第一章: 未来からの遺言
完全なる静寂。それだけが、相馬響也という男に許された安住の地だった。
東京都文京区、築四十年のマンションの一室。壁一面を覆いつくす吸音材が、外界の喧騒を貪欲に飲み込んでいる。世界から切り離された結界の中で、響也は安楽椅子に深く沈み込み、愛用のヘッドホンのイヤーパッドを指先でなぞった。
無精髭に覆われた頬。手入れを放棄した乱れた黒髪が、モニターの青白い光に幽霊のように浮かび上がる。
[A:相馬 響也:冷静]「……ノイズが、消えない」[/A]
眉間が僅かに跳ねる。淹れてから一時間は経過したであろうブラックコーヒー。酸化した酸っぱい臭気が、鋭敏すぎる嗅覚を刺した。
その時、静寂という名の聖域を引き裂く侵入者。ドアベル。
[A:相馬 響也:怒り]「チッ」[/A]
舌打ち一つ。重い腰を上げ、玄関の扉を乱暴に開け放つ。
そこに立っていたのは、極彩色のノイズそのもののような少女だった。
[A:雨宮 マヤ:興奮]「あんたが相馬響也? これ、あんた宛て」[/A]
陽光を弾く金色のショートボブには、鮮血のような赤のメッシュ。左耳に連なる無数のピアスが、彼女が動くたびにチャリチャリと金属的な不協和音を奏でる。
響也は、その少女の瞳に吸い込まれそうになった。深い悲しみを湛えた瞳。誰かに似ている。
少女――雨宮マヤは、一本のカセットテープを響也の胸に押し付けた。
[A:相馬 響也:驚き]「なんだ、これは。アナログテープ……?」[/A]
[A:雨宮 マヤ:冷静]「再生すればわかる。じゃあね」[/A]
嵐のように去っていく背中。響也は吸い寄せられるように作業机へ戻り、埃を被ったオープンリールデッキにテープをセットした。
再生ボタンを押す。テープが擦れるヒスノイズ。
次の瞬間、部屋の空気が絶対零度まで凍りついた。
『お願い、やめて……響也さん!』
妻の声だ。三年前に忽然と姿を消した、愛する妻の声。
そして、その悲鳴に重なるように、低く、冷酷な男の声。
『……さよならだ。愛しているよ』
それは紛れもなく、響也自身の声だった。
背筋を悪寒が駆け上がる。心臓が早鐘を打ち、脂汗が額を伝う。
テープの最後、無機質な音声が録音日時を告げた。
『202X年、10月24日。午後11時』
[Think]今日の日付だ。[/Think]
[A:相馬 響也:恐怖]「馬鹿な……。これは、明日の夜じゃないか」[/A]
未来の日付で録音された、妻の断末魔。そして、処刑執行人は自分自身。
予告か? あるいは悪質な悪戯か?
響也はヘッドホンを握りしめる。指の関節が白く浮き出るほどに。
[A:相馬 響也:冷静]「場所を特定する。音だけは、嘘をつかない」[/A]
存在しないはずの殺人を止めるため、彼はノイズの海へダイブする。
だが、彼がまだ気づいていない事実がある。
テープの裏側に、もう一つの「音」が隠されていることに。
◇◇◇
第二章: 崩れゆく日常
解析波形がモニター上で緑色の蛇のようにのたうつ。
響也はテープに含まれる「環境音」を極限まで増幅していた。
妻の悲鳴の背後。微かだが、リズミカルな打撃音。工場のプレス機か? 否、電車のジョイント音だ。
[A:相馬 響也:冷静]「周波数400ヘルツ周辺のピーク……。京浜東北線の旧型車両か? だが、この車両はもう走っていないはずだ」[/A]
情報の不整合。
響也は焦燥を抱え、主治医である九頭龍玄造のクリニックを訪ねた。
診察室には、甘ったるい百合の香りと、鼻を突く消毒液の臭いが混在している。
マホガニーのデスクの向こう、九頭龍は銀縁眼鏡の奥の爬虫類めいた冷たい瞳を細めた。
[A:九頭龍 玄造:冷静]「ふむ。未来からのテープ、ですか。相馬さん、薬は飲んでいますか?」[/A]
[A:相馬 響也:怒り]「幻聴じゃない! 現物がここにあるんだ!」[/A]
[A:九頭龍 玄造:冷静]「落ち着きなさい。君の脳は、過度なストレスで記憶と現実の境界を曖昧にしている。奥様が失踪したあの日から、君の時間はずっと止まったままだ」[/A]
諭すような、粘着質なバリトンボイス。
響也は反論しようとして、口ごもる。
記憶。そうだ、妻が消えた日の記憶。
あの日、自分は何をしていた?
