残滓のクロニクル、色のない救済
第一章 瑠璃色の依頼人
俺の店は、忘却の匂いがする。埃と古木の香りに混じり、インクと錆、そして誰かの微かな後悔が、午後の光の中で静かに漂っている。俺、カイは、このガラクタの墓場で番人をしている。ただの古物商ではない。俺は、物に触れると、その最後の持ち主の感情を幻覚として追体験してしまう。呪いのような、この力のおかげで、物の真贋を見抜くことだけは得意だった。
その日、店のドアベルが澄んだ音を立てたとき、空気が変わった。入ってきたのは、まるで深海の色をそのまま切り取って織り上げたかのような、鮮やかな瑠璃色のドレスを纏った少女だった。彼女の存在そのものが、この煤けた店の中で一つの光源のように輝いている。彼女の持つ「運命の色」は、俺のようなほとんど無色の「背景」とは次元が違う、濃密なものだった。
「あなたが、カイさん?」
鈴を転がすような声。しかし、その瞳には色の鮮やかさとは裏腹の、深い翳りが落ちていた。彼女はリリアと名乗り、懐から小さな懐中時計を取り出した。銀細工の蓋には、精緻な紋章が刻まれている。
「兄が……倒れました。今、流行っている奇妙な病で」
彼女の声は、硬い硝子のように震えていた。
「意識が戻らないのです。ただ、眠っているように穏やかな顔で。医者も匙を投げました。お願いです。この時計に残された兄の想いを読んでいただけませんか。何が起きたのか、手がかりが欲しいのです」
俺は差し出された時計と、彼女の縋るような瞳を交互に見た。強い感情の残滓は、俺の精神を削る。特に、絶望や恐怖は、数日間悪夢となって俺を苛む。断るべきだ。だが、彼女の瑠璃色の瞳の奥に揺らめく悲痛が、俺の心の壁を静かに侵食していた。
第二章 安堵と誘惑の残滓
革手袋を外し、冷たい銀の蓋に指先が触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
いつものように、耳鳴りと共に幻覚が始まる。だが、予想していた絶望の冷たさも、恐怖の叫びもなかった。代わりに、全身が温かい光に包まれるような、不思議な感覚が広がった。まるで、長く背負ってきた重荷をようやく下ろしたかのような、魂の底からの「深い安堵」。
幻覚の中で、俺はリリアの兄になっていた。目の前には、ゆらゆらと光る砂時計がある。その砂は、万華鏡のようにきらめきながら落ちていく。それを見つめる自分の心が、歓喜に打ち震えているのが分かった。早く、あの光の中へ。すべてから解放されるのだ。抗い難い、甘美な「誘惑」が、俺の意識を溶かしていく。
「……っ!」
俺は喘ぎながら時計から手を離した。額には冷たい汗が滲んでいる。リリアが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「カイさん? 何が見えましたか?」
「……奇妙だ」俺は掠れた声で言った。「苦しみじゃない。むしろ、これは……救いだ。君のお兄さんは、何かから解放されることを、心から望んでいた」
その後、俺は他の昏睡事件の被害者の遺品にも触れた。身分の高い騎士の剣、高名な学者の万年筆、富裕な商人の金貨。持ち主も、運命の色もバラバラだ。だが、そこから流れ込んでくる感情は、驚くほど一貫していた。「深い安堵」と「抗い難い誘惑」。彼らは誰もが、自らその状態を望んでいた。これは病気でも、犯罪でもない。何か、もっと巨大な意志が働いているとしか思えなかった。
第三章 色喰らいの砂時計
被害者たちには一つの共通点があった。彼らは皆、昏睡に陥る直前、街外れの寂れた地区にある古美術商「時詠みの堂」を訪れていた。俺はリリアにそのことを伝え、一人でその店へ向かった。
「時詠みの堂」は、まるで時間そのものが澱んで化石になったかのような場所だった。店主の姿はなく、店内には夥しい数の時計や骨董品が、静寂の中で埃を被っている。俺は慎重に店内を進み、奥の部屋でそれを見つけた。黒檀の台座に鎮座する、一つの砂時計。
他の品々とは明らかに異質だった。中の砂は無色透明で、ガラスも曇り一つない。だが、俺がそれに近づいただけで、肌が粟立つような、ただならぬ気配を感じた。これが、幻覚の中でリリアの兄が見ていたものだ。俺は覚悟を決め、指を伸ばした。
触れた瞬間、奔流が来た。
これまでに体験したどの残滓よりも強烈な、無数の感情の渦。王の孤独、罪人の後悔、恋する乙女の歓喜、生まれいずる赤子の純粋な驚き。何世代にもわたる人々の「運命の色」に紐付いた、ありとあらゆる感情が、俺の精神を坩堝のようにかき混ぜる。これが「色喰らいの砂時計」。これはただの道具ではない。運命そのものを喰らい、蓄積する、恐ろしい器だ。
第四章 色褪せた世界
よろめきながら自分の店に戻ると、リリアが待っていた。彼女の顔は青白く、あの鮮やかだった瑠璃色のオーラも、どこか儚げに揺らいで見える。
「見つけました」
俺は息を切らしながら、砂時計をテーブルに置いた。
「これが事件の鍵です。こいつが、あんたの兄さんや他の人たちから『運命の色』を奪ったんだ」
