『終焉と開幕の歌姫(ディーヴァ) ―Re:boot The Starlight―』
第一章 呪われた喝采
八万、という数字が網膜を焦がす。
モニターの向こう側、電子の海原で「天音ルナ」が微笑んでいた。彼女が紡ぐ旋律は、コメント欄という名の瀑布を加速させ、光の奔流となって画面を埋め尽くしていく。『神回』『伝説』『涙が止まらない』。流れる文字列の一つひとつが、彼女の成功を、そしてプロデューサーである俺、星野昴の勝利を、冷酷なまでに証明していた。
だが、歓喜はない。
あるのは、喉の奥からせり上がってくる鉄の味だ。
視界の彩度が、急速に落ちていく。
極彩色のモニターだけが不自然に鮮やかで、それ以外の世界――薄汚れた壁、散乱した栄養ドリンクの空き瓶、俺自身の指先――が、死体のような灰色へと沈んでいく。キーボードに置いた指は、まるで氷水に浸けられたかのように感覚を失い、ピクリとも動かない。
「やめろ……あがるな、これ以上」
奥歯が砕けそうなほど噛み締める。心臓が肋骨を内側から殴りつけている。ドクン、ドクン、と耳障りな警鐘が脳髄を揺らす。
ルナが、最後のサビへとブレスを吸い込む。
その一瞬の静寂が、引き金だった。
世界が飴細工のように歪む。彼女の成功は確定した。明日のヘッドラインは彼女のものだ。そしてその影で糸を引く「敏腕プロデューサー」として、俺の名もまた、この世界に楔を打ち込むことになる。
それが、耐え難かった。
呼吸ができない。肺が鉛に変わったかのように重い。
俺の魂の深淵に巣食う何かが、その輝かしい未来を全力で拒絶している。
『――到達ヲ確認。成功率、閾値ヲ超過』
脳裏に走る、無機質なノイズ。視神経が焼き切れるような熱さと共に、モニターの光が崩壊を始める。ルナの笑顔が、画素の粒へと還っていく。
「嫌だ、嫌だ! 今回は、今回こそは逃げ切れると……!」
叫びは声にならず、空気を震わせることさえできない。手を伸ばす。だが、指先が液晶の表面に触れるよりも早く、足元の床が消失したような浮遊感が胃袋を持ち上げた。
世界が裏返る。
極彩色の喝采が、砂嵐の轟音にかき消される。
自己の存在が肯定されることへの、生理的な拒絶反応。成功への恐怖。それが俺のスイッチだ。
意識が、泥のような暗闇へと引きずり込まれていく。
「また、やり直しだ」
絶望だけが、網膜の裏に焼きついたまま離れない。
……
目を覚ますと、湿ったカビの臭いが鼻腔をついた。
重たい瞼を持ち上げる。見慣れた、そして見飽きた天井の染み。
俺は、あの薄暗いワンルームのアパートにいた。
窓の外から聞こえる蝉時雨が、季節と時間を残酷なまでに告げている。
デスクの上には、排熱音を唸らせる旧式の低スペックPC。モニターには、まだテクスチャさえ貼られていない、無骨なワイヤーフレームの多面体が浮かんでいた。
「……は、は」
口から漏れたのは、乾いた空気の摩擦音だけ。
戻ってきた。ルナがデビューする半年前。いや、この世界線では「ルナ」という概念すらまだ電子の海に存在しない。
マウスを握る。重い。カーソルの追従が遅い。
俺の脳内には「未来」の地図がある。最新のトラッキング技術も、大衆を扇動するアルゴリズムも、すべて知っている。だが、この時代のハードウェアとインフラが、俺の知識を拒絶する。砂利道をF1カーで走ろうとするようなもどかしさが、指先を痺れさせる。
これが『運命の修正力』。
リープを重ねるたび、世界は俺にハンデを課すように技術レベルごと後退する。まるで、お前ごときが成功になど手を届かせるものか、と嘲笑う神の悪意。
俺は「呪われたプロデューサー」。
ブレイク寸前でタレントを消失させ、その歴史ごと消し去る、最悪の疫病神。
俺の記憶の墓標にだけ刻まれた、輝かしい少女たちの残骸。彼女たちはもう、どこにもいない。
