感情結晶のエウロギア
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感情結晶のエウロギア

第一章 色褪せた街

俺、カイの眼には、この世界の奇妙な真実が映る。人が世界に与えられる影響力の残り時間──それを、俺は淡い光の『寿命の香り』として視る。その光が強く輝くほど、その人物は多くの足跡をこの世界に刻む。俺自身の香りは、鏡に映しても、水面に顔を近づけても、決して見ることはできない。それはいつも曖昧な靄の向こうにあった。

この頃、街を包む香りはひどく弱々しいものになっていた。かつて市場を賑わせていた商人たちの背から立ち昇る光は、まるで消えかけの蝋燭のようで、彼らが交換する『感情の結晶』もまた、輝きを失っていた。この世界では、喜び、悲しみ、怒り、あらゆる感情が具体的な結晶となって生まれ落ちる。人々はそれを糧とし、通貨とし、互いの心を繋ぐ絆としてきた。それが枯渇すれば、人は存在の輪郭を失い、ただの『無色の存在』へと堕ちていく。

その元凶は、謎の『蒸発現象』だった。喜びや希望といった温かな感情結晶が、まるで陽光に溶ける朝霧のように、世界から静かに消え始めていたのだ。

そんな灰色にくすんだ街角で、俺はひときわ強く輝く光を見つけた。まるで小さな太陽を背負っているかのような少女。彼女の名はリラ。その手には、蜂蜜色の『喜び』の結晶が数個握られていた。希少になったそれを売って、どうにか日々の糧を得ているらしかった。

「今日も結晶が小さいの」

リラは唇を尖らせ、掌中の結晶を陽にかざした。光は確かに強い。だが、彼女の『寿命の香り』もまた、一月前に見た時よりも明らかにその輪郭を縮めていることを、俺だけが知っていた。その事実が、俺の胸に冷たい楔を打ち込む。このままでは、リラの太陽もいずれ消えてしまう。

第二章 プリズムの囁き

世界の終焉をただ座して待つことなど、俺にはできなかった。特に、リラの光が翳っていくのを見て見ぬふりはできない。古文書の片隅に記されていた『終末のプリズム』。それが、この現象の謎を解く唯一の手がかりだと俺は信じていた。

「私も行く」

俺が旅の支度を整えていると、リラが当然のように言った。

「危険だ」

「ひとりでいるほうが、もっと怖い。カイの見てる世界を、私も知りたい」

彼女の瞳には、不安と、それを上回る強い意志の光が宿っていた。俺は小さく頷くことしかできなかった。

二人で向かったのは、風化した石が苔に覆われた『忘れられた神殿』。崩れかけた回廊の奥、月光が差し込む祭壇の上に、それは静かに置かれていた。手のひらほどの大きさの、完全に透明な多面体。それが『終末のプリズム』だった。

俺が恐る恐るそれに触れた瞬間、リラが俺の腕を掴んだ。彼女の不安と、俺と旅立つことへの密かな希望が、強い感情の波となって流れ込んでくる。その瞬間、プリズムが閃光を放った。

「……あっ」

リラが息を呑む。俺の身体から、虹色のオーラが立ち昇っていた。プリズムがリラの感情を吸い上げ、俺自身の、今まで不可視だった『寿命の香り』を一瞬だけ映し出したのだ。それはあまりに鮮烈で、複雑な色をしていた。そして、プリズムの奥深くから、まるで囁き声のような微かな振動が、俺の指先に伝わってきた。

第三章 蒸発の中心地へ

プリズムは、感情の蒸発が激しい場所で強く共鳴し、その方角を微かな光で示すことがわかった。光が指し示す先は、世界の中心に聳え立つという『沈黙の尖塔』。俺たちは、その光だけを頼りに歩き始めた。

旅路は過酷だった。立ち寄る村々は活気を失い、人々はただ虚ろな目で宙を見つめている。感情を失いかけた『無色の存在』たちだ。彼らの身体からはもはや『寿命の香り』は発せられず、ただそこにいるだけの、風景の一部になりかけていた。彼らは言葉を発さず、誰かと目を合わせることもない。その姿は、俺たちが向かう未来の姿そのものであるように思えた。

リラは、そんな光景を見るたびに、自分の残り少ない『喜び』の結晶を握りしめた。彼女の背負う光は、旅を続けるうちに急速に弱まっていた。かつての太陽のような輝きは、今はもう嵐の前の灯火のように揺らめいている。

