ゼロを刻む者
第一章 観測者の憂鬱
観月玲(みづき れい)の世界は、常に数字で満ちていた。彼の視界には、あらゆる物質や概念の上に、淡い金色の数字が浮かんでいる。それは『存在の重さ』。この世界における、そのものの確からしさを示す絶対的な指標だった。
古びた石畳には『128.44』。道端の街灯には『89.17』。すれ違う人々の頭上にも、それぞれの人生の重みを示すかのように、複雑な数値が明滅している。玲にとって、それは呼吸をするのと同じくらい自然な光景だった。
だが、彼が真に恐れるのは、その数値が『0』に至る瞬間だ。
ゼロになったものは、消える。物理的に消え去るだけでなく、人々の記憶からも、世界の記録からも、その存在したという事実そのものが完全に抹消される。そして、その喪失を目撃できるのは、世界でただ一人、玲だけだった。
近頃、街の様子がおかしい。夕暮れの路地裏や、誰もいない公園のベンチに、半透明の『影(シェイド)』が陽炎のように揺らめいている。それらは、忘れ去られたものたちの成れの果てだ。かつて愛されたぬいぐるみ、書きかけの手紙、交わされなかった約束。それらの『存在の重さ』は限りなくゼロに近いが、完全な無には至っていない。人々が意識から手放したものの残滓が、街に溢れ始めているのだ。
影の数が増えるにつれて、街は微かな歪みをきたしていた。建物の輪郭が不意にぼやけ、覚えのある道の名前が記憶から抜け落ちる。現実と非現実の境界線が、ゆっくりと溶け出しているかのようだった。玲はコートの襟を立て、吐く息の白さに浮かぶ『0.08』という数値を見つめながら、胸騒ぎを覚えていた。何かが、決定的に狂い始めている。
第二章 薄れゆく未来の色彩
異変は、より深刻な形で現れ始めた。
玲が気づいたのは、公園で遊ぶ子供たちの姿を見た時だった。無邪気な笑い声が弾ける。その子供たちの頭上に浮かぶ、『希望』という概念の数値が、不安定に明滅していたのだ。つい数ヶ月前まで、それは『95.70』という力強い数字だったはずだ。だが今は、弱々しく揺れながら『62.13』まで落ち込んでいる。
「将来の夢は?」
母親の問いに、少年は首を傾げた。その一瞬、少年の『夢』という概念が『45.33』から『45.31』へと微かに下降するのを、玲は見逃さなかった。
忘れ去られているのは、過去の遺物だけではない。人々は、まだ来ぬはずの『未来』を手放し始めている。街角のショーウィンドウに飾られた最新のデザイン。その上に浮かぶ『進歩』の数字は色褪せ、書店に並ぶ自己啓発本の『目標』という言葉の重さも、日ごとに軽くなっていく。
希望、夢、目標、進歩。未来を構成するあらゆる概念が、まるで砂上の楼閣のようにその存在を揺らがせている。人々は無意識のうちに、明日を信じることをやめ始めているかのようだった。その結果、街に現れる影は、かつての思い出の形だけでなく、漠然とした未来の計画や、抱いていたはずの憧れの姿をとり、より一層その数を増やしていた。
なぜだ? なぜ人々は未来を忘れる? その問いは、冷たい霧のように玲の心を覆い尽くした。街全体が、緩やかな終焉に向かって沈んでいくような、抗いがたい閉塞感がそこにはあった。
第三章 ゼロを指す時計
玲は自宅アパートに戻ると、机の引き出しから古びた銀の懐中時計を取り出した。幼い頃から肌身離さず持っている、彼にとって唯一の形見だ。磨り減ったガラスの内側で、文字盤はほとんど消えかかり、針はぴたりと『0』の位置で止まっている。
玲は、冷たい金属の感触を確かめるように、そっとそれに触れた。
瞬間、世界が変わる。
視界を覆っていた金色の数字がより鮮明になり、聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされる。壁の向こうから、隣人の微かな寝息が聞こえる。階下の部屋からは、夕食のシチューの香りが漂ってくる。そして、それだけではない。この部屋に、かつて存在し、今は完全に忘れ去られたものの『残滓』が、五感を通じて流れ込んできた。
床の染みから、こぼれたミルクの甘い匂いと、今は亡き祖母の優しい叱責の声が微かに響く。窓の外からは、数年前に取り壊されたパン屋の、焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗って届く。これらは『存在の重さ』が完全に『0』になったものたちだ。本来なら、誰の記憶にも残らないはずの、世界の記録から抹消された記憶の断片。
懐中時計は、玲の能力を増幅させ、無へと還ったものたちの最後の囁きを聞かせる。玲は時計を強く握りしめた。この力を使えば、未来が失われつつある原因を突き止められるかもしれない。彼は決意を固め、増幅された感覚を頼りに、街の中でも特に歪みの大きい中心広場へと向かった。そこには、街の象徴である時計塔がそびえ立っているはずだった。
第四章 沈黙の鐘
広場にたどり着いた玲は、息を呑んだ。
街のシンボルである時計塔。その上に浮かぶ『街の未来への指標』という概念の数値が、凄まじい速さで減少していた。『15.42』『15.40』『15.37』……。まるで、蛇口から水が流れ落ちるように、その存在が世界から剥がれ落ちていく。
時計塔を見上げる人々の顔には、何の感情も浮かんでいない。彼らはただ、そこにある巨大な建造物を、意味のない石の塊として眺めているだけだった。
「鐘の音、聞こえなくなったね」
「え? あそこに鐘なんてあったかしら」
すれ違うカップルの会話が、玲の耳を突き刺す。時計塔は、一時間ごとに美しい鐘の音を街に響かせていたはずだ。その音色こそが、人々の心に明日への希望を灯していた。だが、その記憶すらも、急速に失われつつある。
玲は焦燥に駆られた。このままでは、時計塔が消える。街から未来という概念が、完全に消滅してしまう。
「違う! あの時計塔は、ずっと僕らの時間を見守ってきたんだ! あの鐘の音を思い出してくれ!」
玲は叫んだ。だが、彼の声は誰にも届かない。人々は怪訝な顔で彼を一瞥し、すぐに興味を失ったように雑踏へと消えていく。まるで、玲自身が存在しないかのように。
その時だった。時計塔の重さが『9.99』を下回った瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。玲は激しい眩暈に襲われ、膝から崩れ落ちた。懐中時計を握りしめた手に、これまで感じたことのないほどの冷気が走る。何かが、根本的に間違っている。彼の知らない、恐ろしい真実が、すぐそこまで迫っているのを感じた。
第五章 反転する因果
朦朧とする意識の中、玲の脳裏に一つの光景がフラッシュバックした。
それは、幼い日の記憶。彼が初めて、目の前の花瓶の『存在の重さ』が『0』になる瞬間を目撃した日。彼はただ、そこに浮かぶ数字がゼロになるのを「観測」しただけだった。しかし、その直後、花瓶は彼の目の前から忽然と姿を消し、母親は「最初からそんなものはなかった」と言った。
今まで、彼は自分が「消滅の唯一の目撃者」だと思っていた。
だが、もし違ったら?