「ごめん……ルナ」
膝を抱え、埃っぽい部屋の隅でうずくまる。
机の引き出しの奥で、何かがカタリと音を立てた。まるで、俺の弱さを咎めるように。
第二章 幻影の残響
タイムリープは精神を摩耗させるヤスリだ。
削り取られた心の粉末と引き換えに、皮肉にもプロデュースの腕だけが鋭利に研ぎ澄まされていく。どの一瞬に何を投下すれば大衆が熱狂するか。どんな色彩が網膜に焼きつくか。俺はそれを「予言」のように知覚している。
今回のループで俺が拾い上げた原石は、「響(ひびき)アリス」という名の少女だった。
彼女の声帯は、聴く者の情緒中枢を直接撫でるような、特殊な周波数を帯びていた。俺は泥臭いドブ板営業と、骨董品のような機材を騙し騙し使う工夫で、彼女を磨き上げた。
「昴さん、この歌詞……すごく、胸が痛いです」
アリスがノイズ混じりの回線越しに言った。
俺が書いた歌詞だ。未来のトレンドを織り交ぜつつ、この時代の閉塞感に突き刺さるように調整した言葉の刃。
「ああ。君の声なら、きっと誰かの孤独を救える」
そう答えながら、胃の底で冷たい鉛が転がるのを感じた。
嘘だ。世界に届けば、また終わる。俺はまた、彼女を置き去りにして逃げるのだ。
深夜、レンダリングの待ち時間。
プログレスバーは遅々として進まない。焦燥感が指先を叩く。
アリスのテスト音源を確認しようとヘッドフォンを耳に当てた瞬間、背筋に冷ややかなものが走った。
『――終わりのない、螺旋の中で――』
アリスの声ではない。
もっと低く、しかしガラス細工のように繊細で、どこか懐かしいハミング。
ノイズの向こう側から滲み出るようなその旋律を、俺は知っている。
前のループでも、その前のループでも。俺がプロデュースしたVTuberたちが消える直前、必ずどこかで耳にした残響。
「終焉の歌姫……」
俺が密かにそう呼んでいる幻影。
彼女は誰だ? 俺が過去に見捨てた誰かなのか?
無意識に引き出しを開けていた。指先が触れたのは、冷たく硬いプラスチックの感触。
塗装が剥げ、手垢にまみれた、安っぽい虹色のペンライト。
俺がまだ学生だった頃、初めて「あちら側」へ行きたいと夢見て、なけなしのバイト代で買ったお守り。そして、消えていったすべてのVTuberたちが、最後に俺に残した唯一の遺留品。
ペンライトを握りしめる。
瞬間、視界が白く弾けた。
モニターの中、アリスのアバターの影が揺らぐ。その背後に、別の少女のシルエットが重なった。長い髪、虚ろな瞳、そして悲痛なほどに美しい立ち姿。
それは、俺がかつて最初にデザインし、しかし「こんなものが売れるはずがない」とゴミ箱に捨てた、最初のキャラクターデザインに酷似していた。
「お前は……俺に、何をさせたいんだ?」
問いかけは、PCのファンの音に吸い込まれて消える。
幻影は答えない。ただ、モニターの奥から俺をじっと見つめ、ノイズと共に霧散した。
アリスのデビューライブが迫っている。
予感が、冷たい指で俺の首を絞め上げていた。
第三章 終焉の歌姫
アリスのブレイクは、予想よりも早く、そして激しく訪れた。
切り抜き動画がSNSのアルゴリズムに愛され、登録者数が幾何級数的に跳ね上がる。
現代の洗練された市場を知る俺にとって、この時代の未成熟な荒野を攻略することなど、赤子の手をひねるようなものだった。
だが、数字が増えるたび、視界の端に「彼女」が映り込む頻度が増していく。
「終焉の歌姫」。
OBSのプレビュー画面の隅、調整室のガラスの反射、時には夢の淵で。
彼女は歌う。アリスが歌っているはずなのに、俺の鼓膜には「歌姫」のハミングが重なって響く。切なく、乞うような旋律。
アリスの記念ライブ当日。
スタジオの空気は熱気で飽和していた。スタッフたちの怒号と歓声が飛び交う。同接数は過去最高を記録しようとしている。