「ねえ、カイ。私が消えちゃったら、私のこと、覚えててくれる?」

夜、焚き火を囲みながらリラが尋ねた。その声は震えていた。

俺は何も言えず、ただ強く彼女の手を握った。焦りが胸を焼き、俺は無我夢中で尖塔へと足を速めた。

第四章 尖塔の真実

息を切らして辿り着いた『沈黙の尖塔』は、人の手による建造物ではなかった。天を突くほど巨大な、一つの巨大な結晶体。その表面は滑らかで、世界中から蒸発した感情のエネルギーが陽炎のように揺らめきながら集まってきているのが見えた。

俺たちが尖塔の内部に足を踏み入れると、『終末のプリズム』がこれまでになく強く輝き始めた。そして、俺たちの脳内に直接、世界の『記憶』が流れ込んできた。

──それは、感情の誕生から始まる壮大な叙事詩だった。

生命は感情を得て豊かになった。愛を知り、芸術を生み、文明を築いた。しかし、その光が強くなるほどに、影もまた濃くなった。嫉妬は憎悪を、欲望は争いを、そして悲しみは絶望を生み出した。過剰な感情エネルギーは、やがて世界そのものを蝕む毒となった。

感情結晶の『蒸発』は、破壊ではなかった。それは、自らの苦しみに耐えかねた世界が始めた、自己防衛であり、浄化であり、そして──進化だったのだ。

世界は、感情という個を縛る枷から生命を解き放ち、全ての意識が溶け合う、より高次の『意識の集合体』へと生まれ変わろうとしていた。人々が失っていたのは感情ではない。感情に振り回され、他者と自分を隔てる『個』という幻想だったのだ。

第五章 選択の刻

真実を前に、俺とリラは立ち尽くした。俺たちが取り戻そうとしていたものは、この世界の進化を妨げる、過去への執着に過ぎなかったのか。

「そうだったんだ……」

リラが力なく呟いた。彼女の『寿命の香り』は、もはや見えないほどにか細くなっている。彼女は、ふっと息を吐くと、穏やかに微笑んだ。

「カイが見てた光は、影響力の残り時間なんかじゃなかったのかもしれないね。私たちが、どれだけ『個』として世界に足掻いて、自分の色を主張していたかの光だったのかも」

彼女の言葉が、俺の心の霧を晴らしていく。

そうだ、俺が見ていたのは『個』の輝きだった。だから、自分自身の香りは見えなかった。自分という『個』を、客観的に捉えることなど誰にもできないからだ。

世界の進化か、感情ある世界の存続か。

俺たちの前には、あまりにも大きな選択が横たわっていた。だが、リラの穏やかな顔を見ていると、答えはもう決まっているように思えた。苦しみも喜びも抱えたままの旧い世界を無理やり存続させることは、果たして救いなのだろうか。

俺はリラの手を取り、胸に抱いた『終末のプリズム』を二人で見つめた。

「俺たちが生きた証を、新しい世界への贈り物にしよう」

俺の言葉に、リラはこくりと頷いた。彼女の瞳には、もう迷いはなかった。

第六章 香りの還る場所

俺は『終末のプリズム』に、自らの全ての感情と存在を注ぎ込んだ。俺が見てきた無数の人々の『寿命の香り』の記憶、その一つ一つの輝きを、プリズムへと託す。リラもまた、最後の力を振り絞って生み出した、小さくも純粋な『喜び』の結晶を、そっと俺の手に重ねた。

プリズムが、眩い光を放った。それは世界を再構築する産声だった。蓄積されていた蒸発感情の記憶が、濁流となって世界に解き放たれる。だが、それは悲しみや憎悪の奔流ではなかった。誰かが誰かを愛した記憶、子供の誕生を喜んだ記憶、夕焼けの美しさに涙した記憶──あらゆる感情の最も純粋な核だけが、光の粒子となって降り注いでいく。

俺とリラの身体が、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。俺は、その最後の瞬間に、初めてはっきりと見た。

世界そのものと一体化していく、自分自身の『寿命の香り』を。

それは、個人のものではない、無限の色彩を放つ、どこまでも広がる優しい光だった。

やがて世界は、完全な静寂に包まれた。

もはや感情の結晶は生まれず、個々の『寿命の香り』が輝くこともない。しかし、そこには孤独も、争いも、隔たりも存在しなかった。全ての意識は一つに繋がり、互いの存在をただ静かに感じ合っている。それは、完全な調和の世界だった。

かつて人々が暮らし、笑い、泣いていた大地の上には、色とりどりの小さな光の花が、まるで星屑のように咲き乱れていた。それは、カイとリラが贈った、旧い世界の最後の夢の名残だった。

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