必死に回想しようとすると、脳裏で強烈なホワイトノイズが炸裂する。
[Think]思い出せない。霧がかかっているようだ。[/Think]
クリニックを出た響也は、よろめきながら雑踏を歩く。
すれ違う人々の話し声が、すべて自分を嘲笑うノイズに聞こえる。
ポケットの中でスマートフォンが振動した。雨宮マヤからだ。
[A:雨宮 マヤ:恐怖]「おい、おっさん! そのテープ、あたしの親父が持ってたもんなんだ。親父は言ってた。『10月24日の工場で、すべてが終わる』って」[/A]
[A:相馬 響也:驚き]「工場……? 場所はどこだ」[/A]
[A:雨宮 マヤ:冷静]「横浜の埋立地にある廃工場。……ねえ、気をつけて。なんか変なんだよ。あたしの記憶と、親父の日記の内容が噛み合わない」[/A]
マヤの言葉が、九頭龍の指摘と重なる。
世界が歪んでいる。
響也はふと、ショーウィンドウに映る自分の顔を見た。
ひどく青ざめ、眼窩が落ち窪んでいる。まるで、死人。
[Think]俺は、本当に被害者なのか?[/Think]
疑念の棘が、心臓に突き刺さる。
その時、ヘッドホンから流れていた環境音解析の結果が出た。
特定された場所は、マヤの言う横浜の廃工場。
だが、そこに含まれていた「ある音」が、響也を戦慄させた。
それは、彼自身が所有する、特注のオイルライターを開閉する音。
[A:相馬 響也:絶望]「俺が……そこにいたのか?」[/A]
◇◇◇
第三章: 反転する悪夢
廃工場のトタン屋根を、激しい雨が叩く。
錆びた鉄の臭気と、湿ったカビの匂いが肺を満たす。
響也は懐中電灯の束を頼りに、暗闇の中を進んだ。
テープの音が反響する場所。ここだ。
だが、そこに妻の姿はない。
あるのは、埃を被った古びた録音機材と、一台の車椅子だけ。
[A:相馬 響也:驚き]「誰もいない……? 今日は24日のはずだ」[/A]
[Shout]カッ、カッ、カツーン……[/Shout]
硬質な足音が響く。
闇の中から現れたのは、優雅に傘を差した九頭龍玄造だった。
[A:九頭龍 玄造:喜び]「おや、たどり着いてしまいましたか。予定より少し早いですねえ」[/A]
[A:相馬 響也:怒り]「先生、どういうことだ! 妻はどこだ!」[/A]
九頭龍は口の端を歪め、憐れむように首を振った。
[A:九頭龍 玄造:冷静]「相馬さん。そのテープをよく見なさい。製造番号を。それは10年前に製造中止になったモデルですよ」[/A]
響也の手からテープが滑り落ちる。
カシャン、と乾いた音がした。
[A:九頭龍 玄造:狂気]「未来の予言? とんでもない。それは『過去の記録』です。10年前の今日、あなたがここで奥様を殺めた瞬間のね」[/A]
[Think]……え?[/Think]
脳内のホワイトノイズが晴れていく。
鮮血。妻の叫び。自分の手にかかる感触。
そして、震える自分に「忘れなさい」と薬を注射する九頭龍の顔。
すべての記憶が、濁流となって押し寄せた。
[A:相馬 響也:絶望]「あ……あぁ……ああああああッ!!」[/A]
膝から力が抜け、冷たいコンクリートに崩れ落ちる。
喉の奥から、言葉にならない獣のような嗚咽が漏れた。
自分は被害者ではなかった。
愛する妻を奪った、最も憎むべき加害者だったのだ。
[A:九頭龍 玄造:冷静]「耐え難い苦痛でしょう? だから私が記憶を消して差し上げたのに。君は恩知らずだ」[/A]
[A:相馬 響也:悲しみ]「俺が……俺が殺した……」[/A]
[A:九頭龍 玄造:冷静]「そう。君は欠陥品だ。壊れたレコードのように、同じ過ちを繰り返す」[/A]
響也は視線を落とす。足元に落ちていたガラス片。
先端が鋭く尖っている。
これで頸動脈を掻き切れば、このノイズだらけの世界から解放されるはずだ。
震える手で、ガラス片を握りしめた。
皮膚が裂け、血が滲む痛みさえ、今の彼には救いに思えた。
[A:相馬 響也:冷静]「……もう、終わりにしよう」[/A]
喉元に刃先を当てた、その瞬間。
◇◇◇
第四章: 贖罪の選択
死への渇望が、理性を麻痺させていた。
しかし、耳だけは生きていた。
死の寸前、転がったテープデッキから、最期の部分が再生される。
妻の断末魔。その直後に続く、微かな衣擦れの音。
そして、吐息のようなノイズ。
『……生きて、響也』
[Think]……違う。[/Think]
響也の手が止まる。
絶対音感を持つ彼の耳が、その「声」の波形の違和感を捉えた。
妻の声だ。だが、この「断末魔」には、喉の筋肉の緊張がない。
これは演技だ。誰かに強要された演技か、あるいは――。
[A:相馬 響也:冷静]「なぜ、俺を守ろうとした?」[/A]
脳裏にフラッシュバックする記憶の断片。
10年前。妻は殺されたのではない。
