忘れられた偏愛のソネット
第一章 秒針の逆撫で
俺の左腕には、脈打つたびに鈍い痛みが走る。それは死を肩代わりした証であり、愛するリラの命が刻まれた聖痕だ。この能力は呪いか祝福か、今となっては判別もつかない。ただ、彼女が微笑むのなら、俺の存在が塵に帰ろうとも構わなかった。
あの日、けたたましいブレーキ音と悲鳴が街を切り裂いた。血の匂いと硝煙のようなアスファルトの匂いが混じり合う中、リラは赤い染みの中で静かに冷えていった。彼女の命が消えかける刹那、俺は祈った。否、命じた。俺のすべてと引き換えに、彼女の時を動かせ、と。
世界が歪み、彼女の冷たさが俺の腕に流れ込む。まるで氷の血管が移植されたかのような激痛。だが同時に、リラの頬に血の気が戻り、か細い呼吸が始まったのを見て、俺は安堵に身を震わせた。
「アレン……?」
目覚めた彼女の第一声は、俺の名前だった。それだけで、俺の世界は救われた。
左の手首で、リラから贈られた懐中時計がカチリと奇妙な音を立てた。銀色の蓋を開けると、繊細な秒針が、まるで時を嘲笑うかのように逆へと回り始めていた。俺の命が、確実に削られていく音。だが、その隣で穏やかに眠るリラの寝顔を見ていると、不思議と恐怖はなかった。
ふと、この時計を貰った日の彼女の言葉を思い出す。
「これは『永遠の愛』の証。私たちの時間を、ずっと刻んでくれる」
そう言ってはにかんだ後、彼女は少しだけ寂しそうな目でこう付け加えたのだ。
「ねえ、アレン。もし私が世界中の人から忘れられても……アレンだけは、私のこと、覚えていてくれる?」
「当たり前だ」俺は彼女の細い指を握りしめて答えた。「世界が君という光を忘れても、僕の魂だけは永遠に君を偏愛する」
その時の俺は、それが単なる恋人たちの甘い戯言ではないことを、知る由もなかった。
第二章 褪色のプレリュード
リラが退院してから数週間、世界は再び輝きを取り戻したように見えた。俺の腕の痛みは増していくが、彼女と歩く並木道、共に飲む珈琲の香り、指先が触れ合う微かな温もり、そのすべてが俺の痛覚を麻痺させた。幸福は、時に強力な鎮痛剤となる。
だが、世界の調律は、静かに、しかし確実に狂い始めていた。
最初に気づいたのは、行きつけのカフェでのことだった。
「リラがここのチーズケーキを絶賛していたよ」
俺がそう言うと、白髪のマスターは不思議そうな顔で首を傾げた。
「リラさん……?すみません、どちら様でしたかな。お客様はいつも、お一人で窓際の席にお座りになりますが」
冗談だろう、と笑って流した。だが、その日から奇妙な綻びは次々と現れた。共通の友人にリラの話をすれば「誰のことだ?」と問い返され、二人で撮ったはずの写真からは、彼女の姿だけが陽炎のように消え失せていた。まるで、初めからそこに存在しなかったかのように。
焦燥に駆られ、俺はリラのアパートへ走った。ドアを叩くが返事はない。震える手で鍵を開けて中に入る。がらんとした部屋は冷たく、人の気配がまるでない。埃の匂いが鼻をついた。壁に飾られていたはずの、彼女が描いた青い海の絵画はどこにもなかった。
その時、ポケットの懐中時計がひやりと冷たくなった。取り出して見ると、文字盤に刻まれていたはずの、俺と彼女のイニシャル――『A & L』の『L』の文字が、擦れて消えかかっていた。
世界が、リラを忘れようとしている。
いや、違う。世界が、リラという存在を「無かったこと」にしようとしている。
背筋を、氷の指でなぞられたような悪寒が駆け上った。狂っているのは世界か、それとも――リラのことだけを鮮明に記憶している、俺自身なのか。
第三章 世界の不協和音
