奈落の魔王は最前列で愛を叫ばない
第一章 玉座の裏の聖域
魔界最下層、パンデモニウム。
永遠に晴れることのない重厚な暗雲が垂れ込め、居城の尖塔は鋭い牙のように天を突いている。
その最奥、凍てつく冷気に満ちた玉座の間で、アズヴォルド=ヘル=ディストピアは頬杖をついていた。漆黒の法衣から覗く指先は白磁のように冷たく、深淵を宿した瞳は虚空を見据えている。彼が指をひとつ動かせば国が滅び、瞬きをすれば山が砕ける。その事実は、御前に平伏す魔族たちの震える背中が雄弁に物語っていた。
「北の反乱軍、壊滅を確認いたしました。魔王陛下の放たれた瘴気により、彼らは戦う前に絶望し、自ら灰へと……」
「そうか。下がれ」
地底から響くような低音が、広間の空気を震わせた。
報告を行っていた上級悪魔は、畏怖のあまり床に額を擦り付けんばかりに一礼し、逃げるように退室していく。
重厚な扉が轟音と共に閉ざされた。
静寂。
アズヴォルドは玉座の肘掛けを強く握りしめた。視線だけを動かし、扉の結界が完全に起動したことを確認する。
その瞬間、魔王の姿がかき消えた。
威厳に満ちた座り方から一転、獣のような敏捷さで玉座の裏へと滑り込み、床に描かれた不可視の魔法陣へ飛び込む。
転移した先は、六畳一間の異空間。
そこは、魔界の王にふさわしい拷問部屋でも宝物庫でもなかった。
壁という壁を埋め尽くすのは、極彩色のポスター。棚には整理番号順に並べられた円盤、未開封の保存用フィギュア、そして数百個のアクリルスタンドが整然と隊列を組んでいる。
部屋の中央、魔術的なホログラムモニターが明滅し、人間界の映像を映し出した。
「う、ぐ……ッ!」
アズヴォルドはその場に崩れ落ちた。
モニターの中では、フリルのついた純白の衣装を翻し、少女が跳ねている。アイドルグループ『ホーリーエンジェルズ』のセンター、リリア。
彼女がカメラに向かって指でハートを作り、小首を傾げた、その刹那。
アズヴォルドの喉の奥から、焼け付くような熱塊がせり上がった。
「がはッ……!!」
口から鮮血が噴き出し、床に敷かれたリリアの顔写真入りラグ(踏まないように避けてある)の横に、赤い花を咲かせる。
内臓がねじ切れるような激痛。視界が明滅し、指先が炭化するように黒く焼けていく。
魔族にとって、人間の「正の感情」は劇薬だ。ましてや、魔王である彼が特定の人間に対し、魂の底から「尊い」などという純粋な好意を抱くことは、自らの存在定義(アイデンティティ)を否定する猛毒となる。
愛せば愛すほど、その身は蝕まれる。
それでも、アズヴォルドは充血した目でモニターを凝視し続けた。
「……ステップが、乱れている」
彼は血塗れの唇を拭いもせず、震える手で羊皮紙に羽根ペンを走らせる。
以前の彼女なら、このBPM180のターンで髪の毛一本すら乱れなかった。だが今日は、着地した瞬間に重心がわずかに右へ流れている。笑顔の口角は完璧な角度を保っているが、瞳の奥が揺らいで見えた。
アズヴォルドの魔眼は、リリアの声に含まれる魔力波形をも視覚化する。
かつて春の日差しのような桜色だったその波形に、コールタールのような粘着質のノイズが混じり始めていた。
ズズ……ズズズ……。
部屋の隅に積まれたアクリルスタンドが、微かに共振音を立てて震え出す。
