第一章 100ドルの酸素
「警告。酸素残量、あと十五分。推奨、直ちに帰投せよ」
ヘルメットの中で鳴り響く合成音声は、女の声だが色気のかけらもない。俺は舌打ちをして、古びた宇宙服のコンソールを拳で叩いた。
「うるせえな。分かってるよ」
ノイズ混じりの呼吸音が、俺の生きた証のすべてだ。
目の前には、圧倒的な黒と、暴力的なまでに青い地球。
そして、俺がへばりついている巨大な構造物――民間軌道ステーション『エデン・オービット』の外壁。
ここは地上から高度四百キロ。選ばれた富裕層だけが住むことを許された、人類最後の楽園。
……の、裏側だ。
「カイ、聞こえるか? 今日のノルマ、あとパネル三枚だぞ」
通信機から、地上の管制官であり腐れ縁の雇い主、ボリスの声が飛んでくる。
「分かってる。だが、妙なもんを見つけた」
俺はマグネットブーツの磁力を切り、無重力の海へ体を投げ出した。
命綱一本に全てを預け、スラスターを吹かす。
俺の才能。それは『空間把握能力』だ。
上下左右のない世界で、目をつぶっていても自分の位置と姿勢がわかる。
この感覚だけは、どんな高価なジャイロセンサーよりも正確だった。
エデンの排熱ダクトの陰に、何かが引っかかっている。
いつものスペースデブリじゃない。
「なんだありゃ……棺桶か?」
白く輝く流線型のポッド。
表面には『Royal Suite』の刻印。
俺はワイヤーを巻き取り、そのポッドに取りついた。
窓を覗き込む。
心臓が、早鐘を打った。
中には、少女がいた。
それも、とびきりの美人だ。
まるで眠れる森の美女そのもの。白いドレスが、保存液の中で揺らめいている。
「おいボリス。当たりだ」
「デブリか? レアメタルなら高く売れるぞ」
「いいや。人間だ。生きてる」
俺は酸素の警告音を無視して、ポッドの強制解除レバーに手をかけた。
第二章 廃棄された未来
プシュウウゥゥ――!!
与圧室の空気が満ちる音とともに、ポッドのハッチが開く。
保存液が床にぶちまけられ、甘ったるい匂いが充満した。
少女が、激しく咳き込む。
「ごほっ、ごほっ……! ここは……? レセプションはどこ?」
透き通るような銀髪。色素の薄い瞳。
彼女は濡れた身体を抱きしめ、俺を見上げた。
「……あなた、誰? その汚い服」
「挨拶もなしかよ、お姫様。俺はカイ。ここの掃除屋だ」
俺はヘルメットを脱ぎ、汗で張り付いた前髪をかき上げた。
酸素濃度が低い作業用区画の空気に、彼女が顔をしかめる。
「掃除屋? 冗談でしょ。私は『エデン』の永住権を買ったのよ。父様が、最高の生活を用意してくれたはず……」
彼女は震える手で、首から下げたIDタグを見せた。
『イリーナ・V・クロフォード。2098年入植』
俺は思わず吹き出した。
「おいおい、今は2145年だぞ。あんた、50年近く宇宙を漂ってたのか?」
「え……?」
「それに、ここはエデンの『中』じゃない。廃棄物処理場の搬入口だ。あんたの入ってたポッドは、エデンから『ゴミ』として捨てられたんだよ」
イリーナの顔から血の気が引いていく。
「嘘よ……そんなはずない……」
「現実を見ろよ。エデンはもう、定員オーバーなんだ」
その時、赤色灯が回転し始めた。
『警告。未登録の生体反応を検知。保安ドローンが急行します』
無機質なアナウンス。
「チッ、見つかったか」
俺はイリーナの腕を掴んだ。
「走れるか、お姫様」
「待って、説明して! 私は……!」
「説明は後だ! 『清掃』されちまうぞ!」
俺たちは、錆びついた通路を駆け出した。
第三章 楽園の正体
ドォォン!!
