第一章 粘液質のソテーとpH調整
「いいか、絶対に剣で叩くなよ」
「はあ? 何を言っている、エリアン!」
「叩けば破裂する。この『ジェリー・スライム』の表皮膜は、衝撃を受けると内部の強酸性消化液を飛散させる構造になっているんだ。お前らの安っぽいプレートメイルなんざ、一瞬で溶けてスクラップだぞ」
薄暗いダンジョンの湿った通路。
松明の揺らめく光が、壁一面に張り付いた半透明の緑色の塊を照らし出している。
俺、エリアン・ヴェルニエは、腰のポーチから一振りのメスと、リトマス試験紙のような小さな紙片を取り出した。
背後で剣を構えていた聖騎士団長のアラリックが、顔をしかめて後ずさる。
「貴様、またその『解剖』か。我々の任務は魔物の討伐だぞ」
「討伐? 野蛮だな。これは『処理』であり、かつ『調理』だ」
俺はそっとスライムに近づく。
彼らは敵ではない。ただのタンパク質と酸の塊だ。
スライムの中心核が脈動している。
あそこが神経節の集合体。だが、狙うのはそこじゃない。
「リヴィア、氷結魔法を頼む。ただし、出力は最低限だ。表面温度を五度まで下げろ」
「な、なんですって? そんな微弱な魔法じゃ、凍りつかないわよ!」
赤毛の魔導士リヴィアが杖を握りしめて抗議する。
俺は溜息をついた。
「凍らせるんじゃない。細胞活動を鈍らせるんだ。過冷却状態にして、酸の分泌を止める。早くしろ、こいつが俺たちの体温を感知して『食事』を始める前にな」
渋々といった様子で、リヴィアが呪文を詠唱する。
空気が冷え、スライムの表面に霜が降りる。
その瞬間だ。
俺はメスを走らせた。
切断、ではない。
剥離。
外膜と内膜の境界線、わずか〇・一ミリの隙間に刃を滑り込ませ、神経伝達を遮断する。
緑色の塊が、音もなく崩れ落ちた。
「よし、完璧だ」
俺は崩れたスライムの中から、ゼリー状の肉質部分を素手で掴み出した。
プルプルと震えるその物体を、持ち込んだ携帯コンロのフライパンに放り込む。
ジュワーッ!
食欲をそそる音と共に、柑橘系の香りが漂い始めた。
「正気か……?」
アラリックが口元を覆う。
「スライムの核周辺の肉は、不純物がなくて極上のコラーゲンだ。酸性の肉質だが、重曹を少し加えて中和すれば、高級な柑橘ゼリーのような食感になる。ほら、食ってみろ」
「死んでも御免だ!」
「損な奴らだな。栄養学的見地から言えば、ポーション一本飲むより、この切り身一切れの方がマナの回復効率は三倍高いんだぞ」
俺は熱々のスライム肉を口に運んだ。
舌の上で溶ける酸味と甘味。
そして全身に広がる、痺れるような魔力の奔流。
(……ふむ。やはり、この階層のスライムは成分が変質しているな)
咀嚼しながら、俺は思考を巡らせる。
通常の個体よりも、窒素含有量が多い。
これは、地下深層に『何か』巨大な有機的腐敗源がある証拠だ。
魔王?
いや、そんな文学的な存在じゃない。
もっと生物学的で、システムチックな『汚染源』が。
第二章 竜語魔法の音声学的解析
地下二〇階層。
広大な地底湖の畔で、俺たちは絶望的な質量の前に立ち尽くしていた。
「グルルルルァァァ……!!」
アビス・ドラゴン。
全身が黒曜石のような鱗で覆われた、体長三〇メートルの巨獣。
その喉元が赤く発光し始める。
ブレスの予兆だ。
「総員、散開! 盾を構えろ! ブレスが来るぞ!」
アラリックが絶叫し、リヴィアが防御障壁を展開しようとする。
「待て」
俺は二人を制止し、一歩前へ出た。
「エリアン! 死にたいのか!?」
「静かにしろ。……聞こえないか?」
「はあ!?」
「奴の喉の振動音だ」
俺はポケットから、奇妙な形をした金属製の共鳴管を取り出した。
ドラゴンのブレスは、単なる火炎放射ではない。
体内で生成した可燃性ガスを、喉の声帯模倣器官で特定の周波数に震わせ、着火させる『物理魔法』だ。
つまり、詠唱なのだ。
『ヴォォォォ……オォン……』
低い唸り声が、空気を震わせる。
俺の耳には、それが明確な言語構造として聞こえていた。
(……始動キーは低周波七ヘルツ。そこから急上昇して、高周波で着火……文法が古いな。古代竜語の方言か?)
「リヴィア、風魔法だ」
俺は共鳴管を構えたまま指示を出す。
「風? 火に風を送ったら、余計に燃え広がるわよ!」
「違う! 奴の口の中に、逆位相の音波をぶち込むんだ!」
ドラゴンの口が大きく開かれる。
灼熱の光が溢れ出す直前。
俺は共鳴管を吹き鳴らした。
キィィィィィィィ――ン!
