忘却師は囁きを聞く

忘却師は囁きを聞く

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第一章 空白の依頼人たち

時枝律(ときえだ りつ)の仕事場は、音も匂いも、そして記憶さえも吸い尽くすかのように静謐だった。壁一面に並ぶ無数の小瓶には、様々な色合いの液体が詰められている。それは依頼人の涙と、忘れたい記憶のエッセンスを混ぜ合わせた「忘却の香油」。律は、人々から金銭を受け取り、その対価として耐えがたい記憶を消し去る、「忘却師」だった。

その日、訪れた女性は、水無月栞(みなづき しおり)と名乗った。雨に濡れた紫陽花のように儚げな彼女は、震える声で言った。「三ヶ月前に亡くなった恋人の記憶を、すべて消してください。彼の匂いも、声も、愛してくれたという事実さえも……もう、耐えられないんです」

律は無言で頷き、彼女を施術用のソファに座らせる。いつもの手順だ。カウンセリングで消し去るべき記憶の輪郭を特定し、対応する香油を調合する。そして、特殊な音叉を鳴らし、その微細な振動と香りの催眠効果で、脳の深層にある記憶の結びつきを解きほぐしていく。

施術を終えた栞の瞳は、嵐が過ぎ去った後の湖面のように静かだった。深い悲しみが取り払われた代わりに、そこにはぽっかりとした空虚が広がっている。

「ありがとうございました」

感情の乗らない声で礼を言う彼女を見送りながら、律はかすかな罪悪感を覚えた。自分は悲しみを消したのか、それとも、悲しむことのできる人間性そのものを奪ったのか。だが、感傷は仕事の邪魔になるだけだ。彼はすぐに思考を切り替え、カルテに「水無月栞:恋人の死に関する記憶一式を消去。施術完了」とだけ記した。

異変に気づいたのは、一週間後のことだった。何気なくつけたテレビのニュースが、若い女性の連続失踪事件を報じていた。画面に映し出された被害者たちの顔写真。その中に、水無月栞の姿があった。律の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたかのように軋む。

まさか。震える手で、施錠されたキャビネットから過去の顧客カルテをすべて引きずり出した。ニュースで報じられている他の被害者たちの名前と、カルテを一枚一枚、照合していく。

二人目の被害者、小野寺聡。半年前、事業の失敗で背負った多額の負債の記憶を消した。

三人目の被害者、高村美咲。一年前、親友に裏切られた記憶を消した。

そして、四人目の……。

全員だ。連続失踪事件の被害者たちは全員、この一年以内に律が記憶を消した顧客たちだった。

偶然であるはずがない。犯人は、律の顧客だけを狙っている。なぜ? 何のために?

背筋を冷たい汗が伝った。彼らが失踪した原因は、自分にあるのではないか。自分が彼らの記憶に作り出した「空白」が、彼らを無防備にし、何者かにとって格好の標的に変えてしまったのではないか。律は、自分が消し去ったはずの記憶の闇に、今度は自分が引きずり込まれていくのを感じていた。

第二章 消された旋律

警察に相談することはできなかった。自らの職業の非合法性もさることながら、事件の鍵が「消された記憶」にある以上、それを証明する術がない。律はたった一人で、この不可解な事件の真相を追うことを決意した。

書斎に籠もり、被害者たちのカルテを改めて読み返す。小野寺聡は、家族に合わせる顔がないと泣いていた。高村美咲は、人間不信に陥り、夜も眠れないと訴えていた。誰もが、人生の旋律が不協和音を奏でた末に、律のもとを訪れた。律は彼らの譜面から、苦しみの原因となった不快な音符を抜き去った。だが、その結果生まれたのは、美しいハーモニーではなく、歪な沈黙だけだったのかもしれない。

律は、彼らが何を忘れようとしていたのか、その詳細を思い出そうと努めた。しかし、忘却師の鉄則は、依頼人の記憶に深入りしないこと。施術が終われば、律自身の記憶からも、依頼人の苦悩の詳細は希薄になっていく。残されているのは、カルテに記された無機質な事実だけだ。