背後の隔壁が爆破される。
銀色の球体ドローンが三機、無重力の空間を滑るように追いかけてくる。
レーザーの閃光が、俺の耳元を掠めた。
「きゃあっ!」
イリーナが悲鳴を上げる。
俺は彼女の腰を抱き寄せ、壁を蹴った。
「捕まってろ!」
床、壁、天井。あらゆる面を足場にして、俺はジグザグに跳ね回る。
三次元的な機動。ドローンの予測演算を上回る動き。
「右! いや、下だ!」
俺は通気ダクトの蓋を蹴破り、イリーナと共に滑り込んだ。
狭いダクトの中を転がり落ち、広大な空間に出る。
そこは、エデンの心臓部だった。
「……なに、これ」
イリーナが息を呑む。
そこにあったのは、豪華なホテルでも、緑豊かな公園でもない。
無数のガラス管だ。
何千、何万というガラス管が、青白い光を放ちながら林立している。
その中には、脳髄だけが浮かんでいた。
「これが、エデンの正体さ」
俺は吐き捨てるように言った。
「地上じゃ、『軌道上の楽園』なんて宣伝してるがな。実際はこれだ。金持ちは脳だけになって、サーバーの中で永遠の夢を見てる。その方が、酸素も食料も節約できるからな」
「じゃあ、私は……?」
俺は近くの端末を操作し、彼女のIDをスキャンした。
画面に表示された事実に、俺自身も言葉を失った。
『イリーナ・V・クロフォード(オリジナル):ステータス/保存中』
『検体番号4096(クローン):ステータス/廃棄処分』
「……クローン?」
彼女の声が震える。
「あんたは、オリジナルの予備パーツだ。臓器移植用か、あるいは何かの気まぐれで作られたコピー。でも、維持コストがかさむから捨てられた。そういうことらしい」
イリーナが膝から崩れ落ちる。
自分が人間ですらないという絶望。
「ふざけんな……」
俺の中で、何かが切れた。
俺たちはゴミじゃない。使い捨ての部品じゃない。
「イリーナ、立て」
「……もういい。殺して」
「よくねえよ! あんたは今、息をしてるだろ! 泣いて、怯えて、俺の手の熱さを感じてるだろ!」
俺は彼女の肩を掴み、無理やり立たせた。
「本物が脳みそだけになって夢を見てるなら、あんたの方がよっぽど人間だ。俺が証明してやる」
「どうやって……?」
「このふざけた棺桶を、ひっくり返してやるのさ」
第四章 無重力の舞踏
俺たちが向かったのは、中央制御室ではない。
構造維持システムの基幹冷却塔だ。
「そこを止めれば、サーバーが熱暴走する。夢を見てる連中は強制的に叩き起こされるか、あるいは……」
「焼き切れるか、ね」
イリーナの瞳に、覚悟の光が宿っていた。
もう、震えていない。
『侵入者発見。排除モード、レベル最大』
通路の先から、重武装の警備ロボットが現れる。
ガトリングガンの銃口が回転を始める。
「カイ、あいつのセンサーは熱源探知よ!」
「了解!」
俺は冷却スプレーの缶を放り投げた。
空中でスプレーが爆発し、冷気の霧が広がる。
ロボットの照準が狂った一瞬の隙。
俺は床を蹴り、無重力の空間を泳いだ。
壁を蹴り、天井を蹴り、螺旋を描くように肉薄する。
「らぁぁぁっ!!」
手にしたプラズマカッターを、ロボットの関節部に突き立てる。
火花が散り、巨体が崩れ落ちた。
「すごい……本当に飛んでるみたい」
「伊達に掃除屋やってねえんだよ!」
だが、多勢に無勢だ。
次々と増援が現れる。
俺のスーツもあちこち被弾し、酸素漏れのアラームが鳴り響く。
「カイ! これを使って!」
イリーナがハッキングツールを投げ渡した。
彼女はクローンだが、オリジナルの知識――システム工学の権威としての記憶――を一部受け継いでいたのだ。
「冷却塔の制御コードを書き換えたわ! あとワンタップで全システムがダウンする!」
「上出来だ、相棒!」
俺は血まみれの手で、最後のパネルに取りついた。
最終章 星へと墜ちる
『システム・ダウン。軌道維持機能、停止』
エデン全体が、大きく軋んだ。
重力が歪み、遠心力が失われていく。
「……落ちるわね」
イリーナが静かに言った。
「ああ。これで地上の連中も気づくはずだ。空から巨大な嘘が降ってくるんだからな」
エデンはゆっくりと、しかし確実に高度を下げ始めていた。
大気圏突入まで、あと数分。
脱出ポッドは、もう残っていない。
俺たちは、展望デッキの床に座り込んだ。
目の前には、視界を埋め尽くすほどの地球。
「ねえ、カイ」
イリーナが俺の手に、自分の手を重ねた。
「私、生まれてきてよかった」
「……奇遇だな。俺も、今日だけはそう思うよ」
彼女の指は細く、温かかった。
脳みそだけのオリジナルには決して分からない、生身の温もり。
「綺麗……」
大気との摩擦熱で、窓の外が紅蓮に染まっていく。
ステーションの外殻が剥がれ落ち、流星となって夜空を焦がす。
俺たちの体も、光に包まれていく。
恐怖はない。
ただ、満ち足りた気持ちだけがあった。
「ボリスのやつ、明日の朝刊を見て腰を抜かすだろうな」
「ふふっ……そうね」
轟音と共に、ガラスが砕け散る。
最期の瞬間、俺たちは確かに、誰よりも自由に空を飛んでいた。
夜空を切り裂くその光は、偽りの楽園が放った、最初で最後の、真実の輝きだった。
――END――