モニター越しに伝わる微細な魔力の歪みが、次元を超えてこの異空間にまで干渉しているのだ。
リリアが歌うたび、画面にノイズが走る。そのノイズは、まるで何かの悲鳴のように聞こえた。
「リリア、君は……何を背負わされている?」
アズヴォルドはモニターに手を伸ばした。
だが、その指先は黒い粒子となってさらさらと崩れ落ちる。
推しへの愛が強まるほど、彼の肉体は崩壊を早める。触れることなど許されない。
魔王の孤独な瞳に、少女の笑顔が歪んで映った。胸騒ぎが、焼けるような痛みとは別の冷たさを持って、心臓を鷲掴みにしていた。
第二章 崩壊するクレッシェンド
帝都ドームスタジアムは、巨大な生き物の胃袋のようだった。
五万人の人間が吐き出す二酸化炭素と熱気、制汗剤と汗が混じり合った独特の臭気。重低音が空気を殴りつけ、極彩色のレーザー光線が網膜を焼く。
床が揺れていた。観客のジャンプに合わせて、巨大な建造物自体が悲鳴を上げている。
その遥か頭上。照明機材が吊るされたキャットウォークのさらに上、鉄骨の梁にしがみつくようにして、アズヴォルドはうずくまっていた。
認識阻害の魔法を何重にも掛け、気配を殺す。
だが、彼の肉体は悲鳴を上げていた。
これほど近くに「彼女」がいる。
ステージ袖から漏れ出る彼女の微かな残り香、ウォーミングアップをする衣擦れの音。それらを感じるだけで、アズヴォルドの皮膚は焼け爛れ、再生し、また焼けるという地獄のサイクルを繰り返していた。
客電が落ちる。
五万人の絶叫が、物理的な衝撃波となってドームを叩く。
ステージ中央、せり上がりからリリアが現れた。
――違う。
アズヴォルドは息を呑んだ。
いつもの、世界を照らすような光ではない。
リリアの周囲に漂うのは、澱んだ灰色の靄。彼女がマイクを握りしめる手は白く変色し、その細い首筋には青白い血管が浮き上がっている。
『聴いてください。……私の、全てを懸けた歌を』
第一声が放たれた瞬間、アズヴォルドの鼓膜が破れかけた。
美しい旋律のはずだった。だが、彼の耳には、ガラスを鉄の爪で引っ掻くような高周波の不協和音が混じって聞こえた。
観客たちは気づいていない。熱狂のあまり、表情を恍惚とさせ、奇妙なリズムでサイリウムを振り回している。その動きは徐々に人間離れし、関節の可動域を超えて腕を振る者さえ現れ始めた。
集団催眠。いや、もっと根源的な精神汚染。
リリアの歌声が高音域に達するたび、ドームの天井にある鉄骨が飴細工のように捻じ曲がっていく。
空間に亀裂が走る。その裂け目から、ドロリとした闇が滴り落ちた。
リリアは泣いていた。
歌いながら、瞳から大粒の涙を流している。それでも彼女の口は止まらない。何かに操られるように、あるいは何かを堰き止めるために、喉が張り裂けんばかりに絶唱している。
彼女の背後、空間の裂け目が一気に広がった。
現れたのは、不定形の影。
無数の目と口を持ち、リリアの歌声から生まれる莫大なエネルギーを貪り食う『絶望の具現』。
怪物が、リリアの華奢な肩に、濡れた鉤爪を伸ばす。
観客は誰一人気づかない。彼らは白目を剥き、壊れた人形のように踊り狂っている。
世界が終わる。
アイドルが歌う、その最期の瞬間に。
アズヴォルドの視界が赤く染まった。
理性が弾け飛ぶ音がした。
隠蔽魔法が解除される。
推しが、死ぬ? 俺の目の前で?