九頭龍に脅されていたのだ。響也を人質に取られ、死を偽装することを強要された。
そして、妻を「殺した」という偽の記憶を植え付けられたのは、響也自身。
九頭龍は、響也という天才的な聴覚を持つモルモットを手元に置くために、この三文芝居を演出したのだ。
[A:相馬 響也:怒り]「……騙されていたのは、俺の記憶の方か」[/A]
口の中に広がる血の鉄の味が、彼を現実に引き戻す。
恐怖が怒りへ、そして冷徹な殺意へと変質していく。
九頭龍はまだ、響也が壊れたままだと信じ込み、優越感に浸って背を向けていた。
[A:九頭龍 玄造:冷静]「さて、処理班を呼びましょうか。君の死体も、また芸術的になりそうだ」[/A]
響也はゆっくりと立ち上がる。
ガラス片を捨て、代わりにヘッドホンを首にかけ直した。
彼の目はもう、死人のそれではない。
獲物を狙う狩人の目だ。
[A:相馬 響也:冷静]「おい、九頭龍」[/A]
[A:九頭龍 玄造:驚き]「……ほう? まだ息がありましたか」[/A]
[A:相馬 響也:怒り]「あんたの誤算を教えてやる。俺は人の言葉は信じない。だが、音だけは信じる」[/A]
響也は懐から、マヤが持ってきた小型のボイスレコーダーを取り出した。
そこには、先ほどの九頭龍の自白がすべて録音されている。
だが、それだけではない。
響也はレコーダーのスイッチを「再生」ではなく「解析」モードに切り替えた。
[A:相馬 響也:興奮]「あんたの心臓のペースメーカー、古い型だな? 特定の周波数で誤作動を起こす欠陥がある」[/A]
[A:九頭龍 玄造:恐怖]「な、何を言っている……?」[/A]
[A:相馬 響也:狂気]「俺の絶望を聞かせてやるよ。アンタの骨の髄まで響く、最高のレクイエムをな」[/A]
工場内のスピーカーシステムに、ジャックを突き刺す。
ボリュームノブを最大まで回す。
静寂は終わった。
◇◇◇
第五章: 静寂のあとに
[Shout]キィィィィィィィィィィン!![/Shout]
鼓膜を突き破るような高周波音が、廃工場を支配した。
それは単なるハウリングではない。九頭龍のペースメーカーの制御信号に干渉するよう、精密に調整された「死の旋律」だ。
[A:九頭龍 玄造:絶望]「ぐ、ああああッ! やめろ、やめろぉぉぉ!!」[/A]
九頭龍は胸をかきむしり、泥水の中にのたうち回る。
爬虫類のような冷徹な瞳は、今は白目を剥き、恐怖に染まっている。
傲慢な支配者の仮面が剥がれ落ち、ただの老いた肉塊がそこに転がっていた。
[A:相馬 響也:冷静]「どうした、先生。これがあなたの嫌いなノイズですよ」[/A]
[A:雨宮 マヤ:悲しみ]「響也! もういい、やめて!」[/A]
マヤが駆け寄り、響也の腕にしがみつく。
彼女の体温。震える細い腕。
その温もりが、響也の暴走を止める。
スピーカーの電源を落とすと、突然の静寂が訪れた。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。
[System]事件解決フラグが成立しました。[/System]
九頭龍は逮捕された。
数々の違法な人体実験と、マヤの母親――つまり響也の妻への監禁・脅迫の罪で。
妻は生きていた。だが、長年の薬物投与により、言葉と記憶の大半を失っていた。療養所のベッドで眠る彼女は、響也を見ても微笑むことしかできない。
失われた10年は、二度と戻らない。
数ヶ月後。
響也はいつもの部屋で、コーヒーを淹れていた。
部屋には、以前のような窒息しそうな静寂はない。
窓が開け放たれ、街の雑踏が心地よく流れ込んでいる。
[A:雨宮 マヤ:照れ]「ねえ、父さん。……あ、いや、響也。このベースの音、どうかな?」[/A]
[A:相馬 響也:冷静]「3弦のチューニングが甘い。……だが、悪くない響きだ」[/A]
マヤ――実の娘との、不器用な共同生活。
響也は、あのテープを再生する。
ノイズ除去ソフトで、極限までクリアにした妻の最期のメッセージ。
『……生きて、響也。愛しています』
涙が、頬を伝う。
それは悲しみの涙ではなく、凍りついた時間を溶かす、温かい涙だった。
響也はテープを取り出し、引き出しの奥に仕舞う。
[A:相馬 響也:愛情]「ああ。聞こえているよ」[/A]
彼はヘッドホンを外した。
世界は、こんなにも美しい音で満ちていたのだ。
さよならを告げるノイズはもう、聞こえない。
ここにあるのは、明日へと続く静かな鼓動だけだった。
[Sensual]
夕陽が射し込む部屋で、響也はマヤの肩に手を置く。
その華奢な肩の温かさと、微かに香るシャンプーの匂い。
生身の人間の、確かな質量。
二人の影が床に長く伸び、やがて一つに重なる。
[/Sensual]
彼は目を閉じ、新しい旋律に耳を澄ませた。