影喰いのレクイエム

影喰いのレクイエム

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第一章 影が消える町

僕の住む影凪町(かげなぎちょう)は、その名の通り、凪いだ海に長い影を落とす夕日の美しさで知られる、寂れた海辺の町だ。イラストレーターとして都会の喧騒から逃れてきた僕、水原涼介にとって、この静けさは創造の泉であり、安らぎの揺り籠だった。特に、恋人である灯(あかり)と過ごす時間は、茜色に染まる防波堤の上で、永遠に続いてほしいと願うほど満ち足りていた。

異変に最初に気づいたのは、一月ほど前のことだ。

商店街の八百屋の店主が、真昼の強い日差しの下、アスファルトにくっきりと落ちるはずの自分の影を、不思議そうに探していた。彼の足元には、まるで陽炎のように輪郭のぼやけた、頼りない影がわずかに揺らめいているだけだった。その時は、目の錯覚か、夏の盛りの奇妙な現象くらいにしか思わなかった。

だが、それは始まりに過ぎなかった。

一人、また一人と、町の人々から影が消えていった。まるで濃いインクが水に滲んで薄まるように、あるいは古い写真が色褪せるように、人々の影はその存在感を失っていったのだ。そして、影を失った者は皆、一様に何か大切なものをなくしたかのような、虚ろな表情を浮かべるようになった。

決定的な出来事は、隣家の佐伯さんが、彼女の影を完全に失った日に起きた。長年連れ添い、町でも評判のおしどり夫婦だった夫の顔を、彼女は「どちら様でしたか」と、何の感情も浮かべない瞳で見つめたのだ。愛、追憶、慈しみ。そういったものが、彼女の中からごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。

恐怖が、じわりと足元から這い上がってきた。これは単なる怪奇現象ではない。人の魂を蝕む、静かな疫病だ。僕は自分の足元に伸びる、濃く、はっきりとした影を見つめた。そして、隣を歩く灯の、僕より少し華奢な影に目をやった。もし、この影が消えたなら。もし、灯が僕を忘れてしまったなら。

想像しただけで、心臓が氷の手に鷲掴みにされたように痛んだ。灯の明るい笑顔が、この町から、僕の人生から消えてしまうこと。それが、僕にとっての世界の終わりを意味した。

「涼介、どうしたの?顔色が悪いわ」

僕の不安を敏感に察した灯が、心配そうに顔を覗き込む。彼女の黒曜石のような瞳に、僕の怯えた顔が映っていた。

「なんでもない。ちょっと、考え事をしてただけだ」

僕は無理に笑ってみせたが、その笑顔はきっと、ひどく歪んでいたに違いない。この時から、僕の世界は静かに、しかし確実に狂い始めていた。

第二章 影喰いの伝説

僕たちは、この町を覆う不気味な現象の正体を突き止めるため、町の小さな図書館へ足を運んだ。古い郷土資料の棚は、埃とカビの匂いがした。何時間も費やし、黄ばんだページをめくり続けた末に、灯が小さな冊子を見つけ出した。

『影凪町奇譚』と題されたその冊子には、忘れ去られた町の伝承が記されていた。そして、僕たちはそこに「影喰い(かげくい)」という存在を見つけたのだ。

「『影喰いは、人の最も強く輝く情念の光に惹かれて現れる。それは陽光の下にある人の影を喰らい、その対価として、惹きつけられる源となった最も強い感情を、その者から奪い去る』……」

灯が震える声で読み上げる。影喰いは、悲しみ、喜び、怒り、そして愛といった、人間の魂を彩る強い感情を糧とする存在だという。影を失うことは、自らの最も大切な感情を、その根源から奪われることを意味していた。佐伯さんが夫への愛を失ったのは、彼女の中でその感情が、誰よりも強く輝いていたからだ。

「なんて、恐ろしい……」

僕は息を呑んだ。人々は、人生で最も大切に育んできたものを、その輝きのせいで奪われていたのだ。笑いを失った道化師、探究心を失った学者、そして、愛を失った妻。影凪町は、人々の魂の輝きを喰らうことで成り立つ、巨大な祭壇になりつつあった。

その日から、僕の日常は監視と恐怖に支配された。灯の影から目が離せない。陽光の下で、彼女の影が少しでも薄くなったように感じると、心臓が跳ね上がった。僕の「最も強い感情」は、疑いようもなく灯への愛情だ。だが、彼女はどうだろう。僕と同じように、僕への愛が彼女の魂で最も強く輝いていると、どうして確信できようか。