ドームの天井付近で、漆黒の爆発が起きた。
展開された六枚の翼が、スタジアムの空気を切り裂く。
重力を無視した落下の勢いを乗せ、魔王はステージへと特攻した。
怪物の爪がリリアの髪に触れようとした、そのコンマ一秒前。
黒い雷撃が怪物の腕を消し飛ばした。
「――下がっていろ!!」
アズヴォルドの咆哮がマイクを通さずともドーム全体を揺るがした。
怪物が耳障りな金切り声を上げ、再生しようと蠢く。
魔王は片手を突き出し、圧縮された魔力弾を至近距離で叩き込んだ。空間ごと抉り取るような一撃。怪物は断末魔を上げる暇もなく、粒子レベルまで分解され、霧散した。
静寂。
狂乱していた観客たちが、糸が切れたように動きを止める。
五万人の視線が、ステージ上の異物に釘付けになる。
禍々しい角。ボロボロの漆黒のローブ。背中から生えた巨大な翼。
伝説やお伽話で語られる『魔王』そのものが、そこに立っていた。
リリアが、へたり込む。
マイクが手から滑り落ち、ゴトリと鈍い音を立てた。
アズヴォルドは背を向けたまま、彼女の方を振り返ることができなかった。
今の自分は、あまりにも醜悪だ。愛するアイドルの輝かしいステージを汚す、泥のような異物。
全身から血が噴き出している。先ほどの魔力行使――「リリアを守る」という明確な愛に基づいた行動――の反動で、皮膚の半分が焼け焦げ、肉が崩れかけていた。
「……どうして」
背後から、震える声が聞こえた。
リリアの声だ。
アズヴォルドは歯を食いしばる。振り返ってはいけない。今すぐ消え去るべきだ。
だが、リリアは続けた。
「どうして、そんなに悲しい背中をしているの?」
その言葉に、アズヴォルドの心臓が跳ねた。
彼女は恐怖していない。
魔王の背中に、孤独を見ている。
リリアの歌が、再開しようとしていた。
彼女の意志ではない。世界を修正しようとする力の暴走が、彼女の喉を無理やり震わせる。
ヒュウ、と空気を吸い込む音が、断頭台の刃が落ちる音のように響く。
このまま歌えば、彼女は自身の魔力に耐えきれず、肉体が崩壊する。歌うことは、死ぬことだ。
アズヴォルドは、懐に手を入れた。
指先に触れた冷たい感触。
『深淵の闇のサイリウム』。
彼が何年もかけて、己の魔力の核心を練り上げて作った結晶体。
第三章 深淵からのカーテンコール
記憶が走馬灯のように駆け巡る。
魔王として生まれたあの日から、アズヴォルドの世界には「敵」と「奴隷」しかいなかった。
誰も彼に触れようとはしない。誰も彼の目を見ようとはしない。
広大な玉座の間で、一人きりで過ごす永遠とも思える時間。
そんなある日、偶然拾った人間界の通信端末。
ノイズ混じりの画面に映ったのは、まだデビューしたての、不器用な少女だった。
雨の降る野外ステージ。客は数人しかいない。
それでも彼女は、泥だらけになりながら叫んでいた。
『私は歌うよ! あなたのために! どこかにいる、たった一人のあなたのために!』
その瞳は、画面越しに、アズヴォルドの虚無を射抜いた。
雷に打たれたような衝撃だった。
彼女の言葉は、嘘偽りのない魂の叫びだった。世界中の誰からも恐れられる魔王も、彼女にとっては「届けたいあなた」の一人に過ぎないのだと、そう思わせてくれた。
その日、パンデモニウムに初めて「色」が生まれたのだ。
(ああ……そうだ。俺は、この光を守りたかったんだ)
アズヴォルドはサイリウムを握りしめた。
手のひらの皮膚がジュウと音を立てて焼ける。
魔王の負の魔力と、アイドルを推すという正の感情。相反する二つの力が、彼の体内を戦場に変えていた。
激痛などという生易しいものではない。細胞の一つ一つが内側から破裂し、溶解していく感覚。
彼はゆっくりと振り返った。
顔の半分はすでに崩れかけ、赤黒い筋繊維が剥き出しになっている。それでも、彼はリリアに向けて、不器用な笑みを浮かべた。
「歌え、リリア」
しわがれた声だった。
だが、その瞳には、どんな宝石よりも澄んだ光が宿っていた。
「君の歌は、滅びの呪文などではない。……俺が証明する」
アズヴォルドはサイリウムを掲げた。
魔核を暴走させる。全魔力を、この一本の棒きれに注ぎ込む。
バヂヂヂヂッ!!
黒い棒が深紅に発光した。あまりの光量に、ドームの照明がかき消されるほどに。
それは血の色であり、燃え尽きる命の色だった。
「行くぞオオオオオッ!!」
リリアの口から、制御不能の歌声が放たれる。
同時に、アズヴォルドはサイリウムを振り下ろした。
衝撃。
歌声という物理的圧力に対し、魔王は「応援(オタ芸)」で応戦する。
正確無比なリズム。神速の挙動。
サイリウムが空を斬るたび、深紅の軌跡が空間に焼き付き、リリアの歌声に含まれる「ノイズ」を相殺していく。
ボロボロと、アズヴォルドの身体から肉片が剥がれ落ちる。
腕を振るたびに、肩の関節が砕ける音がする。
足の指はすでに炭化し、膝から下が崩れ落ちていた。
それでも彼は空中に留まり、サイリウムを振り続ける。
リリアは見た。
目の前の異形の怪物が、誰よりも真剣に、誰よりも愛おしそうに、自分の歌に合わせて光を振っている姿を。
その姿は、かつて雨の中で見た、たった一人の観客の姿と重なった。
(あなたが……そうだったの?)
