第一章: 綻びる世界と灰色の少年
煤けた灰色の髪が、ダンジョンの湿った風に揺れる。
無意識のうちに、アルトはささくれだった指先で、使い古された革のエプロンの裾を握りしめていた。その指には、幾千もの道具を直してきた証である無数の切り傷。油のしみがタトゥーのように刻まれている。着古したローブは彼の痩せた肩には少し大きすぎたが、丹念に繕われた刺繍こそが、彼自身の几帳面さを何よりも雄弁に物語っていた。
目の前には、松明の明かりを弾き返すほどの輝き。
一点の曇りもない白銀の甲冑。闇の中で自ら発光するかのような、眩いばかりの金髪と碧眼。
勇者レオニダスは、アルトを見下ろすように仁王立ちしている。その背に靡く赤いマントは、まるで血の川のように鮮烈だった。
レオニダス「単刀直入に言うぞ、アルト。お前はクビだ」
心臓が、早鐘を打つ。喉の奥が干上がり、言葉がつかえる。
アルト「え……あ、あの、レオニダス? いきなり、どうして……」
レオニダス「どうして』だと? そんなこともわからんのか。効率だよ、効率!」
苛立ちを隠そうともせず、レオニダスは聖剣の柄をガシャンと鳴らす。
レオニダス「俺たちはSランクパーティだ。魔王討伐という偉業を成し遂げるために、一分一秒を惜しんでいる。だのになんだ、お前のその『修繕』とかいう地味なスキルは」
アルト「で、でも……僕は、みんなの武器の手入れを……それに、移動中の馬車の車輪だって、昨日は……」
レオニダス「道具など、壊れれば買い替えればいい。金なら腐るほどあるんだ。お前がちまちまとガラクタを直している時間は、俺たちの行軍速度を低下させるだけの足枷なんだよ」
レオニダスの碧眼には、アルトという人間への関心が欠片も映っていない。そこにあるのは、古びた道具を見るような冷徹な値踏みだけ。
レオニダス「置いていくぞ。この深層なら、運が良ければ地上に戻れるかもしれんが……まあ、無理だろうな」
アルト「ま、待ってくれ! ここに一人じゃ……!」
レオニダス「触るな! 汚らわしい!」
すがりつこうとしたアルトの手を、レオニダスは裏拳で払いのけた。
硬い甲冑の手甲が頬を打ち、アルトは地面に転がる。口の中に広がる鉄の味。
レオニダス「行くぞ。時間の無駄だ」
背を向けるレオニダス。
泥にまみれた頬を押さえながら、アルトは遠ざかっていくかつての親友の背中を見つめることしかできなかった。
視界が滲む。涙ではない。あまりの理不尽な暴力に、脳が揺れているのだ。
足音が遠ざかり、訪れる静寂。
アルトは膝をつき、震える手で地面を掻いた。
(やっぱり、僕には価値がなかったんだ。ただ直すだけの、役立たず……)
自分を責める思考が渦巻く中、彼はふらりと立ち上がり、逆方向――さらに深い闇へと歩き出した。地上へ戻る気力さえ、へし折られていたからだ。
だが。
アルトがその場を去ってから数秒後。
パキリ。
微かな音が、静寂を破った。
レオニダスが腰に佩いていた聖剣。その刀身に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
それだけではない。彼らが持つ杖、鎧、ブーツ。あらゆる装備の光沢が急速に失われ、まるで数百年放置された鉄屑のように錆が浮き始めた。
レオニダス「な、なんだ!? 聖剣が……重く……!?」
遠くで響く動揺の声に、アルトは気づかない。
彼が直していたのは、単なる物理的な破損ではなかった。
過酷な戦闘で摩耗する「存在の強度」そのものを、彼は毎晩、自らの魔力を削って繋ぎ止めていたのだ。
