第一章: 溶けゆくネオンと青の幻影
降り止まない酸性雨が、水没都市アマツの錆びたネオンを鮮やかな毒色に溶かしていく。
濡れたような黒髪から滴る冷たい雨水。ナギの頬を伝い、コンクリートの隙間へ染み込む。
三白眼気味の鋭い瞳が睨みつけるのは、濁りきった足元の水面。
無頓着に着崩した黒い防水コートの裾が、鼻を突く腐臭を放つ泥水に浸かっている。
首元で微かに擦れるのは、亡き妹の形見である錆びた認識票。
水に沈んだ死者の記憶を読み取る違法な『水葬屋』。それが彼の生業。
冷え切った雨音だけが、空っぽの鼓膜を容赦なく叩き続ける。
ドクン。
路地裏の影から、不意に水飛沫が跳ねた。
足をもつれさせ、濁水の中へ倒れ込んできた一人の少女。
色素の薄い銀髪。水面に浮かぶ月光のように広がる。
彼女が顔を上げた瞬間、ナギの呼吸がわずかに止まる。
この澱んだ街には不釣り合いなほど透き通った、水面のように揺れる青い瞳。
サイズの合っていないダボついた白い防水パーカーが、華奢な肩からずり落ちていた。
ナギ「おい。こんな所で寝たら、五分で肺が腐るぞ」
喉仏を上下させ、低くぶっきらぼうな声を引き絞る。
少女の青い瞳が、怯えたように揺れ動いた。
シズク「ごめんなさい、何も思い出せなくて……。でも、あなたの声は、温かいの」
その細い指先が、ナギのコートの袖をすがるように掴む。
直後、路地の入り口を強烈なサーチライトが切り裂いた。
閃光が二人の横顔を白く飛ばす。
無機質な駆動音。オケアノスの武装ドローンが雨を裂いて迫っていた。
ナギは舌打ちをし、少女の腕を引いて泥水の中へ身を投じる。
着水と同時。彼女の身体に触れたナギの意識の中へ、膨大な『記憶のデータ』が奔流となって流れ込んだ。
網膜の裏側で、映像が爆発する。
無機質な手術室。無数のチューブに繋がれた小さな体。
聞こえるはずのない、妹の鼓膜を劈くような悲鳴。
そして、その手術台を見下ろす『誰か』の視点。
ザザッ……ザザザッ!
水中でナギの瞳孔が限界まで開き、肺から銀色の気泡が漏れた。
今、自分の腕の中にいるこの少女の記憶の最奥底。
そこに、妹の命を奪った「処刑」の光景が、実行者の目線として焼き付いていた。
第二章: 焦げた珈琲と甘い毒
ネオンサインの残骸が沈む、水上スラムの片隅。
ブリキの屋根を打つ雨音が、外界との繋がりを断ち切るように響き続ける。
錆びたストーブの上で沸騰するのは、真っ黒に焦げたブラックコーヒー。
口に含めば、舌を焼くような強烈な苦味が広がる。
ナギ「記憶なんて、ただの脳のバグだろ。気にすんな」
差し出された欠けたマグカップを、シズクは両手で包み込むように受け取る。
ダボついた白いパーカーの袖口から覗く指先。カップの熱で少しずつ血色を取り戻していく。
彼女の青い瞳が、窓辺を滑り落ちる雨垂れを静かに追っていた。
シズク「苦い……。でも、なんだか落ち着く匂い」
唇の端が微かに上がり、柔らかい弧を描く。
その無防備な表情を見るたび、ナギの胸の奥で錆びた刃が軋む。
水中で見たあの『記録』。
オケアノスは、市民の不要な記憶を抽出し、それを都市のエネルギー源として搾取している。
そして妹はその「処理」の過程で使い潰された。
目の前で微笑む少女が、その根幹に関わっているのは間違いない。
それでも、ナギは彼女の体温を振り払うことができない。
カタ……カタカタ……
部屋の隅に置かれた古い通信機が、突然不規則なノイズを吐き出し始める。
シズクが修理を試みていた廃棄部品の山。
スピーカーの震えが、次第に人間の声の輪郭を帯びていく。
カガリ「美しい逃避行ですね、シズク。雨の音に紛れれば、罪から逃れられるとでも?」
感情の起伏が一切ない、機械のように滑らかな男の声。
ナギがナイフの柄に手を掛けるよりも早く、声は残酷な事実を紡ぐ。
カガリ「あなたたちが何処へ逃げようと無駄ですよ。発信器は、彼女自身が『自らの網膜の裏』に縫い付けているのですから」
シズクの青い瞳が、痙攣するように見開かれる。
ピィィィィィィ……!