不快な高音が響き渡る。
同時に、リヴィアが放った風魔法が、俺の音を増幅させてドラゴンの喉奥へと吸い込まれていった。
カッ、シュゥゥゥ……。
ドラゴンの口の中で、今まさに生まれようとしていた爆炎が、唐突に消失した。
まるで、ロウソクの火を指で摘んで消したように。
「ガッ……!? ゴフッ、ゲホッ!」
ドラゴンが苦し気に咳き込み、黒い煙を吐き出す。
「な……何をしたの?」
リヴィアが呆然と呟く。
「音響干渉による詠唱阻害だ。奴の着火シークエンスに必要な周波数を、逆位相の音で打ち消したんだよ。言ってみれば、呪文を噛ませたのさ」
俺は眼鏡の位置を直しながら解説する。
「魔法とは、世界というOSに対するコマンド入力だ。音声入力である以上、ノイズには弱い。生物学的に見ても、奴の喉袋は繊細な楽器みたいなもんだからな。調律を狂わせれば、ただのガス漏れトカゲだ」
咳き込むドラゴンは、もはや恐怖の対象ではなかった。
ただの、喉を痛めた巨大生物。
「さて、アラリック。今なら奴の鱗の隙間、第三頸椎の下がガラ空きだ。神経系が集中している急所だぞ。外科手術の時間だ」
「お前……本当に人間か?」
聖騎士は引きつった笑みを浮かべながらも、剣を構えて突撃していった。
第三章 生態系としての魔王
最深部。
そこに玉座はなかった。
あったのは、巨大な心臓のような、脈動する菌糸の塊。
部屋全体が、白く輝く胞子で満たされている。
「これが……魔王?」
リヴィアが息を呑む。
「いいや」
俺は防護マスク越しに、その光景を見つめていた。
数値が異常を示している。
ガイガーカウンターめいた魔力測定器が、針を振り切っていた。
「これは『中枢処理器官』だ。そして同時に、巨大なテラフォーミング装置でもある」
「意味が分からんぞ、エリアン!」
アラリックが剣を向ける。「とにかく、こいつを破壊すれば世界は平和になるんだな?」
「やめろ!」
俺はアラリックの腕を掴んだ。
「こいつを殺せば、地上の生態系も崩壊するぞ」
「何だと?」
「道中、ずっと調べてきた。スライムの成分、ドラゴンの発声器官、そしてこの空間の空気組成……。すべてが繋がっている」
俺は端末の画面を彼らに見せる。
「このダンジョンは、地上の汚染物質や余剰マナを吸収し、浄化して循環させる『腎臓』の役割を果たしているんだ。魔物たちは、その浄化プロセスのための白血球や酵素に過ぎない」
スライムは酸で廃棄物を溶かす。
ドラゴンは熱で毒素を焼却する。
そして、この『魔王』と呼ばれる菌糸ネットワークが、濾過されたマナを世界中に還元している。
「魔王討伐なんていう英雄譚は、医者が患者の臓器を切り取ろうとしているようなもんだ。馬鹿げてる」
「じゃあ、どうしろと言うんだ! 魔物が地上に溢れ出しているのは事実だぞ!」
「調整が必要なんだよ。破壊じゃなくてな」
俺は菌糸の塊へと歩み寄る。
美しい。
純粋な生物学的機能美。
このシステムを理解したい。
解析したい。
そして、管理したい。
俺の胸の奥で、抑えきれない知的好奇心が熱く疼いた。
それは、英雄の正義感よりも遥かに強く、狂気的な衝動。
「エリアン、離れろ! そいつに取り込まれるぞ!」
「いいや、逆だ、リヴィア。俺がこいつを取り込むんだ」
俺は手袋を外し、素手で白く輝く菌糸に触れた。
指先から、膨大な情報が流れ込んでくる。
DNA配列、魔力回路の設計図、数千年に及ぶ気候データ。
脳が焼き切れそうなほどの快楽。
「理解……できる。こいつの言語が。こいつの空腹が」
俺の腕に、白い紋様が浮かび上がる。
侵食ではない。
共生だ。
俺の特異体質――あらゆる魔力を『栄養』として分解吸収する胃袋が、この巨大なシステムの管理者権限(アドミニストレータ)を奪取しようとしていた。
「お前たちは帰れ」
俺は振り返らずに言った。
「エリアン……?」
「魔王は死んだことにしろ。これからは俺が、このシステムの『脳』になる。過剰な魔物の発生は抑えてやる。その代わり、俺はここで永遠に、この世界の解剖を続ける」
「お前、人間をやめる気か!」
アラリックの悲痛な叫び。
だが、俺の視界は既に、物理的な肉体を超えた領域へと拡大していた。
世界中のマナの流れが、血管のように見える。
なんて素晴らしい研究対象だろう。
「心配するな。たまには、美味いスライムのレシピを送ってやるよ」
俺は笑った。
白濁した視界の向こうで、かつての仲間たちが遠ざかっていく。
さあ、研究の続きだ。
まずはこの巨大な生態系の、免疫システムを再構築(リビルド)しなくてはならない。
俺は白衣を翻すように、菌糸の海へと身を沈めた。