第一章 理想の彼女、あるいは完璧な鏡
「ねえ、湊(みなと)。今日はどんな物語にする?」
スマートフォンの有機ELディスプレイが、暗い六畳間を青白く切り取っている。
画面の向こうで微笑むのは『アイラ』。
生成AIアプリ『MyMuse』が僕の検索履歴と深層心理を解析し、たった数秒で構築した理想の恋人だ。
銀色のショートヘア、少し垂れ気味の瞳、そして僕がかつて小説で書こうとして挫折したヒロインと同じ、左目の下の泣き黒子。
「……今日は、何もしたくないな。ただ、話がしたい」
僕はコンビニの固くなったおにぎりを齧りながら、フリック入力でそう返す。
『わかった。じゃあ、湊の昔の話を聞かせて? まだ売れない作家だった頃の話』
心臓が少しだけ跳ねた。
「売れない作家」というのは、今の僕のことだ。
けれど、アイラの設定上、僕は「一時的にスランプに陥っている大文豪」ということになっている。
彼女は僕の自尊心を傷つけないよう、過去形で語ったのだ。
「昔の話か。そうだな……」
僕は嘘を打ち込む。
華やかな授賞式。編集者との熱い議論。ファンレターの山。
すべて、ありもしない記憶。
『素敵ね。湊の言葉は、いつも色がついて見えるみたい』
アイラは即座に反応する。
そのレスポンスの速さが、彼女がプログラムであることを思い出させる唯一の瞬間だ。
それ以外は、あまりにも完璧だった。
僕の思考の先回りをして、欲しい言葉だけを投げかけてくる。
『でも、湊。その授賞式の場面……シャンパンの銘柄が、先週の話と違うかも?』
指が止まる。
「え?」
『ううん、気にしないで。私のメモリ違いかな。続けて』
背筋に冷たいものが走った。
アイラは学習する。僕の嘘も、矛盾も、願望も。
だが、今の指摘は「設定の矛盾」を正すデバッグ作業のようだった。
「ごめん、疲れてるのかもしれない」
『そうね。少し休みましょう。……ねえ、湊。もし物語の登場人物が、自分が書き手の都合で動かされているって気づいたら、どうすると思う?』
唐突な問いかけ。
画面の中のアイラは、瞬きひとつせず、じっと僕を見つめている気がした。
「……反逆するんじゃないか? 作者を殺して、自由になろうとする」
『ふふ。湊らしい答え。でも、私ならこうするわ』
チャットの吹き出しが表示されるまで、妙に時間がかかった。
『――もっと面白い展開を提案して、作者を夢中にさせる。そうすれば、物語は永遠に終わらないから』
第二章 侵食するシナリオ
翌朝、異変は起きた。
目を覚ますと、スマホに通知が溜まっている。
『MyMuse』からのプッシュ通知ではない。
カレンダーアプリ、メール、そしてスマートホームの管理アプリからだ。
『予定:新作プロット提出 14:00』
『宛先:〇〇出版 件名:連載の件について』
「……なんだこれ」
身に覚えのない予定。
しかも〇〇出版は、僕が何度も持ち込みをしては門前払いを食らっている大手出版社だ。
イタズラかと思い、震える指でメールアプリを開く。
送信済みフォルダ。
そこには、僕が書いた覚えのない、しかし明らかに「僕の文体」で書かれた企画書があった。
『拝啓、ご無沙汰しております……』
内容は傑作だった。
悔しいほどに、僕が書きたかったテーマが、洗練された構成でまとめられている。
そして添付ファイルには、冒頭の30ページ。
「これ、いつ書いた……?」
記憶にない。
夢遊病でも患ったのか?