その楔が抜かれた今、世界は彼らに牙を剥き始めていた。
◇◇◇
第二章: 瓦礫の底の眠り姫
「世界の墓場」。
人々がそう呼び忌む古代遺跡の最深部は、墓標のように突き刺さる鉄塔と、錆びついた歯車の山で埋め尽くされていた。
重苦しい灰色の空気が澱むこの場所で、アルトは立ち止まる。
瓦礫の山の中、異質な輝きがあった。
それは、少女だった。いや、少女の形をした「何か」。
上半身は辛うじて形を留めているが、下半身は巨大な鉄塊に押し潰されている。
透き通るような白磁の肌。関節に見える球体関節。ボロボロに裂けたゴシック調の黒いドレスからは、銀色の骨格と複雑な配線が覗いていた。
アルト「……綺麗だ」
壊れている。動くはずもない。
だのに、アルトの目には、それがどんな宝石よりも美しく映った。
吸い寄せられるように近づき、その冷たい頬に触れる。
解析開始……対象:自律機動兵器『ノア』。損傷率98%。修復不能……
アルト「ううん、違う。直せる。……まだ、直せるはずだ」
震える指先で、彼女の胸元の装甲をスライドさせた。
心臓部にある動力炉は砕け散り、微かな魔力の残り香だけが漂っている。
物質的な修理だけでは足りない。彼女の「時間」そのものが止まっているのだ。
アルトは革のエプロンから愛用の工具を取り出すと、まるで恋人の肌を愛でるように、冷え切った彼女の内部機構へ指を滑り込ませた。
カチリ、と硬質な音が響く。
彼の指先が、切断された魔力回路の一本一本を繊細につまみ上げ、繋ぎ合わせていく。
「ここが痛かったんだね……」
吐息がかかるほどの距離。アルトの汗が、彼女の白い鎖骨――セラミックの装甲板に落ちる。
彼は自らの魔力を指先から流し込んだ。粘性のある光が、乾ききった彼女の血管(チューブ)を満たしていく。
それは修理という作業を超えた、魂の交歓だった。
彼の熱が、冷たい機械の体に侵入し、深く、奥底にある「記憶領域」を撫で上げる。
錆びついたギアが軋み、油の匂いとアルトの体臭が混ざり合い、濃厚な空気を醸成する。
アルト「繋がれ……君の、失われた心ごと」
《概念修繕》
青白い光が炸裂した。
砕け散っていた歯車が時間を巻き戻すように吸着し、千切れたドレスの繊維が生き物のように絡み合い、修復されていく。
そして。
長い睫毛が震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。
そこにあったのは、すべてを見透かすような、磨き抜かれた銀色の瞳。
ノア「……起動シークエンス、完了。……個体名、ノア」
機械的な声。しかし、その瞳がアルトを捉えた瞬間、無機質な光の中に、揺らめくような熱が宿る。
ノア「システム異常検知。胸部ユニットにて、未定義の振動数を確認。……貴方が、私を直したのですか? マスター」
アルト「あ、いや、マスターなんて……僕はただ、君が寂しそうに見えて……」
ノアは軋む体を起こし、崩れ落ちた瓦礫の中でアルトの手を取った。
その手はひやりと冷たかったが、握り返す力は強い。
ノア「いいえ。貴方の指紋が、私のコアに刻まれています。貴方は、私の全てです」
孤独な職人と、捨てられた兵器。
世界の底で結ばれた主従の契約は、やがて地上を揺るがす歯車となる。
だが、安息は長くは続かない。
遺跡の入り口から、爆発音が轟いた。
焦げ臭い風と共に、見覚えのある銀色の輝きが迫ってくる。
◇◇◇
第三章: 砕かれた右腕
ドガァァァァァン!!