犯人の目的は何なのか。律の顧客であるという共通点以外に、被害者たちを結びつけるものは見当たらない。年齢も、職業も、生活圏もバラバラだ。犯人はどうやって彼らを見つけ出した? 律の存在を知る者はごく僅か。紹介者経由の、完全な秘密厳守がこの仕事の生命線だ。

「まさか……」

ある可能性が脳裏をよぎり、律は息を呑んだ。犯人は、律の存在を知っているばかりか、誰が、いつ、どんな記憶を消したのかさえも把握しているのではないか。だとしたら、情報源は自分自身以外に考えられない。だが、自分から情報が漏れた形跡はない。

夜が更け、窓の外では冷たい雨がアスファルトを叩いていた。その単調な音が、律の焦燥感を増幅させる。コーヒーを啜っても、苦味しか感じない。五感が鈍っていくような感覚。それは、出口のない迷宮に迷い込んだ者の閉塞感だった。

彼はふと、水無月栞の言葉を思い出した。「彼の匂いも、声も……」。彼女は具体的な感覚を消すことを望んだ。律は、自分が消した記憶の断片を、暗闇の中で手探りで拾い集めるような無力感に襲われた。自分が抜き去った音符のせいで、彼らの人生の歌は途切れ、犯人という不気味な指揮者の手によって、死という終止符が打たれてしまったのだろうか。

罪悪感が、鉛のように重く心にのしかかる。自分は救済者などではなく、魂の空白を作り出す共犯者だったのかもしれない。

第三章 囁きの主

突破口は、思わぬところから見つかった。藁にもすがる思いで、失踪前の水無月栞の足取りを追っていた律は、彼女が住んでいたアパートの大家から、遺品整理の許可を得ることができた。警察が見落とした何かがあるかもしれない。

栞の部屋は、彼女の不在を静かに物語っていた。机の上に、一冊の古びた日記帳が残されている。律は、他人のプライベートを覗き見ることに躊躇いながらも、ページをめくった。そこには、恋人を失った絶望的な日々が、インクの滲んだ文字で綴られていた。そして、最後のページに、律の心を凍りつかせる一文があった。

『あの人の囁きさえなければ、私は彼を失わずに済んだのかもしれない。あの甘く、冷たい声が、今も耳から離れない』

「囁き……?」

律は他の被害者たちの周辺も徹底的に洗い直した。小野寺聡が残した事業計画のメモの隅に、『囁く男のアドバイスは毒だった』という走り書き。高村美咲が友人に送った最後のメールには、『あの人の囁きを信じた私が馬鹿だった』と。

点と点が繋がり、恐ろしい線を描き始めた。被害者たちは、それぞれ異なる理由で記憶を消しに来たのではない。彼らは皆、「ある同一人物」の囁きによって不幸に陥り、その結果生まれた苦痛の記憶を消すために、律を頼ったのだ。そして、律が記憶を消したことで、彼らの頭の中から「囁きの主」に関する情報――犯人にとって最も都合の悪い証拠――が、完全に消去された。

律の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。穏やかな笑みを浮かべ、いつも知的な眼差しで自分を見ていた男。律に忘却術のすべてを授けた、唯一の師、影山宗一郎。彼こそが、律の仕事を知り、顧客の情報にアクセスできる唯一の人物だった。

律は震える手で影山に電話をかけ、相談があると言って自らの仕事場に呼び出した。現れた影山は、以前と変わらぬ穏やかな表情だった。

「どうしたんだね、律君。顔色が悪い」

「影山先生。あなたに、お聞きしたいことがあります」

律は、連続失踪事件と自分の顧客との関連性を、敢えて伏せて切り出した。「最近、私の顧客の中に、奇妙な共通点があることに気づきました。彼らは皆、誰かの『囁き』によって人生を狂わされている」

その言葉を聞いた瞬間、影山の口元に、ほんのわずかな、しかし確かな笑みが浮かんだのを律は見逃さなかった。

「ああ、それか」影山はゆっくりとソファに腰を下ろし、まるで長年の研究成果を発表する教授のように語り始めた。「面白いだろう? 人間の精神というものは、実に脆い。ほんの少し、適切な言葉を囁いてやるだけで、疑心暗鬼に陥り、愛を憎しみに変え、希望を絶望に変える。私はね、それを観察するのが好きなんだ。私が蒔いた小さな毒の種が、彼らの心の中で育ち、やがてその魂を完全に蝕んでいく様をね」