「大丈夫よ、涼介」

僕の過剰な心配を、灯はいつも笑顔で受け止めてくれた。

「私の影は、こんなに濃いじゃない。それに、もし私の影が消えても、涼介のこと、絶対に忘れたりしないから」

彼女はそう言って、僕の影と自分の影をぴったりと重ね合わせる。その無邪気さが、かえって僕の胸を締め付けた。彼女はまだ、この恐怖の本当の意味を理解していない。これは記憶の問題ではない。感情そのものが消え去る、魂の死なのだ。

僕は、灯を守るためなら何でもする覚悟だった。だが、姿形のない、感情の光に惹かれるという伝説の存在に、どう立ち向かえばいいのか。焦りと無力感が、濃い霧のように僕の心を覆っていく。僕にできることは、ただ祈るように、彼女の足元に伸びる影を見つめ続けることだけだった。

第三章 恐怖を失った恋人

満月の夜だった。月光が青白く地上を照らし、まるで真昼のように物の影をくっきりと描き出していた。その夜、僕が最も恐れていたことが現実になった。

灯の影が、消えたのだ。

月明かりの下に立つ彼女の足元には、何もなかった。まるで彼女の存在だけが世界から切り取られ、ぽつんと浮いているように見えた。僕の喉はカラカラに乾き、声が出なかった。全身の血が凍りつき、指先が痺れる。終わった。僕たちの世界は、今、終わったのだ。

「灯……」

かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。僕は、彼女が僕を「どちら様ですか」と見つめる瞬間を覚悟した。僕の愛は、彼女にとって最も強いものではなかったのか。それとも、僕への愛が強すぎたがゆえに、喰われてしまったのか。どちらにせよ、待っているのは絶望だけだ。

灯はゆっくりと僕の方を振り向いた。その表情に、僕は息を呑んだ。虚ろでも、無感動でもなかった。むしろ、その瞳は爛々と輝き、その唇は妖しいほど美しい微笑みをたたえていた。

「涼介」

彼女は僕の名前を呼んだ。その声には、確かな愛情が響いていた。

「見て。影がなくなったわ。なんだか、身体がすごく軽くなったみたい」

混乱する僕をよそに、彼女はこともなげに言った。そして、次の瞬間、僕は信じられない光景を目にする。灯は、何のためらいもなく、僕たちの住むアパートのベランダの柵にひらりと足をかけたのだ。地上三階。落ちれば、無事では済まない。

「灯!危ない!何をしてるんだ!」

僕は悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。

「大丈夫よ。だって、何も怖くないもの」

彼女はにっこりと笑う。その笑顔は、僕が愛した灯のものだった。だが、その瞳の奥には、僕の知らない何かが宿っていた。それは、人間が生きる上で不可欠な、ある種の枷が外れてしまったかのような、無垢で、それゆえに恐ろしい輝きだった。

僕はその時、悟ってしまった。

影喰いが灯から奪い去ったのは、僕への「愛情」ではなかった。彼女が失ったのは、「恐怖」という感情だったのだ。

この町を覆う異変、いつ自分の影が消えるかという不安、そして、僕を失うかもしれないという可能性。その時、彼女の中で何よりも強く輝いていた情念は、僕への愛ではなく、それを失うことへの「恐怖」だったのだ。

恐怖を失った灯は、もはや以前の彼女ではなかった。死の危険を顧みず、車の行き交う道路に平気で飛び出す。熱いヤカンを素手で掴もうとする。そのたびに僕は必死で彼女を止めた。愛する人が僕を忘れてしまうことよりも、愛する人が自分自身を破壊していく様を目の当たりにすることの方が、遥かに、遥かに恐ろしい地獄だということを、僕は初めて知った。

第四章 愛という名の光

灯は僕を愛している。その事実は変わらなかった。彼女は僕に優しく微笑みかけ、僕の描く絵を褒めてくれる。だが、その愛情の根底にあったはずの、相手を慮り、失うことを恐れる繊細な感情は、綺麗に削ぎ落とされていた。彼女の愛は、もはやブレーキのない車のように、ただ前進するだけの、危ういものに変貌していた。