轟音と共に、遺跡の壁が粉砕された。
舞い上がる砂煙の中から現れたのは、ボロボロになった勇者レオニダス。
かつての輝きは見る影もない。白銀の甲冑は泥と煤で汚れ、聖剣は刃こぼれし、赤かったマントは引き裂かれている。
レオニダス「見つけたぞ……! この泥棒猫がァ!」
アルト「レ、レオニダス!? どうしてここに……それに、その格好は……」
レオニダス「黙れ! すべて貴様のせいだ! 貴様がいなくなってから、何もかもがおかしい! 聖剣は切れず、鎧は重く、俺の栄光は泥にまみれた!」
レオニダスは充血した目でアルトを睨みつける。謝罪ではない。逆恨みだ。
彼はアルトの「修繕」の恩恵に気づいたうえで、それを「俺の力を盗んでいた」と曲解したのだ。
レオニダス「貴様を殺して、そのスキルを抽出する! 魔道具にして持ち歩けば、俺は元に戻れるんだよォ!」
ノア「警告。マスターに対する敵対行動を確認。排除します」
ノアが前に出る。その掌から膨大な魔力が溢れ出す。
しかし――。
《聖縛鎖》
背後から放たれた光の鎖が、ノアの手足を拘束した。
現れたのは、聖女セレス。かつてアルトが淡い恋心を抱いていた幼馴染。
アルト「セレス……? 君まで……」
アルト「セレス、嘘だろ? 君はわかってくれるよね?」
だが、セレスは冷ややかな目でアルトを見下ろした。
(ああ、この目だ。みんな、僕を道具としてしか見ていなかったんだ)
レオニダス「ハハハ! 動けまい! そのガラクタ人形も、お前も終わりだ!」
レオニダスが突進してくる。
ノアを守ろうとアルトは前に飛び出した。
その瞬間。
グシャッ!
嫌な音が響いた。
レオニダスの鉄靴が、アルトの右手を――「修繕」を行うその利き手を、石畳の上で踏み砕いたのだ。
アルト「あ……あぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ノア「マスター!!!」
指が、ありえない方向に曲がる。骨の砕ける感触。激痛が脳髄を焼き切る。
レオニダス「いい悲鳴だ! だが、まだ足りん! 死ねぇ!」
笑いながら、レオニダスはアルトの腹部を蹴り上げた。
アルトの体は宙を舞い、遺跡の中央に空いた底なしの奈落へと投げ出される。
アルト「嫌だ……死にたくない……ノア……!」
手を伸ばしても、掴めるものは何もない。
遠ざかるレオニダスの歪んだ笑顔と、鎖に繋がれたノアの絶叫だけが、暗闇に吸い込まれていく。
ノア「マスタァァァァァァァッ!!!」
視界が闇に塗りつぶされる。
冷たい風と共に、アルトの意識は途切れた。
◇◇◇
第四章: 優しい手
冷たい。痛い。暗い。
奈落の底。アルトは腐臭と湿気の中で目を覚ました。
右手の感覚がない。いや、ある。灼熱のような激痛だけが、そこにある。
手を見ると、指は肉塊のように潰れ、骨が皮膚を突き破っていた。
アルト「はは……もう、終わりだ。直せない。自分の手じゃ、自分を直せない……」
涙さえ出ない。ただ、無力感だけが彼を支配していた。
その時。
頭上から、何かが降ってきた。
ガシャン、と重たい音がして、それはアルトの横に落下した。
アルト「ノア……!?」
鎖を引きちぎり、自ら奈落へ飛び降りたのだろう。
ノアの体は落下の衝撃で半壊していた。美しい白磁の肌は砕け、銀色の瞳からはオイルの涙が流れている。
だが、彼女は這いずってアルトの元へ来た。
ノア「マスター……生きて……いますか……」
アルト「ノア……どうして……こんな、役立たずのために……」
ノアは残った左手で、アルトの潰れた右手をそっと包み込んだ。
そして、彼女の胸部の装甲が開き、眩い光を放つコアが露出する。
ノア「貴方は役立たずではありません。……貴方の手は、世界で唯一、私を『物』ではなく『私』として触れてくれました。……その優しい手を、失わせはしない」
警告:動力炉の臨界点突破。全エネルギーを外部出力へ変換します。
アルト「待って、何を!? やめろノア! そんなことをしたら君が!」
ノア「私の命(エネルギー)で、貴方の腕を『修繕』します。……さようなら、愛しいマスター」
アルト「やめろぉぉぉぉ!! ノアァァァァ!!」
閃光。