もし、彼が「観測」すること自体が、消滅の「引き金」になっていたとしたら?
血の気が引いていく。指先が氷のように冷たくなる。玲は震える手で懐中時計を見つめた。常に『0』を指し示す針。この時計は、彼の能力を増幅させるのではない。彼の能力の本質――『0』と認識したものを、世界から抹消する力――そのものを象徴しているのではないか。
彼が『存在の重さ』を認識し、その減少を追い、そして『0』になったと確定させる。その観測行為こそが、世界の記録にアクセスし、対象の存在を削除する最終トリガーだったのだ。
近年、影が増え、未来が失われ始めた原因は、玲自身にあった。世界の異変に気づいた彼が、より多くの物事の『存在の重さ』に意識を向け、その変化を注意深く「観測」し始めたからだ。良かれと思ってやっていたことが、世界の崩壊を加速させていた。
「ああ……」
絶望の呻きが漏れた。彼が愛した街の風景も、懐かしい店の味も、大切な人との些細な記憶も、その多くを彼自身が消し去ってしまっていたのだ。そして今、彼は『未来』を消し去ろうとしている。
第六章 最後の観測
世界の崩壊を止める方法は、一つしかない。
原因である観測者、観月玲自身が、この世界から消滅すること。
玲は、ゆっくりと立ち上がった。彼の決意は、不思議なほど静かだった。後悔も悲しみも、すべてはあまりに大きすぎて、もはや感情の波にはならなかった。ただ、凪いだ湖面のような静寂が心を支配していた。
彼は、懐中時計を強く握りしめた。そして、人生で初めて、その意識の矛先を自分自身へと向けた。
彼の頭上に、金色の数字が浮かび上がる。『観月玲』という存在の重さ。それは『88.49』という、確かな数値を示していた。彼は、それをただ、見つめる。
自分自身の人生を、記憶を、一つ一つ手放していく。母親の笑顔、友と交わした言葉、初めて恋をした時の胸の高鳴り。それらの記憶を観測し、その価値を認め、そして静かに忘却の彼方へと送る。
数字が、ゆっくりと下降を始めた。『75.12』、『63.98』、『50.00』……。
彼の身体の輪郭が、徐々に薄れ始める。足元から、世界と繋ぎ止められていた感覚が消えていく。街の喧騒が遠のき、色彩が淡くなっていく。だが、それに反比例するように、色褪せていたはずの世界が、彼以外の場所で鮮やかさを取り戻していくのが分かった。
時計塔の重さが、再び上昇に転じている。人々が空を見上げ、鐘の音を思い出したかのように、その表情に微かな光が宿り始めていた。影が薄れ、街の歪みが正常に戻っていく。
世界は、救われつつあった。彼という『エラー』を削除することによって。
第七章 名もなき救済
『0.01』
もはや玲には、自分の手足の感覚すらなかった。意識だけが、最後の糸のようにこの空間に留まっている。彼は、最後に懐中時計に視線を落とした。磨り減った銀の蓋に、ぼやけた自分の顔が映っている。その顔を、彼は覚えていなかった。
彼は微笑んだのだろうか。それすらも、もう分からない。
ただ、最後に一つだけ思った。
――これでいい。
彼が『観月玲』の存在の重さを『0』と認識した瞬間、彼の意識は静かに霧散した。
***
街の中心広場には、人々が戻っていた。誰もが当たり前のように時計塔を見上げ、その鐘が刻む未来に思いを馳せている。子供たちの笑い声には『希望』が満ち、恋人たちは臆面もなく『夢』を語り合っていた。街から影は消え去り、世界は確かな手触りを取り戻していた。
世界は救われたのだ。
しかし、誰一人として、観月玲という青年がいたことを覚えてはいない。彼がこの世界のために自らを犠牲にしたことも、彼の孤独な戦いも、その存在の痕跡はどこにも残っていない。
ただ、広場の片隅に、持ち主のいない古びた銀の懐中時計が一つ、落ちていた。その針は、今も変わらず、静かに『0』を指し示している。やがて吹いた一陣の風が、その時計を落ち葉と共にどこかへ運び去っていった。空には、昨日と同じ月が、何も語らずに浮かんでいる。