だが、リリアの反応は俺の予想とは違っていた。彼女は恐れるどころか、まるで聖遺物を見るかのような、熱のこもった瞳で砂時計を見つめていた。
「……私も、疲れました」
彼女はぽつりと呟いた。
「瑠璃色に生まれ、瑠璃色の運命を生きることにも。決められた役割、期待、しがらみ。兄が感じたという『安堵』が、今なら分かる気がします」
「何を馬鹿なことを!」
俺が叫ぶより早く、彼女は動いた。白く細い指が、色喰らいの砂時計に触れる。
その瞬間、砂時計の中の透明な砂が、鮮やかな瑠璃色に染まり始めた。眩い光が放たれ、リリアの体を包み込む。彼女のドレスの色が、髪の色が、そして彼女自身が放っていた運命の色が、急速に色褪せていく。
「やめろ、リリア!」
俺は手を伸ばすが、間に合わない。彼女の体の輪郭が光の粒子となって溶けていく。そして、彼女はゆっくりと床に崩れ落ちた。その表情は、俺が幾度となく残滓の中で見たものと同じ――すべてから解放された、この上なく穏やかな「安堵」の微笑みだった。
第五章 観測者の目覚め
絶望が、俺の心を黒く塗りつぶした。リリア、お前まで。なぜ。
俺は衝動のままに、瑠璃色に輝く砂時計を掴んだ。どうにでもなれ。この呪われた力の根源を、この世界の不条理を、この手で暴いてやる。
意識が、肉体から引き剥がされた。
気づけば、俺は星々の海に浮かんでいた。眼下に広がるのは、無数の光の河。一つ一つの光が、人々の「運命の色」だった。赤、青、金、緑。それらが複雑に絡み合い、巨大なタペストリーのように世界を形作っている。
『……ようやく、ここまで来たか』
声が響いた。男でも女でもない、古く、そして新しい、世界の心臓の鼓動そのもののような声。
『お前は、この世界の歪みを観測するために私が生み出した、ただ一つの目だ』
声は語る。かつて、世界は混沌だった。だから「運命の色」という法則を与え、人々を導いた。だが、時は流れ、色は人々を導く光ではなく、縛り付ける鎖となった。濃い色は傲慢を生み、薄い色は絶望を生んだ。誰もが運命という名の檻の中でもがいている。
『私は、過ちを正すことにした。人々を色から解放し、もう一度、無限の可能性を持つ、自由な存在へと還す。あの昏睡は、新たな存在へと羽化するための繭なのだ』
リリアの穏やかな顔が脳裏に浮かぶ。あれは、救済だったというのか。
『だが、解放が真の幸福とは限らない。自由は、時に孤独よりも残酷だ』
声は続けた。
『だから、お前を創った。お前は、私の干渉を受けない唯一の存在。触れた物の負の感情をその身に受け、世界の痛みを誰よりも知る観測者。お前の役目は、この解放が正しいかどうかを、最後に判断することだ』
第六章 選択の刻
俺は、観測者。この世界の不条理を、悲鳴を、痛みを感じるためにだけ存在していた? 俺の苦しみは、全てそのためだったというのか。
『観測者よ。お前に問う』
声が、厳かに告げる。
『お前が触れてきた、色の呪いに喘ぐ者たちの絶望。そして、色を失い、繭の中で安らかに眠る者たちの解放。どちらが、この世界が進むべき道か?』
目の前に、瑠璃色に輝く砂時計が浮かび上がる。
『選べ。この砂時計を反転させれば、色は人々の元へ還り、世界は元の秩序を取り戻すだろう。だが、そのままにすれば、全ての色は失われ、誰もが等しく色のない、未知の明日を迎える』
俺は、これまでの人生を思い返した。物に触れるたびに心を苛んだ、名もなき人々の無数の絶望。運命の色に縛られ、苦しんでいたリリアの瞳。そして、全てから解放された彼女の穏やかな寝顔。
どちらが正しいかなんて、分かるはずがない。だが、選ばねばならない。この身に刻み込まれた無数の痛みが、俺に一つの答えを囁いていた。
俺は、ゆっくりと砂時計に手を伸ばした。
第七章 色のない朝
目を開けると、古物店の窓から差し込む光は、ただ柔らかい白色だった。街の喧騒が耳に届く。だが、何かが決定的に違っていた。
世界から、色が消えていた。
人々の体を彩っていた、あの鮮やかな「運命の色」が、どこにもない。誰もが等しく、無色透明の存在として、朝の光の中を歩いている。一様に戸惑いの表情を浮かべてはいるが、その足取りには、どこか縛めが解かれたような軽やかさがあった。
店の奥のソファで、リリアが静かに身じろぎした。彼女はゆっくりと目を開け、自分の手を見つめ、そして俺を見た。彼女の瞳には、かつての瑠璃色の輝きはもうない。だが、そこには雨上がりの空のような、澄み切った穏やかさが宿っていた。
俺は、自分の手を見下ろした。
長年、俺を苛んできた、他人の感情を感じ取る呪われた力は、凪いだ水面のように静まり返っていた。もう、物に触れても悪夢を見ることはないだろう。観測者としての役目は、終わったのだ。
俺は初めて、ただのカイとして、この新しく生まれた世界に立つ。これが正しかったのか、間違っていたのか、答えはまだない。だが、無限の可能性を秘めた、色のない朝が、静かに始まろうとしていた。