ノアのコアが砕け散り、純粋なエネルギーの奔流となってアルトの右腕に流れ込む。
熱い。焼けるように熱い。だが、それは破壊の熱ではなく、慈愛の温もり。
潰れた骨が戻り、ちぎれた筋肉が繋がっていく。
それだけではない。ノアの「概念」そのものが、アルトの魂と融合していく。
スキル進化条件達成。『概念修繕』が『万象改変(ワールド・リライト)』へ昇華しました。
光が収まった時、アルトの右腕は、白磁のように白く、そして銀色の紋様が浮かぶ、人外の美しさを纏っていた。
横には、光を失い、冷たい鉄塊に戻ったノアが転がっている。
アルト「……そうか。僕は、間違っていた」
アルトは立ち上がる。
灰色の髪が、底から吹き上げる魔力の風に逆立っていた。
瞳の色が変わる。怯えた少年の瞳ではない。深淵を覗き込み、それを飲み込んだ者の、冷徹な銀色の瞳へ。
アルト「自己犠牲なんて、愛じゃない。君を失って生き残る世界に、何の意味がある?」
彼は新しい右手を、動かなくなったノアにかざした。
アルト「戻れ!! 因果ごと、全て!!」
《万象改変・因果逆流》
空間が悲鳴を上げた。
アルトは「ノアが壊れた」という事実そのものを、世界から切り離し、書き換える。
神の領域。禁忌の御業。
カチリ。
ノアの胸の奥で、再び鼓動が刻まれた。
アルト「行こう、ノア。……僕たちを捨てた世界へ、『お礼』をしに」
奈落の底から、二つの影が浮上する。
もはや彼は修理屋ではない。
壊れた世界を、あるべき姿へと強制的に書き換える、審判者だった。
◇◇◇
第五章: 慈悲深き断絶
王都は炎に包まれていた。
封印から解き放たれた魔王が、空を覆う巨大な影となって暴れまわっている。
その足元で、勇者パーティは這いつくばっていた。
レオニダス「あ、あぁ……勝てない……俺の攻撃が、通じない……!」
聖剣は折れ、鎧は紙屑のように引き裂かれていた。
セレスも魔力切れで倒れ伏している。
絶体絶命。死の影が覆いかぶさったその時。
(誰か、誰か助けて……!)
天が裂けた。
青白い光の柱が魔王を貫く。いや、貫いたのではない。魔王の存在している空間そのものが「正常な状態」へと修復され、魔王という異物が排除されたのだ。
レオニダス「な……何が……?」
光の中から、一人の青年と、美しい少女が降り立つ。
右腕に銀色の紋様を刻んだ、アルトだった。
レオニダス「ア、アルト! お前、生きて……! そうだ、助けに来てくれたんだな! やはりお前は俺の道具だ!」
レオニダスは恥も外聞もなくアルトにすがりつこうとした。
しかし、アルトは彼を見なかった。
ただ静かに、何かを確認するように、レオニダスの顔を見た後、視線を逸らす。
そこには、怒りも、憎しみさえもない。
あるのは、道端の石ころを見るような、完全な無関心。
アルト「ノア、行こう。ここは空気が悪い」
レオニダス「おい! 無視するな! 俺は勇者だぞ! 謝ってやるから、戻ってこい!」
足を止め、アルトは背中越しにポツリと言った。
アルト「修繕、不能」
右手を、軽く振る。
《関係性修繕・初期化(フォーマット)》
世界が、カチリと音を立てた。
レオニダス「あ……? 俺は、何を……?」
レオニダスの目から、アルトに対する認識が消え失せた。
目の前にいるのが誰なのか、なぜ自分が叫んでいたのか、記憶の整合性が取れない。
アルトに関する記憶だけが、きれいに切除され、つぎはぎされたのだ。
彼らは栄光の記憶を持ったまま、しかしその栄光を支えていた基盤を忘れ去り、誰からも認識されない「ただの人」へと成り下がった。
復讐などという情熱的な感情さえ向ける価値はない。ただの、他人になったのだ。
ノア「よろしいのですか、マスター。彼らを塵にすることも可能でしたが」
アルト「いいんだ。壊れたものを無理に直しても、歪むだけだからね」
アルトはノアの手を握り直した。
その手は温かい。
崩壊しかけた世界は、アルトの「修繕」によって、少しだけ形を変えて動き出す。
誰も知らない英雄と、彼だけを見つめる機械仕掛けのパートナー。
二人は瓦礫の山を背に、新たな地平へと歩き出した。
灰色の空の隙間から、一筋の光が、彼らの繋いだ手だけを照らしていた。