通信機が甲高い悲鳴を上げる。同時にシズクの左目から一筋の赤い血が、白い頬を伝って流れ落ちた。
第三章: 暴かれた深淵
カシャンッ!
欠けたマグカップが床に叩きつけられ、黒い液体が泥のように広がる。
シズクの喉の奥から漏れるのは、空気を引き裂くような掠れた音。
彼女の網膜に仕込まれた発信器が熱を持ち、封じられていた記憶のプロテクトを強制的に焼き切っていく。
純白の実験室。飛び散る赤い飛沫。冷酷に数値を打ち込む自身の指先。
シズク「あ……ああ、あああ……ッ!」
自らの爪で顔面を掻き毟りながら、シズクは狂ったように床をのたうち回る。
色素の薄い銀髪が、零れたコーヒーと泥に塗れて黒く変色していく。
彼女は単なる被害者ではない。巨大企業オケアノスの記憶消去プロジェクト元主任研究員。
そして、ナギの妹を直接「処理」した張本人。
耐えきれない罪の意識から自らの脳を初期化し、スラムへ逃げ込んでいただけ。
ナギ「ふざけんな……。お前が、お前がアヤを……ッ!」
ナギの右手が無意識に伸び、シズクの細い首を掴み上げる。
指先に伝わる、激しく脈打つ頸動脈の鼓動。
少し力を込めれば、この脆い命など簡単にへし折ることができる。
口の中に血の鉄の味が広がるほど、ナギは奥歯を噛み締めた。
殺意と、彼女の笑顔への未練が、胃の腑でどろどろに混ざり合う。
ドクン、ドクン、ドクン。
シズクの青い瞳が、焦点の合わない虚空を見つめたまま、不気味なほど静止する。
彼女の細い指先が、ナギの腕を振り解くのではなく、自らの首の裏側へ深く突き立てられた。
肉を裂く鈍い音。
鮮血が白いパーカーを瞬く間に赤く染め上げる。
彼女は自らの手で、延髄に埋め込まれた神経インターフェースの端子を、肉ごと引きちぎろうとしていた。
シズク「排除……エラー……私は、私は……ッ!」
血泡を吹きながら痙攣するシズクの口から、人間の声帯を無視した合成音声が響く。
警告。生態ユニット『シズク』の自壊プロセスを開始。初期化不能。
ナギの足元で、世界の前提が音を立てて崩れ去っていく。
第四章: 灰色の侵蝕
崩れゆく水没廃墟の天井から、コンクリートの破片が酸性雨と共に降り注ぐ。
ダァンッ! ダァンッ!
