沈黙の香気

沈黙の香気

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第一章 腐った林檎の残香

橘朔(たちばな さく)の世界は、香りでできていた。調香師である彼にとって、それは天職であると同時に、逃れられぬ呪いでもあった。幼い頃の事故を境に、朔は他人の嘘を嗅ぎ分けるようになったのだ。それは決まって、熟れすぎて腐臭を放ち始めた果実のような、甘ったるくも不快な香りだった。以来、彼の周りには常にその「嘘の香り」がまとわりつき、世界は信頼できない人間で満たされた巨大な腐果のように感じられた。人を信じられず、深い関係を築くことを諦めた朔にとって、唯一の例外が大学時代の先輩、水野千尋(みずの ちひろ)だった。彼からだけは、あの不快な香りがしたことが一度もなかった。

その千尋が、姿を消した。

「最後に連絡があったのは三日前です。特に変わった様子は……」

訪ねてきた警察官に、朔は当たり障りのない返答をしながら、神経を鼻腔に集中させていた。二人組の刑事からは、職業的な建前というべき薄い嘘の香りが漂ってくる。彼らがこの一件を、よくある大人の家出程度にしか考えていないことが手に取るように分かった。

彼らが帰った後、朔は合鍵を使って千尋の部屋に足を踏み入れた。整然としたワンルーム。主の不在を告げる静寂が、耳の奥で微かな金属音のように響く。警察は何も見つけられなかったと言っていた。だが、朔の鼻は、この部屋に残された異常を明確に捉えていた。

微かだが、確実にある。あの、腐った林檎の香り。

しかし、それは千尋のものではない。千尋は嘘をつかない。ならば、誰かがこの部屋で、千尋の失踪に関わる嘘をついたのだ。その残り香が、部屋の空気に澱のように沈んでいる。

朔は部屋の隅々まで見て回った。そして、千尋のデスクの上に、一枚のメモが置かれているのを見つけた。それは朔に宛てたものだった。

『朔、もし俺に何かあったら、"あの香り"を思い出してくれ』

短い文面。だが、朔の心臓を鷲掴みにするには十分だった。"あの香り"――それは、二人が学生時代、悪戯心で作り上げたオリジナルの香水のことだ。ベルガモットの爽やかさの中に、スモーキーなベチバーと、普通は使わないはずの微量の腐植土の香りを混ぜ込んだ、誰にも真似のできない、二人だけの秘密の香り。

千尋は、あの香りに何を託したというのか。腐った林檎の香りが鼻の奥にこびりつく中、朔は固く拳を握りしめた。これはただの家出ではない。友人が、自分にしか解けない謎を残して、深い闇へと引きずり込まれたのだ。

第二章 沈黙の洋館

千尋の言葉を手掛かりに、朔は彼の足取りを追い始めた。しかし、調査は困難を極めた。千尋の交友関係を辿って会う人々は、誰もが口を揃えて「何も知らない」と言う。そして、その誰もから、程度の差こそあれ「嘘の香り」がした。同情を装う者、心配するふりをする者、何かを隠して怯える者。人々の言葉と、その裏腹な香りの奔流に、朔の人間不信は底なし沼のように深まっていく。誰も信じられない。この世界で信じられるのは、自分の鼻だけだ。

数日後、朔は千尋のスマートフォンの同期データを解析し、彼が失踪直前、頻繁に市外れの丘に立つ古い洋館を訪れていたことを突き止めた。その場所は「鴉の森屋敷」と呼ばれ、三十年前に一家心中があったという曰く付きの場所だった。なぜ千尋がそんな場所に? 疑問と不安に駆られ、朔は錆び付いた鉄門を乗り越え、蔦に覆われた屋敷の敷地へと忍び込んだ。

埃とカビの匂いが混じり合う中、ぎしぎしと鳴る床板を踏みしめて洋館の内部を探索する。そこは、まるで時が止まったかのようだった。そして、一つの部屋で、朔は息を呑んだ。

部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、その上には様々な種類のドライフラワーやハーブ、エッセンシャルオイルの小瓶が並べられていた。まるで、秘密の調香師のアトリエだ。千尋がここで何かをしていたのは間違いない。

そして、その部屋には、これまで嗅いだことのないほど濃密な「嘘の香り」が満ち満ちていた。吐き気を催すほどの、腐った甘い香り。その中心に、一冊の古びたノートが開かれていた。千尋の筆跡で書かれた、香水の調合レシピ。それはまさしく、学生時代に二人で作った"あの香り"の改良版だった。だが、いくつかの香料が見慣れないものに差し替えられている。

朔はノートを手に取り、レシピを睨みつけた。千尋はこの場所で、この危険な香りが充満する中で、何をしようとしていたのか。この香りの主は誰なのか。壁に掛けられた黒ずんだ鏡に、自分の蒼白な顔が映っていた。その瞳の奥に、得体の知れない恐怖が揺らめいていた。

第三章 真実の調香

アトリエに持ち帰ったレシピを元に、朔は香りの再現に取り掛かった。千尋が何を伝えたかったのかを知るには、この香りを自らの手で作り上げるしかなかった。ガラスのビーカーに、一滴一滴、慎重に精油を落としていく。ベルガモット、ベチバー、そしてシダーウッド。馴染み深い香りが、記憶の扉を叩く。