血の気が引いた。影山は、自分の歪んだ愉悦のために、言葉巧みに人々を操り、破滅させていたのだ。

「そして君の忘却術は、私の芸術を完成させるための、最高の後処理だった。被害者たちは、私に囁かれたという最も重要な記憶を、君の手で綺麗さっぱり消してくれる。私は完全に追跡不可能な存在になる。失踪してもらったのは、万が一、私のことを思い出す可能性があったからだよ。君は、私の最高の共犯者だったのだよ、律君」

冷酷な真実が、鋭い刃となって律の心を貫いた。

第四章 忘却の対価

「君も私と同じ側の人間だ」影山は愉しげに続けた。「我々は人の心に土足で踏み入り、記憶という聖域を書き換える。君のやっていることは、救済などではない。忘却という名の、最も洗練された破壊行為だ。さあ、私の手を取りたまえ。共に、人間の愚かさという名の芸術を、もっと探求しようじゃないか」

影山の言葉は、律が心の奥底で抱えていた罪悪感と自己欺瞞を容赦なく抉った。そうだ、自分はただ逃げ道を提供していただけだ。真の救いではなく、安易な忘却を。その結果が、この惨劇を生んだ。

一瞬、律の心は暗い共感に揺れた。しかし、彼の脳裏に、憔悴しきった水無月栞の顔が、家族のために泣いていた小野寺聡の顔が、裏切られて傷ついていた高村美咲の顔が浮かんだ。彼らは愚かではない。ただ、弱っていただけだ。その弱さにつけ込んだ影山と、自分は断じて違う。

「いいえ」律は、静かに、しかしはっきりと首を振った。「俺は、あなたとは違う」

彼は立ち上がり、壁の小瓶の一つを手に取った。それは、彼が自分自身のために調合した、特別な香油だった。強い集中力を要する施術の後に使う、思考をクリアにするためのものだ。

「あなたは忘れているようだ。忘却師は、記憶を消すだけじゃない。特定の記憶を、鮮明に呼び覚ますこともできる」

律は、隠し持っていた小型の音叉を強く打ち鳴らした。甲高い、しかし澄んだ音が部屋に響き渡る。香油の瓶を開けると、鋭く、清涼な香りが立ち上った。影山が驚いて目を見開く。その香りと音は、彼が律に忘却術の基礎を教えていた頃、繰り返し使っていたものだった。

「何を……」

「あなたが俺に忘却術を教えた時の記憶を、あなた自身の脳に強制的に上書きしているんです。あなたが純粋に、この技術の可能性を信じていた頃の記憶を。そして……あなたが初めて、自分の能力を悪用して人を不幸に陥れた時の、罪悪感の記憶を」

影山の顔が苦痛に歪んだ。忘れ去っていたはずの良心の呵責、最初の被害者への憐憫。彼が自ら封じ込めていた感情が、奔流となって蘇る。「やめろ……やめてくれ……!」彼は頭を抱えて蹲った。

その隙に、律は録音していた告白のデータを警察に送信した。やがて駆けつけた警官たちに、呆然自失となった影山は抵抗なく連行されていった。

事件は解決した。だが、律の心に晴れ間は訪れない。失われた命は戻らず、自分が犯した罪の一部が消えるわけでもない。彼は、忘却師という仕事の本当の重さを知った。

数日後、律の仕事場を、新たな依頼者が訪れた。以前の律なら、無機質に、事務的に対応していただろう。だが、今の彼は違った。

「お話しください」

律は、依頼者の目をまっすぐに見つめて言った。その声には、かつてなかった温かさと、罪を背負ってでも人と向き合うという、静かな覚悟が宿っていた。

「忘れることは、一つの選択肢に過ぎません。でも、その前に、あなたがその記憶と共にどう生きていきたいのかを、一緒に考えさせてはもらえませんか」

記憶を消すことは、救いなのか。それとも、罰なのか。答えはまだ出ない。だが律は、その問いを一生背負いながら、空白を作るのではなく、空白の先に続く未来を照らすために、この静謐な部屋で人々を待ち続けるだろう。彼の魂の旋律は、不協和音を乗り越え、深く、静かな決意の音を奏で始めていた。

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