僕はこの歪んだ日常に耐えられなかった。灯を取り戻したい。恐怖という感情が、どれほど人間にとって大切な「お守り」であったかを痛感しながら、僕は一つの結論に達した。

影喰いを、もう一度呼び寄せるしかない。そして、今度は僕の影を喰らわせるのだ。

そのためには、僕の情念を、この町の誰よりも、何よりも強く輝かせる必要があった。僕の中で最も強い感情は、灯への愛だ。この愛を、極限まで燃え上がらせる。影喰いが無視できないほどの、強烈な光として。

僕は灯を連れて、僕たちが初めて出会った、海を見下ろす丘の上の展望台へ向かった。そこには、僕がかつて彼女に贈った絵のモデルになった、一本の大きな桜の木が立っている。

イーゼルを立て、キャンバスを広げた。僕は、絵を描き始めた。灯への想いの、全てを込めて。

初めて会った時のときめきを、指先に込める。

初めて手をつないだ時の温もりを、色彩に乗せる。

彼女の笑顔を見た時の喜びを、筆のタッチに託す。

彼女と生きていきたいという願いを、構図の中心に据える。

僕の持てる全ての記憶と感情を、一枚の絵に叩きつけていった。

灯は、僕の後ろで静かにその様子を見ていた。恐怖を失った彼女には、僕のこの狂気じみた行動の意図は分からなかっただろう。

夕日が海を黄金色に染め、世界が茜色に沈んでいく。僕の絵も、完成に近づいていた。キャンバスには、満開の桜の下で微笑む灯の姿が、命を宿したかのように輝いていた。僕の愛そのものだった。

その時、空気が変わった。

風が止み、波の音が消え、鳥の声が途絶えた。世界から一切の音が消え去り、絶対的な静寂が訪れた。僕の足元、夕日によって長く伸びていた影が、ゆっくりと揺らめき始める。

来た。

振り返ると、そこに「それ」はいた。定まった形はない。ただ、空間の一部が抉り取られたかのような、純粋な闇の塊。それは音もなく、僕ににじり寄ってくる。あらゆる光を飲み込む、絶対的な虚無。

僕は恐怖で体が動かなかった。だが、背後の灯の存在が、僕に最後の勇気を与えた。僕は逃げなかった。むしろ、胸を張り、闇に向かって一歩踏み出した。僕の愛の光を、存分に喰らうがいい。

第五章 残された記憶

闇が僕を包み込んだ。それは冷たくも熱くもなく、ただ、僕という存在の一部が、静かに剥がされていくような感覚だった。一瞬の浮遊感の後、僕は丘の上に立っていた。夕日は変わらず美しく、波の音が耳に戻ってきていた。

足元を見ると、僕の影がくっきりと地面に落ちている。

いや、違う。僕の隣に、もう一つ、華奢な影が寄り添っていた。灯の影だ。彼女の影が、戻っていた。

「涼介……?」

灯の声がした。振り返ると、彼女は泣いていた。その瞳には、僕がずっと忘れていた、深い感情の色が宿っていた。恐怖、安堵、そして、悲しみ。

「どうして……どうして、こんなことをしたの……!」

彼女は僕の胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。僕は、その震える肩を抱き寄せ、優しく頭をなでた。

その時、僕は気づいた。

彼女を見ても、胸が締め付けられるような愛しさは、もう湧き上がってこなかった。胸の高鳴りも、切なさも、守りたいという焦燥感も、どこにもなかった。僕の心は、凪いだ海面のように、静まり返っていた。

僕は、灯への「愛情」を失ったのだ。

それでも、僕の腕は、泣き続ける彼女をあやしていた。頭では理解している。彼女は、僕が命を懸けて守りたかった、大切な存在だ。その「記憶」だけが、僕の行動を規定していた。かつてここにあった愛情の残り香が、僕を動かしている。

愛を失って、僕は愛を証明した。

恐怖を取り戻し、彼女は僕の愛の喪失を知った。

僕たちは、奇妙な共犯者のように、丘の上に佇んでいた。夕日が最後の輝きを放ち、僕と彼女の影を一つに結びつけて、長く、長く地面に伸ばしていた。

僕はもう、彼女を愛することはできない。

けれど、僕は彼女を守り続けるだろう。愛があったという記憶だけを道標にして。

この静かで、残酷で、そしてどこまでも美しい夕日の中で、僕たちの本当の物語が、今、始まろうとしていた。

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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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