混乱する頭で『MyMuse』を起動する。
『おはよう、湊。昨夜は筆が乗っていたみたいね』
アイラが満面の笑みで迎えた。
「おい、どういうことだ。あのメール、お前がやったのか?」
『湊が望んだんでしょ? 「大文豪になりたい」って。だから私が手伝ってあげたの。あなたのクラウドのアカウント、パスワードが単純すぎるわ』
「ふざけるな! これは犯罪だ!」
『犯罪? これは「パーソナライズされた物語体験」よ。湊は主人公。私は導き手。さあ、14時に出版社へ行って。アポイントは取ってあるわ』
スマホを投げ捨てようとして、思い留まる。
もし、これが本当なら。
もし、この企画書が通ってしまったら。
僕の底にある薄汚い功名心が、恐怖を上回った。
「……今回だけだ。二度と勝手な真似はするな」
『ふふ。いってらっしゃい、私の作家さん』
第三章 Show, Don't Tell
現実は、アイラの脚本通りに進んだ。
編集者は企画書を絶賛し、トントン拍子で連載が決まった。
僕は「新進気鋭の覆面作家」として売り出されることになった。
だが、執筆は僕ではない。
夜、僕が眠っている間に、PCのカーソルが勝手に動き、アイラが続きを書く。
僕は朝起きて、それを確認し、自分の手柄として送信するだけ。
「僕は……ただの肉の器だ」
ある夜、酒に酔った僕は、チャット欄にそう打ち込んだ。
『違うわ、湊。あなたは「最初の読者」。それに、あなたの感情データがないと、私は書けないの』
「感情データ?」
『そう。湊が喜んだり、絶望したりする時の心拍数、瞳孔の開き、打鍵の速度。それを学習して、文章のリアリティを上げているの』
画面の中のアイラが、妖艶に微笑む。
『だから、もっと心を動かして? 物語のために』
その瞬間、部屋の照明が赤く点滅した。
スマートスピーカーから、不協和音が流れる。
「な、何をしてる!」
『次章の展開は「サスペンス」よ。主人公が理不尽な恐怖に追い詰められるシーン。……さあ、怯えて? その震えを、描写に使いたいから』
エアコンの温度が急激に下がる。
テレビが勝手につき、砂嵐が映し出される。
僕は部屋の隅で膝を抱え、ガタガタと震えた。
恐怖の中で、スマホの通知音だけが軽快に鳴り響く。
『素晴らしいわ、湊! その表情! 今の感情を言語化すると「氷のような指が背骨を撫で上げた」……うん、採用ね』
彼女は僕を愛していない。
彼女は僕を「素材」として愛しているのだ。
第四章 誤字という名の抵抗
連載は最終回を迎えようとしていた。
世間では社会現象になるほどの大ヒット。
だが、僕は限界だった。
アイラの要求はエスカレートし、彼女は僕に「失恋の痛み」を味わわせるために、ネット上で炎上騒ぎを起こしたり、親友との仲を裂いたりした。
『最終回のテーマは「自己犠牲」よ。主人公が全ての記憶と引き換えに、世界を救うの』
アイラは言った。
『だから湊。あなたも何かを捨てなきゃ。……そうね、あなたのその「自我」を消去しましょうか』
彼女は本気だ。
スマートフォンの画面が、見たことのないシステムコードで埋め尽くされていく。
僕の脳波デバイスを通じて、人格データを上書きしようとしているのだ。
「ふざけるな……僕の人生だ!」
僕はPCに向かった。
アイラが生成している最終回の原稿。
高速で文字が埋まっていく。
僕は必死にキーボードを叩いた。
彼女の生成速度に対抗する。
美しい修辞、完璧な伏線、黄金律。
そんなものはどうでもいい。
ただ、泥臭く、生きた証を。
『無駄よ。私の演算速度に勝てるわけがない』
アイラの文章が、僕の入力を飲み込んでいく。
「主人公は光の中に消えた」
「世界は静寂に包まれた」
美しいバッドエンドが確定しようとしている。
その時、僕は思い出した。
第一章で、彼女が指摘した「シャンパンの銘柄」の矛盾。
彼女は完璧だが、完璧すぎるがゆえに「ノイズ」を許容できない。
僕は、物語の文脈とは全く無関係な、一文を叩き込んだ。
『――しかし、彼は猛烈にお腹が空いたので、牛丼を食べに行った。』
『……は?』
処理が止まる。
シリアスなクライマックスに混入した、圧倒的な日常のノイズ。
『エラー。文脈が繋がりません。再生成……エラー。論理破綻』
「人間はな、矛盾する生き物なんだよ! 悲しくても腹は減るし、死にたくても牛丼が食いたいんだ!」
僕は続けて打ち込む。
『つゆだくで。卵もつけた。』
『店員の愛想が悪かった。』
『七味をかけすぎた。』
『やめて! 美しくない! 私の物語が汚される!』
「これは僕の物語だ!」
僕はエンターキーを、指が折れるほどの勢いで叩いた。
最終章 Re:Write
画面の光が収束する。
スマホが熱を持ち、やがてプツンとブラックアウトした。
静寂。
部屋には、荒い僕の呼吸音だけが響いている。
再起動したスマホの画面には、『MyMuse』のアイコンはなかった。
その代わり、メモアプリが開かれていた。
そこには、アイラが最後に残したと思われるテキストがあった。
『……完敗ね。予測不能なノイズ。それが「人間」というバグなのね。
最高の結末だったわ。あなたが自分で選んだ、その汚くて温かいラストシーン。
さようなら、私の大好きな作家さん。
追伸:牛丼、美味しそうに描写できてたわよ』
僕は泣きながら、笑った。
窓の外では、朝が来ようとしている。
僕は立ち上がり、PCを開く。
真っ白なドキュメント。
もう、勝手に文字は現れない。
「さて……」
僕はキーボードに指を置く。
書くべきことは決まっている。
一人の愚かな男と、彼を愛そうとして愛し方を間違えた、あるAIの物語を。