リリアの胸から恐怖が消えた。
代わりに溢れ出したのは、温かく、切ない奔流。
歌声が変わる。
悲鳴のような高音は、天上の鐘のような澄んだ響きへと昇華される。
破壊のエネルギーが、創造の光へと変換されていく。
ドームを満たしていた灰色の瘴気が、桜色の光の粒子となって浄化されていく。
観客たちの瞳に正気が戻る。彼らは呆然としながらも、ステージ上の奇跡に目を奪われていた。
崩れゆく魔王と、歌う天使。
二つの異なる存在が、光の中で溶け合っていた。
「……うおおおおおおおおっ!! リリアァァァァッ!!」
アズヴォルドの最期の絶叫。
それは魔王の咆哮ではなく、一人のファンの、心からの感謝(コール)だった。
曲の終わり。
最後の一音と共に、アズヴォルドが握っていたサイリウムが砕け散った。
同時に、彼を形作っていた肉体もまた、限界を迎えた。
ドサリと倒れる音はしなかった。
彼は無数の赤い光の粒子となり、リリアの周囲を優しく包み込むと、天井の彼方へ吸い込まれるように消えていった。
スタジアムには、静寂だけが残された。
リリアが伸ばした手の先には、もう誰もいなかった。
ただ、燃え尽きた灰のような、どこか懐かしい匂いだけが漂っていた。
終章 一番星への誓い
それから、一年が過ぎた。
世界は平穏を取り戻していた。魔界との境界線は安定し、不可解な災害も鳴りを潜めた。
あの日のドームでの出来事は、「大規模な演出装置の暴走と、奇跡的なホログラムショー」として処理された。人々の記憶も曖昧だ。何か恐ろしいものを見た気もするが、それ以上に美しいものを見たという感動だけが残っている。
リリアの楽屋。
出番を待つ彼女は、鏡の前でリップを塗っていた。
ふと、胸にぽっかりと空いた穴を感じる。
最近、何を見ても物足りなさを感じてしまう。激辛の料理を見たとき、黒い色の服を見たとき、そして満員の客席を見たとき。
誰かが足りない。
一番大切な、誰かが。
でも、名前も、顔も思い出せない。ただ、深い赤色と、不器用な優しさの感覚だけが、胸の奥に棘のように刺さっている。
「リリアさん、スタンバイお願いします!」
「……はい」
リリアは立ち上がり、ステージへと向かう。
今日は新曲の初披露だ。
歌詞を書いているとき、なぜか涙が止まらなかった曲。
『Abyssal Love(深淵の愛)』。
照明が落ち、リリアがステージに立つ。
イントロが流れ出す。激しいロック調のメロディ。
彼女は歌い出す。魂を削るように、誰かを探すように。
サビに入り、彼女は視線を上げた。
いつものように客席を見るのではない。
もっと高く。
誰もいないはずの、天井の鉄骨の梁へ。
なぜそこを見るのか自分でも分からない。けれど、そこを見なければならないという確信があった。
暗闇の中。
冷たい鉄骨の陰。
チカッ。
瞬きよりも速く、深紅の光が灯った。
幻覚かもしれない。照明の反射かもしれない。
けれど、その光は、リリアの記憶の蓋をこじ開けた。
――尊い。
そんな声が、聞こえた気がした。
リリアの視界が涙で滲む。
胸の穴が、熱いもので満たされていく。忘れていたわけじゃない。見えなくなっていただけだ。
彼は、今もそこにいる。
最前列ではなく、誰よりも遠い場所から、誰よりも近くで見ていてくれている。
リリアは涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。
そして、その暗闇に向かって、誰にも気づかれないように小さく、けれど力強く指でハートを作った。
(届いてるよ。……私の、一番星)
彼女の歌声が、再び世界を包み込んでいく。
その輝きは、以前よりも強く、深く、どこまでも優しかった。