そのペンダントがある限り、君はただの無能力者だが……それを外せば、君は世界の全ての痛みを飲み込んでも壊れない、完璧なゴミ箱になれる」

学園長が一歩近づく。

「さあ、そのペンダントを外しなさい。セラの苦痛を取り除いてやりたいのだろう? 君の空虚さは、世界を救うためにあったのだから」

第四章 飽和する無

僕はペンダントを握りしめた。

ガラスの縁が掌に食い込み、じわりと血が滲む。

幼い日の記憶がフラッシュバックする。

あらゆる色が襲いかかってくる恐怖に泣き叫んでいた僕。そんな僕の首に、このペンダントをかけてくれたのは誰だったか。

『これで静かになるわ。もう何も感じなくていいのよ』

それは母の優しさだったのか、それとも怪物に対する封印だったのか。

ペンダントがもたらす静寂は、僕にとって唯一の安寧だった。

これを壊せば、僕は僕でなくなってしまうかもしれない。あの暴風雨の中に、生身で放り出されることになる。

指が震える。怖い。どうしようもなく怖い。

だが、脳裏に浮かぶのは、苦痛に顔を歪めるセラの姿だ。

僕が「空っぽ」であること。それは欠落ではなく、何かを受け入れるための余白だとしたら。

「……僕は、ゴミ箱じゃない」

僕は学園長を睨みつけた。

「僕は、僕の色を見つけるためにここへ来たんだ」

指に力を込める。

ピシリ、と亀裂が入る音。

躊躇いをねじ伏せ、僕はペンダントを引きちぎった。

パリンッ。

硬質な音が響き、透明なガラスが床に落ちて砕け散る。

瞬間。

ダムが決壊したかのような衝撃が僕を襲った。

「ぐ、あああああああッ!」

学園中、いや、このシステムが繋がっている世界中の「代償」が、暴風となって僕の空洞に雪崩れ込んでくる。

焼けるような怒りが血管を走り、溺れるような悲しみが肺を満たし、肉を引き裂くような激痛が神経を焼き尽くす。

数万、数億の色彩が、僕という透明なキャンバスの上で混ざり合い、黒く塗りつぶしていく。

意識が消し飛ぶほどの負荷。眼球から血の涙が流れる。

だが、僕は歯を食いしばり、踵を床に叩きつけて耐えた。

拒絶するな。飲み込まれるな。

これは僕の感情じゃない。だけど、今、僕の中にある。

ならば、これは「僕の一部」だ。

セラから、パイプの先から流れてくる全ての色を、僕は貪るように吸収した。

僕の身体が熱を持ち、発光を始める。

システムのコアである水晶体に亀裂が入った。僕という器がシステムそのものを凌駕し、代償の循環を断ち切っていく。

「馬鹿な……! 器が、許容量を超えているだと!? 貴様、何者だ!」

学園長の狼狽する声が、遠くの泡のように聞こえる。

視界が真っ白に染まる。

激痛が、ある一点を超えて、奇妙な静寂へと変わっていく。

あらゆる色が混ざり合い、飽和し、そして――臨界点を突破した。

最終章 始まりの色

目が覚めると、世界は静まり返っていた。

消毒液の匂い。白い天井。

窓の外には、穏やかな午後の日差しが降り注いでいる。

「……レン?」

おずおずとした声。

ベッドの脇に、セラが座っていた。

彼女の顔色は以前よりずっと良く、あのドス黒い泥は消え失せていた。代わりに、彼女自身の本来の感情――心配と、安堵の混ざった淡い水色が、胸の奥で揺らめいている。

「僕は……」

声を出そうとして、喉が酷く渇いていることに気づく。身体中が軋むように痛むが、不快ではなかった。

「システムは崩壊したわ。みんなの代償は消えた……ううん、あなたが全部、持っていってしまった」

セラは涙ぐみながら僕の手を握る。その手は温かかった。

「ありがとう。でも、あなたは……何も感じなくなってしまったの? あんなに沢山の闇を飲み込んで……」

僕は自分の胸に手を当てた。

かつてそこにあった空虚な穴。風が吹き抜けるだけだった空洞。

今は、そこに重たい鉛のような塊がある。世界中の痛みと苦しみが凝縮された、底知れない闇。

しかし、不思議だった。

その闇のさらに奥深く、極限まで圧縮された感情の地層の下に、微かな、しかし決して消えることのない「光」が見えた。

それは、赤でも青でも、金でもない。

既存のどんな言葉でも形容できない、透き通るような、それでいて強烈な存在感を放つ色彩。

すべてを飲み込み、すべてを許容した果てに生まれた、純粋な輝き。

絶望の底で初めて結晶化した、誰にも奪えない僕の意思。

「……ううん、大丈夫だよ、セラ」

僕は口角を持ち上げた。顔の筋肉が強張らずに動く。たぶん、生まれて初めて、心からの笑顔を浮かべた気がする。

「見えるんだ。以前よりもずっと鮮やかに」

窓の外を見る。空はどこまでも高く、透明に晴れ渡っていた。

そこにある青は、単なる光の散乱ではない。僕の内側にある色彩と共鳴し、歌うような美しさを放っている。

他人の感情に翻弄されることはもうない。この胸の奥にある「始まりの色」が、羅針盤のように僕を導いてくれるから。

「さあ、行こう」

僕はベッドから足を下ろし、床を踏みしめる。

ずしりと重い。だが、その重みこそが、僕が生きている証だ。

この身に宿した世界の重みと共に、僕は歩き出す。

誰かのためのお守りも、硝子の檻も、もう必要ない。

自分自身の足で。自分だけの色を纏って。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**1. 登場人物の心理**
主人公レンは、他者の感情を色として視認し苦しむ「空っぽ」。この「空っぽ」こそが他者の痛みを全て吸収できる「器」であり、最終的に自己受容と「始まりの色」を見出す。生徒会長セラは、システムの「フィルター」として他者の代償を背負わされ苦痛に蝕まれる犠牲者。学園長は、世界の歪み処理という大義のため個人を犠牲にする冷徹な倫理観を持つ。

**2. 伏線の解説**
レンの「無色のペンダント」は、感情から守る「錨」と思われたが、実は彼の吸収能力を抑制する「リミッター」だった。彼の「空っぽ」は欠落ではなく、他者を受け入れる「余白」という逆転の構造が鍵。セラの体内の「ドス黒い泥」は、システムが集約した生徒たちの精神的負荷で、彼女がシステムの犠牲者であることを示唆する。

**3. テーマ**
本作は「自己受容とアイデンティティの確立」「共感の力と犠牲」「システムの倫理と個人の尊厳」を深く問う。レンが他者の絶望を全て飲み込む中で、既存の色を超越した「始まりの色」という希望を見出す過程は、痛みを伴う共感が真の自己を形成し、閉塞した世界に新たな光をもたらす可能性を示唆する。
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