問題は、レシピに加えられた未知の香料だった。その一つ、「ナイトシェイド・アブソリュート」と記された希少な精油をブレンドした瞬間、実験室の空気が一変した。

それは、香りではなかった。それは感覚そのものだった。朔が今まで「嘘の香り」として認識していたものの核となる成分。それは、単独ではほとんど匂いを持たない。だが、人間の発する特定のフェロモン――恐怖や、強い罪悪感によって分泌される物質――に触れた時、化学反応を起こしてあの腐臭を発生させるのだ。

雷に打たれたような衝撃が、朔の全身を貫いた。

嘘だ。今まで自分が信じてきた全てが、根底から覆される。あれは「嘘の香り」ではなかった。人が何かを隠し、後ろめたさを感じ、罪の意識に苛まれる時に発する、「心の痛み」の香りだったのだ。

だから、罪悪感を持たない純粋な嘘つきからは香りがしなかったのか。だから、些細なことで狼狽した正直者から、強烈な香りを感じることがあったのか。

朔は膝から崩れ落ちた。今まで自分が「嘘つき」と断じ、切り捨て、見下してきた人々。彼らはただ、弱く、怯え、罪悪感を抱えていただけなのかもしれない。世界は腐った果実などではなかった。ただ、痛みに満ちていただけだ。

その時だった。アトリエのドアが静かに開き、背後から澄んだ声がかけられた。

「……それに、気づいてしまったのね、朔さん」

振り返ると、そこに立っていたのは、千尋の恋人だと紹介されたことのある女性、相沢美咲(あいざわ みさき)だった。いつも穏やかな微笑みをたたえていた彼女の顔は、今は能面のように無表情だった。そして彼女の全身から、あの洋館で感じたものと同質の、圧倒的な「罪の香り」が放たれていた。それはもはや腐臭ではなく、魂が焼け爛れるような、悲痛な絶叫に似た香りだった。

第四章 心が香る時

「千尋くんは、優しい人だった。優しすぎたの」

美咲は静かに語り始めた。彼女こそが、「鴉の森屋敷」で起きた一家心中の、ただ一人の生き残りだったのだ。警察が事故として処理したその事件は、実際には彼女の父親の共同経営者による、計画的な殺人だった。美咲はずっと、復讐の機会を窺っていた。

「千尋くんは、私の計画に気づいた。そして、止めようとした。私を愛していると嘘をついてまで、私をこの道から引き戻そうとしてくれたわ」

彼女の言葉と共に、朔の脳裏に記憶が蘇る。千尋が美咲を紹介してくれた日、彼から微かな、本当に微かな「香り」がしたことを。朔はそれを、恋人に対して何か隠し事をしているのだろうと解釈して、気に留めないようにしていた。だが、違った。あれは、美咲の復讐計画を知りながら、それを止められないことへの「罪悪感」の香りだったのだ。

「千尋くんは今、あの洋館にいるわ。私が閉じ込めたの。これ以上、私の邪魔をさせないために」

美咲の瞳は、乾ききった井戸のように暗い。朔は、完成したばかりの香水のスプレーを手に取った。千尋が完成させたかったであろう、本当の香りを。

「嗅いでみてほしい」

朔は、香りを宙にひと吹きした。ナイトシェイド・アブソリュートが、美咲の放つ罪悪感の香りと反応し、一瞬、むせ返るような腐臭が立ち上る。だが、次の瞬間、ベルガモットと、レシピに加えられていたもう一つの未知の香料――心を鎮める効果を持つと言われるアンジェリカルート――が、その香りを優しく包み込み、浄化していく。

腐臭は、雨上がりの土のような、穏やかで清浄な香りへと昇華された。

それは、罪を消す香りではない。罪の意識という痛みを、ただ受け入れ、鎮めるための香りだった。千尋が、愛する美咲の魂を救うために作ろうとしていた、祈りのような香り。

美咲の肩が、微かに震えた。乾ききっていたはずの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちる。強烈な「心の香り」が、霧が晴れるように和らいでいく。復讐という鎧が剥がれ落ち、その下から現れたのは、傷つき、凍えていた一人の人間の、か弱く震える魂だった。

事件は解決し、千尋は無事に保護された。美咲は自らの罪を償う道を選んだ。

朔の世界は、もう二度と元には戻らない。彼の能力は消えなかったが、その意味合いは全く違うものになっていた。

数ヶ月後、朔は自身のアトリエで、新しい香水を作っていた。トップノートには、あえてごく微量の「腐った果実」を思わせる刺激的な香りを使った。だがそれはすぐに、サンダルウッドやフランキンセンスの、温かく神聖なミドルノートへと移り変わり、最後はムスクの柔らかな香りが肌に残る。

彼はその香水を『告白』と名付けた。

嘘も、罪悪感も、恐怖も、その人の一部だ。それごと、受け入れられるような香りがあってもいい。

朔はアトリエの窓を大きく開け放った。街の喧騒とともに流れ込んでくる、無数の人々の感情の香り。それはもはや、彼を苛む不快なノイズではなかった。一つ一つが、誰かの生きた証。喜び、悲しみ、そして痛みが織りなす、複雑で、どこか愛おしいシンフォニー。朔は目を閉じ、その全てを、深く、静かに吸い込んだ。世界は、ようやく彼と和解したのだ。

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