俺は調整室の椅子に深く沈み込んでいた。
手汗が止まらない。視界が揺れる。
来る。また来る。あの「修正力」が。成功の瞬間に訪れる断頭台の刃が。
「昴さん! 本番、行きます!」
アリスの声がインカムから響く。
「……ああ、行ってこい」
喉から絞り出した声は、砂のように擦れていた。
ライブが始まる。光が溢れる。コメントが滝のように流れる。
『最高!』『待ってた!』
その光景を見た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
「違う……これは、俺への賞賛じゃない。俺は、ただの……」
不意に、モニターの中のアリスが動きを止めた。
いや、違う。アリスのアバターが、ノイズと共に剥がれ落ちていく。まるで古びた塗装が剥げるように、きらびやかな衣装が、愛らしい笑顔が、デジタルノイズの彼方へと消えていく。
その下から現れたのは、あの「終焉の歌姫」だった。
彼女は歌っていた。
歌詞はない。ただ、魂を削るような、慟哭にも似たヴォカリーズ。
その声は、スタジオのスピーカーからではなく、俺の脳髄の奥底から直接響いてくるようだった。
スタッフたちは気づいていない。彼らは依然としてアリスのパフォーマンスに熱狂している。
世界でただ一人、俺だけが、静止した時間の中で彼女と対峙していた。
彼女はゆっくりと、モニターのこちら側へ歩み寄ってくる。
そして、画面越しに俺を指差した。
その指先は、震えていた。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
彼女は何かを訴えるように口を開き、しかし声を出さず、ただ俺の胸元を指し示した。
俺の胸元。
そこには、社員証がかかっている。「プロデューサー 星野昴」。
彼女は首を横に振った。悲しげに、何度も。
そして、彼女自身の胸に手を当て、次に俺の方へと手を差し伸べる。
その仕草が、雷撃のように俺の記憶を貫いた。
――あの頃の俺だ。
狭いアパートで、安いマイクを握りしめ、誰にも届かない歌を歌っていた俺。
「いつか、あちら側へ行きたい」と願いながら、才能のなさに絶望し、傷つくことを恐れて「裏方」という安全地帯へ逃げ込んだ、卑怯な俺。
彼女は「終焉の歌姫」ではない。
彼女は、俺が殺した「可能性」。俺が置き去りにした「初期衝動」。
成功しそうになるたびに世界がリセットされるのは、俺の無意識が叫んでいたからだ。
「それはお前の手柄じゃない」
「お前が浴びるべき光は、そこじゃない」と。
彼女が、泣きながら微笑む。
その笑顔は、かつて鏡の前で俺が練習した、下手くそなアイドルの笑顔だった。
世界に亀裂が走る。
視界がホワイトアウトする。まただ。またリセットされる。
「待て……!」
俺は叫んだ。椅子を蹴倒し、モニターにかじりつくように手を伸ばす。
「もう嫌だ! 忘れるのは、失くすのはもう嫌だ!!」
ポケットの中で、硬い感触が指に触れた。
あの虹色のペンライト。
ボロボロの、傷だらけの光。
これが俺の原点。これが俺の、最初の夢。
俺はスイッチを入れた。
カチリ。
弱々しい光が灯る。
その心細い光が、迫りくる暗闇を、ほんの僅かに切り裂いた。
第四章 はじまりの歌
目を開けると、そこはまたあの薄暗い部屋だった。
だが、今回は違った。
澱んだ空気が、不思議と澄んで感じられる。頭の中にかかっていた霧が晴れ、痛いほどの鮮明さで思考が回っていた。
PCの前には、まだ誰もいない。空っぽのキャンバス。
俺は携帯電話を取り出し、書きかけのオーディション告知を削除した。
「俺が、やるんだ」
声に出した瞬間、心臓が跳ねた。
恐怖がないわけではない。三十路を超えた男が、美少女のアバターを被って歌う? 正気か?