俺の記憶は、世界にとって「異物」となった。俺がリラの名を口にするたび、周囲の人々は訝しげに眉をひそめ、やがて俺自身を遠ざけるようになった。俺を知る人間が、俺の顔を思い出せなくなるのに、そう時間はかからなかった。俺の存在そのものが、世界から拒絶され、希薄になっていく感覚。まるで、濃い霧の中を一人で歩いているようだ。輪郭が溶け、足音が消え、やがては自分という存在の意味さえ見失ってしまうような、底なしの恐怖。
絶望が俺の心を黒く塗りつぶそうとした夜、彼女は現れた。
透き通るような姿のリラが、月の光が差し込む部屋に、静かに立っていた。それは幻影。俺の偏愛だけが見せる、哀しくも美しい奇跡。
「リラ……!」
駆け寄ってその身体を抱きしめようとするが、俺の腕は空を切る。彼女は泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
『ごめんね、アレン』
その声は耳ではなく、魂に直接響いた。
「君のせいじゃない! 俺が君を救ったんだ! 俺がそう望んだんだ!」
俺は叫んだ。それは、世界に対する怒りであり、自らの無力さへの慟哭だった。なぜだ、なぜ俺の愛が、彼女を世界から消し去ってしまうんだ。
『違うの』リラの幻影は静かに首を振る。『私を救ったあなたの強すぎる“愛”が、私をこの世界から消したのよ』
その言葉は、雷鳴のように俺の頭を撃ち抜いた。
『あなたの能力は、死ぬはずだった私の寿命を、無理やりこの世界に繋ぎ止めた。でも、忘れられることで真の死を迎えるのが、この世界の理(ことわり)。あなたの愛は、その理に逆らってしまった……。だから世界は、矛盾を正すために、私という存在そのものを消去し始めたの』
俺が転移させた彼女の寿命。それが、彼女が「忘れ去られる」ための代償として、世界に支払われていたというのか。
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか!」
俺の偏愛が、俺の自己犠牲が、リラを孤独な虚無へと追いやった。良かれと思ってしたすべてが、最悪の結末を招いていた。絶望が、ついに俺の心臓を鷲掴みにした。
第四章 二人だけの終曲
真実を前に、俺は崩れ落ちた。俺がリラを愛せば愛すほど、彼女の存在は世界から掻き消えていく。なんと残酷なパラドックスだろうか。だが、同時に気づいてしまった。俺だけが、彼女をこの世に留めておける唯一の楔なのだと。俺が彼女を忘れさえしなければ、リラの魂は決して消滅しない。
俺は決意した。
世界が俺たちを忘れるというのなら、それでいい。俺たちもまた、世界を捨てよう。この肉体が消え、存在が曖昧になり、誰の記憶にも残らなくなることなど、もはや恐ろしくはなかった。リラを失う恐怖に比べれば、そんなものは些細な痛みだ。
俺は懐中時計を強く、強く握りしめる。
「リラ、聞こえるか」
目の前の幻影に向かって、静かに語りかける。
「俺は決して君を忘れない。この魂が燃え尽きるまで、君だけを偏愛し続ける。だから、俺の記憶の中で永遠に生きてくれ。二人だけの世界で」
『アレン……』
リラの瞳から、水晶のような涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。
俺の決意に応えるように、逆回転を続けていた懐中時計の秒針が、ぴたりと動きを止めた。そして、消えかかっていた文字盤のイニシャル『A & L』が、まるで星々を宿したかのように、永遠の輝きを放ち始めた。
やがて、俺の身体は光の粒子となって霧散し始めた。痛みはない。ただ、愛する人の魂と溶け合っていくような、暖かく満たされた感覚だけがあった。
世界から、アレンという男と、リラという女が存在した痕跡は、綺麗に消え去った。誰も彼らを覚えていない。彼らが愛し合ったことも、悲劇的な運命を辿ったことも、知る者は誰もいない。
だが、それでいいのだ。
彼らの偏愛は、誰にも観測されない、二人だけの記憶の宇宙で、静かに瞬く星となった。それは世界からは忘れ去られた、しかし、決して消えることのない、永遠のソネット。