鼓膜を貫く二つの銃声。
ナギの黒いコートの肩口から鮮血が噴き出し、雨水に混じって足元の水溜まりを赤く染める。
カガリ「不要な記憶はノイズです。私が美しく消去してあげましょう」
粉塵の向こうから、一切の足音を立てずに男が現れる。
完璧に整えられたプラチナブロンドの髪。冷酷な氷のような灰色の瞳。
汚れ一つない純白の軍服風スーツは、特殊なフィールドによって雨粒を一滴たりとも寄せ付けていない。
オケアノスの執行官、カガリ。
ナギは血を吐きながら、血塗れで意識を失っているシズクの前に立ち塞がる。
右手のナイフを逆手に構え、三白眼の瞳でカガリを睨み据えた。
ナギ「……過去がどうであれ、俺の隣で笑ったアイツは、本物だ……ッ!」
床を蹴り、残された全筋力を動員して特攻を仕掛ける。
だが、カガリの冷たい灰色の瞳は、微塵も揺るがない。
閃光が走り、ナギの腹部を二発の凶弾が正確に貫いた。
熱い鉛が臓器を焼き切り、ナギの身体は人形のように宙を舞って濁水へ沈み込む。
視界が急激に暗転。肺が泥水を吸い込んで焼け付くように痛む。
水面に浮かび上がるナギの薄れゆく視界の先。
カガリの冷たい指先が、抵抗すら忘れたシズクの白い顎をゆっくりと持ち上げる。
プラチナブロンドの髪が彼女の銀髪と交じり合い、灰色の瞳が彼女の青を深く覗き込んだ。
「ようやく、私の完璧な部品(パーツ)が帰ってきましたね」
カガリの薄い唇が、シズクの血に塗れた首筋に、ねっとりと這うように落ちる。
その瞬間、シズクの透き通った青い瞳から、スッと光が消え失せた。
代わりに浮かび上がったのは、カガリと同じ、無機質で冷酷な灰色の光。
絶望の底へ沈みゆくナギの網膜に、人形のように立ち上がるシズクの姿が焼き付いていく。
第五章: 雨音が止む夜、君の記憶を星に還そう
オケアノスの中枢、巨大な貯水槽『忘却の海』。
無数の管が絡み合うガラス張りの円柱の中で、灰色の瞳をしたシズクが宙に浮かんでいる。
彼女の魂が、都市を動かすシステムの中核として、永遠に溶解されようとしていた。
防弾ガラスを叩き割り、血まみれの黒いコートを引きずりながら、ナギが中枢へ踏み込む。
命の灯火は、すでに消えかかっている。
それでも、彼は足を引きずり、貯水槽の制御盤へ自らの手を叩きつけた。
ナギ「記憶なんて、ただの脳のバグだろ。……だったら、俺の全部で、バグらせてやるよ」
首元の錆びた認識票を握りしめ、ナギは自身の神経を中枢の『水』へ直接接続する。
全存在――肉体、記憶、そして魂そのものを代償にした、絶対のハッキング。
ドクンッ……!
《オーバードライブ・メモリア》
爆発的な光が、中枢施設を包み込む。
ナギの記憶が、光の粒子となって水脈を逆流していく。
妹の笑顔。泥水にまみれたスラムの風景。焦げたコーヒーの匂い。
そして、雨垂れを見つめて微笑む、青い瞳の少女。
全セキュリティプロテクトの崩壊を確認。搾取された全記憶データの解放を開始します。
都市中を満たしていた毒のような酸性雨が、嘘のようにピタリと止む。
厚い雨雲が割れ、ガラス張りの天井から降り注ぐのは、アマツが何十年も忘れていた眩い星空。
システムから切り離され、崩れ落ちるように床へ倒れ込んだシズク。
彼女の瞳から灰色が剥がれ落ち、本来の透き通るような青が戻る。
しかし、彼女を抱きとめるはずの腕は、もうどこにもない。
ナギの身体は、すでに無数の光の粒子となって空へ溶け去っていた。
解放された記憶の波の中で、シズクは全てを思い出す。
自分の罪も、不器用で優しかった水葬屋の青年のことも。
だが、世界は彼という存在の記録を代償にして浄化された。
明日になれば、この街の誰も、彼のことなど覚えてはいない。
シズク「ごめんなさい……。でも、あなたの声は、ずっとここにあるの」
震える両腕で、もはや形のない彼の面影をきつく抱きしめる。
降り注ぐ星空の下。青い瞳からこぼれ落ちた一滴の涙だけが、かつて彼がそこにいた唯一の証。