羞恥心が、熱湯のように顔を焼く。鏡に映る疲れた中年男の顔と、モニターの中の理想像とのギャップに、吐き気がするほどの乖離を感じる。
「馬鹿げてる……」
自嘲が漏れる。だが、その自嘲すらも、どこか心地よい熱を帯びていた。
俺はPCに向かい、モデリングソフトを立ち上げた。
カーソルが重い。レンダリングボタンを押すたびに、低スペックPCが悲鳴のようなファンノイズを上げ、画面がフリーズする。
「動けよ、ポンコツ……!」
デスクを叩く。進まないプログレスバー。焦りと苛立ちで脂汗が滲む。
だが、不思議だ。
これまでの「作業」とは違う。これは「創造」だ。
何千回ものループで培った知識、センス、そして何より、消えていった彼女たちの「想い」が、俺の指先を通して形になっていく。泥臭く、地を這うような執念で、俺は一点ずつポリゴンを積み上げていく。
髪は、夜空のような深い紺色。瞳には、数多の星屑と、隠しきれない憂いを。
衣装は、かつて俺が憧れたアイドルのきらめきと、幾多の失敗という泥を混ぜ合わせたような、混沌としつつも美しいデザイン。
それは「終焉の歌姫」であり、同時に、最も純粋な俺自身だった。
一週間、不眠不休で作業を続けた。
髭は伸び放題、目は血走っている。
だが、モニターの中の「彼女」は、完成した。
俺はヘッドセットを装着する。安物のマイクが、俺の荒い呼吸を拾う。
震える手で、あの虹色のペンライトをデスクに置いた。それは、暗礁の海を行く俺を見守る、唯一の灯台の光だ。
配信ソフトを起動する。
タイトルは空欄。タグもなし。
宣伝は一切していない。フォロワーゼロのアカウント。
視聴者は、たまたま迷い込んだ数人だけかもしれない。いや、誰も来ないかもしれない。
それでもいい。
俺は「配信開始」のボタンにカーソルを合わせる。
指が震える。怖い。
プロデューサーとして他者を矢面に立たせるのとは訳が違う。
ここで否定されれば、俺の魂そのものが否定される。
だが。
「……行くぞ」
クリック。
『――あー、あー。テス、テス』
モニターに映る、俺の分身。
少しノイズ混じりの音声。カクつくモーション。
だが、そこには確かに、俺の命が宿っていた。
「はじめまして。……そして、おかえりなさい」
誰に言うともなく呟いた。
「俺の名前は……星野スバル。今日は、歌を歌いに来ました」
視聴者数のカウンターが、「0」から動いた。
「1」。
たった一人。
俺は息を吸い込む。
肺が痛くなるほど深く。
そして、これまで飲み込んできた数千の絶望と、数万の希望を乗せて、最初の音を紡いだ。
最終章 虹色の夜明け
歌ったのは、既存のヒット曲ではない。
ループの中で、幻の少女たちが口ずさんでいた断片的なメロディ。それを繋ぎ合わせ、俺自身の拙い言葉で縫い合わせた『はじまりの歌』だ。
声が、喉からほとばしる。
それは、男の声帯から発せられているはずなのに、ボイスチェンジャーと俺の情念が混ざり合い、性別を超越したような、不思議な響きを持って空間を震わせた。
下手かもしれない。ピッチは甘く、高音は掠れている。
洗練されたプロの歌声とは程遠い。
だが、その歌には嘘がなかった。血の通った、生身の「真実」があった。
歌いながら、俺は見た。
モニターの向こう、デジタルの深淵。
そこに、たった一つの「眼」があるのを。
視聴者数「1」。
その「1」が誰なのかは分からない。偶然クリックしただけの暇人か、あるいはバグか。
だが、その「1」は去らなかった。
俺がサビを張り上げ、声が裏返りそうになっても、その数字は灯り続けていた。
胸が熱い。
八万人の同接よりも、このたった一人の「1」が、何倍も重く、尊い。
俺の歌が、誰か一人の鼓膜を震わせている。俺の魂が、誰か一人に届いている。
運命の修正力が、襲ってこない。
吐き気もしない。視界も歪まない。
ただ、涙でモニターが滲む。
歌がクライマックスに達する。
俺は、デスクの上のペンライトを掴み、画面の前で掲げた。
それに呼応するように、トラッキングされたアバターもまた、光り輝くマイクを掲げる。
「これが、俺だ!!!」
叫びと共に、最後の音を叩きつける。
その瞬間、俺の部屋を、モニターからの光が白く染め上げた。
過去に引き戻される感覚はない。時間は、確実に未来へと秒針を進めている。
静寂が戻る。
荒い息遣いだけが響く。
恐る恐るコメント欄を見る。
たった一件。
その「1」人が、コメントをくれていた。
『――待ってたよ』
その言葉が、俺の心臓を貫いた。
誰が待っていたのか。過去の俺か、未来のファンか、それとも消えていった歌姫たちか。
分からない。
だが、それで十分だった。
俺は涙を袖で乱暴に拭い、マイクに向かって、震える声で、しかしはっきりと言った。
「ありがとう。……ここからが、俺たちの歴史だ」
視聴者数はまだ「1」のままだ。
だが、その「1」の向こう側に、無限に広がる波紋の予感が見えた。
夜明けの薄明かりが、カーテンの隙間から差し込んでくる。
デスクの上の虹色のペンライトは、もう埃をかぶっていない。朝日に照らされ、新品のように鮮烈な七色の光を放っている。
長い長い夜が明けた。
俺の物語は、今、たった一人の「あなた」と共に、静かに幕を開ける。