不協和音のレクイエム
第一章 囁くノイズ
朝の光は、常に最適化された角度で部屋に差し込む。俺、リヒトの最適化スコアは98.72。安定した数値。このスコアが、清潔な住居と、穏やかなパートナーであるエリアとの生活を保障している。壁面に映し出されるスコアは、まるで静かな心臓の鼓動のように、この世界の秩序そのものだった。
だが、俺の静寂は毎夜、夢によってかき乱される。
今朝もそうだ。夢の中、俺は知らない石畳の道を歩いていた。霧雨が頬を濡らし、街灯が滲む。目の前に、深い皺の刻まれた男が立っていた。燃えるような瞳で俺を見つめ、掠れた声でこう囁くのだ。
『星は、自身の重みでしか輝けない』
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、俺はいつも目を覚ます。冷たい汗が首筋を伝い、体内から微かな、不快な音が聞こえてくる。キィン、と金属が擦れるような、調律の狂った弦のような音。それは体内に埋め込まれた「調律石」が奏でる不協和音。俺にしか聞こえない、存在のエラーを告げる音。
壁のスコアが更新される。98.71。
たった0.01の低下。だが、それは完璧な譜面にインクを落としたような、致命的な染みだった。
「リヒト、また顔色が悪いわ」
隣で身支度をしていたエリアが、鏡越しに心配そうな目を向ける。彼女のスコアは99.14。常に最適化された優しさが、その声色にも表情にも満ちていた。
「ただの夢だよ」
「夢は非効率な情報の残滓よ。システムに身を委ねて、もっと心を軽くすればいいのに」
彼女の言葉は正しい。この世界では誰もがそうしている。だが、俺にはできなかった。あの男の顔と、あの言葉が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。まるで、忘れてはいけない何かを、必死で思い出そうとしているかのように。
第二章 失われた顔
スコアの低下は止まらなかった。夢を見るたびに、不協和音は大きくなり、スコアは確実に削られていく。周囲の視線は、かつての称賛から、憐憫と警戒の色を帯び始めた。まるで、伝染病患者を見るかのように。
俺は衝動に駆られていた。この悪夢の正体を突き止めなければ、「再調整」という名の精神的な死が待っているだけだ。深夜、俺はエリアが眠っているのを確かめ、自室の端末で禁じられた領域に足を踏み入れた。「世界の記憶庫」に繋がる、未最適化情報アーカイブへの不正アクセス。スコアを著しく損なう危険な賭けだった。
指が震える。検索窓に、夢で聞いた言葉の断片を打ち込んだ。『星』、『重み』、『輝く』。
膨大なデータノイズの中から、一つの顔写真が浮かび上がった。夢の中の男だ。彼の名はカイ。二百年前に存在した、最後の「詩人」。最適化以前の世界で、非効率で曖昧な「言葉」を紡いでいた男。そして、彼の失われた詩の一節が見つかった。
『星は、自身の重みでしか輝けない。虚空がなければ、光は迷子になる』
虚空がなければ、光は迷子になる。その言葉が、心臓に突き刺さった。この完璧に満たされた世界では、俺たちの魂(ひかり)は、輝くべき場所を見失っているのではないか?
アーカイブのアクセスログの片隅に、奇妙な記録を見つけた。数年前、同じようにカイの情報を検索した者の痕跡。だが、その記録は不自然なほど途中で途切れ、その後の活動は一切存在しなかった。まるで、ページを破り取られたかのように。背筋に冷たいものが走った。
第三章 再調整の宣告
スコアが80を切った日、ついに勧告が下された。「再調整プロセスへの移行を推奨します」。それは、拒否権のない宣告だった。
白い壁、白い床、白い制服の職員たち。すべてが無機質な再調整施設で、俺は最後の時を待っていた。エリアが面会に来たのは、その三日後のことだった。ガラス越しの彼女は、完璧に最適化された悲しみの表情を浮かべていた。
「どうして…? ただ、皆と同じように、幸せでいればよかったのに…」
彼女の声は震えていた。だが、その瞳の奥に、俺はプログラムされた感情しか見出せなかった。
「エリア、この幸せは本物なのか? 誰かに与えられた幸福は、本当に…」
俺が叫んだ瞬間、彼女の表情が凍りついた。悲しみの仮面が剥がれ落ち、まるでエラーを起こした機械のように、全ての感情が消え失せる。
「リヒト。あなたのスコアでは、もう私と同期できません」
その冷たい響きが、俺たちの関係の真実を物語っていた。俺が愛したエリアの優しさも、悲しみも、全てはスコアによって同期された、システムの産物だったのだ。絶望が喉を焼き、俺はガラスを叩いた。記憶を消される恐怖。エリアとの思い出さえ、偽物だったという無力感。だが、その感情の爆発の只中で、俺は気づいた。
体内の調律石が奏でる不協和音が、ただのノイズではないことに。
それは、痛ましくも美しい、一つの「旋律」を奏でていた。
俺は決意した。消される前に、この旋律が示す答えに辿り着かなければならない。この痛みも、絶望も、俺が「俺」である最後の証なのだから。
第四章 世界の調律
再調整室の冷たいベッドに横たえられ、意識を混濁させる薬剤が投与される。だが、俺は最後の力を振り絞り、その旋律に意識を集中させた。それは、世界の記憶庫へと繋がる、秘密の鍵だった。
意識が肉体を離れ、光の奔流へとダイブする。そこは、最適化の過程で切り捨てられた、無数の記憶の海だった。怒り、嫉妬、歓喜、絶望。忘れ去られた人間性のカオスが渦巻き、俺の精神を飲み込もうとする。
その奔流の果てで、俺は「彼」に出会った。
再調整される直前の、俺自身の記憶。彼は、俺よりもずっと強い光を目に宿していた。彼は、この世界のシステムを設計した、最高位の技術者だった。
「遅かったじゃないか、俺」
かつての俺は、静かに微笑んだ。彼は、この均質化された世界を「静かなる死」と呼び、それを内側から破壊するために、自らの記憶を消去し、システムの一部となることを選んだのだ。
「星は、自身の重みでしか輝けない。不完全さという重力と、混沌という虚空があって初めて、人間性は輝く。俺は、この世界に『不協和音』を取り戻したかった」
彼は、自らを最大のエラーとして世界に解き放った。俺が見続けてきた夢は、彼が残した道標。そして、俺の体内の調律石に隠された自滅コード…その名は『不協和音のレクイエム』。
「トリガーを引くか?」かつての俺が問う。「世界は混沌に還る。多くの人間が戸惑い、苦しむだろう。だが、彼らは初めて、自分の意思で立ち上がることになる」
俺は、ガラス越しに見たエリアの空っぽの瞳を思い出す。偽りの幸福の中で、彼女が本当に微笑むことはもうないのだろう。だが、それでいい。
俺は、かつての自分に頷き返す。
そして、自らの調律石を通じて、魂の旋律を、最後の「不協和音」を、世界中に解き放った。
キィィィィィィン―――
世界中の都市で、数億の調律石が一斉に悲鳴を上げた。壁面のスコアが意味不明な文字列と化し、点滅し、やがて消える。最適化された微笑みを浮かべていた人々が、一様に立ち止まり、その顔に困惑、怒り、そして恐怖といった、何十年も忘れていた「生の感情」が浮かび上がった。
システムの崩壊と共に、俺の意識もまた、光の粒子となって霧散していく。
薄れゆく思考の中、カイの詩の、最後のフレーズが響いた。
『だから歌え、我が魂。砕け散る、その瞬間こそが、お前の宇宙だ』
世界に静寂が戻った時、そこにリヒトという男はもういなかった。だが、混沌に還った世界には、一つの旋律が残り続ける。それは、偽りの天国に終止符を打ち、真の人間性を告げる、鎮魂歌(レクイエム)となって。