腐果の調香師

腐果の調香師

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第一章 腐果の蜜

僕、神崎涼介(かんざきりょうすけ)には、呪いとも呼ぶべき秘密がある。他人の恐怖を、「匂い」として感じ取ってしまうのだ。それは、熟れすぎて腐敗の一歩手前にある果実の、噎せ返るような甘い匂い。恐怖が強ければ強いほど、その匂いは脳髄を焼くように濃密になる。

この忌まわしい嗅覚のせいで、僕は人混みを避け、社会との間に分厚い壁を築いて生きてきた。調香師のアシスタントという仕事を選んだのも、多種多様な香料に囲まれていれば、あの不快な「恐怖の匂い」を多少なりとも紛らわせられると思ったからだ。一日中、ムスクやアンバー、ジャスミンの清浄な香りに浸り、夜は防音と換気に優れた安アパートの自室に逃げ帰る。それが僕の日常であり、唯一の平穏だった。

その平穏が、崩れ始めたのは一ヶ月ほど前のことだ。

隣の102号室から、嗅いだことのない「恐怖の匂い」が漂い始めたのだ。それは僕がこれまで経験してきた、ありふれた恐怖――例えば、痴漢に怯える女性から漂う酸っぱい果実臭や、借金取りに追われる男の焦げ付くような甘ったるさ――とは、まったく次元が違っていた。

腐りかけた桃や無花果(いちじく)の蜜のような、倒錯的なまでの甘さ。その奥に、錆びた鉄のような冷たい金属臭が微かに混じっている。それは絶望的な恐怖でありながら、どこか恍惚とした官能性すら感じさせる、矛盾を孕んだ香りだった。濃度も異常だった。壁を隔てているにもかかわらず、まるで部屋の中に発生源があるかのように、僕の嗅覚を執拗に嬲(なぶ)ってくる。

102号室の住人は、確か、半年ほど前に入居してきた小柄な老婆だったはずだ。名前は確か、鈴木千代さん。たまに廊下ですれ違うと、深く刻まれた皺をさらに深くして、穏やかに会釈を返してくれる。陽の光を吸い込んだ干し草のような、優しく乾いた匂いのする人だった。あの物静かな老婆が、一体何を、あれほどまでに恐れているというのか。

僕は毎晩、その甘く悍(おぞま)しい香りに苛まれ、浅い眠りしか取れなくなった。壁に耳を当てても、聞こえてくるのは微かな生活音だけ。叫び声も、争う物音も、何も聞こえない。ただ、あの匂いだけが、日に日に濃さを増していく。まるで、部屋の中で巨大な果実が静かに熟し、腐り落ちていく過程を、強制的に嗅がされているようだった。僕の日常は、壁一枚隔てた隣室から漏れ出す謎の恐怖によって、静かに侵食され始めていた。

第二章 静寂の鼻歌

隣室からの匂いは、僕の精神を確実に蝕んでいった。仕事中でも、ふとした瞬間にあの甘い腐臭が鼻腔をよぎり、調合中の繊細な香りのバランスを崩してしまう。師匠であるベテラン調香師に「集中力が足りない」と叱責される日が増えた。当たり前だ。脳が、魂が、得体の知れない恐怖の匂いに汚染されているのだから。

僕は、老婆――千代さんの様子を、注意深く観察するようになった。ゴミ出しのタイミングを合わせ、すれ違いざまに彼女の匂いを嗅ぐ。しかし、彼女自身から漂うのは、やはり陽だまりと古書の匂いだけ。あの濃密な恐怖の匂いの欠片も感じられない。彼女の顔にも、恐怖に怯える人間の特徴である、強張った筋肉の動きや、怯えた瞳の色は見当たらなかった。むしろ、その表情は以前にも増して穏やかで、慈愛に満ちているようにすら見えた。

ある夜、匂いがあまりに強烈で、吐き気と共にベッドから転げ落ちた。もう限界だった。僕は壁に耳を押し付ける。しん、と静まり返った中で、微かに、本当に微かに、何かを聴き取った。

それは、鼻歌だった。

途切れ途切れの、どこか懐かしい旋律。楽しげで、満ち足りたような響き。恐怖に喘ぐ人間が、鼻歌など歌うだろうか。僕の頭は混乱した。あの匂いは、僕の能力が生み出した幻覚なのだろうか? 長年の孤独とストレスが、ついに僕の感覚を狂わせてしまったのか?

疑念は、しかし、すぐに別の疑念に塗り替えられた。老婆は、何かを隠しているのではないか。あの穏やかな微笑みの下で、想像を絶するような恐怖を飼い慣らしているのではないか。

僕はベランダに出て、隣室の窓に目をやった。遮光カーテンが引かれ、中の様子は窺えない。だが、そのカーテンの隙間から漏れる明かりが、まるで呼吸をするように、ゆっくりと明滅している気がした。テレビか何かの光だろうか。いや、それにしてはリズムが不規則すぎる。

そして、カーテンの向こう側から、時折、千代さんの話し声が聞こえるようになった。「あなた、今日は良い天気でしたよ」「ええ、本当に。あなたがいてくれたら、もっと良かったのに」。誰かと話しているのか? だが、返事はない。彼女は独り言を言っているだけだ。しかし、その声色には、孤独な老人のそれとは違う、確かな「相手」の存在を感じさせる温かみがあった。

僕の中で、一つの恐ろしい仮説が形を結び始めた。あの部屋には、僕の目にも耳にも触れない、「何か」がいるのではないか。そして、老婆はその「何か」を、恐れながらも、慈しんでいるのではないか。

腐果の蜜の匂いは、僕の恐怖心を煽るように、さらに甘く、濃密になっていく。もう、逃れることはできない。僕は、あの扉の向こう側にある真実を、この鼻で確かめなければならないと、覚悟を決めた。

第三章 愛という名の恐怖

その夜、匂いは頂点に達した。部屋の空気が粘性を帯びたように重く、呼吸をするたびに、甘い腐敗臭が肺腑に直接流れ込んでくる。もはや幻覚ではない。これは現実だ。頭痛と吐き気が限界を超え、僕はほとんど無意識のうちに、自室のドアを開けていた。

102号室のドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。軋む音と共に扉を開けると、むわり、と凝縮された匂いの塊が僕の全身を殴りつけた。あまりの濃さに、一瞬意識が遠のく。部屋の中央に、背を丸めた千代さんが、安楽椅子に座っているのが見えた。彼女は、窓の外の暗闇を静かに見つめていた。

部屋には、彼女以外誰もいなかった。しかし、この匂いは何だ。部屋の隅々まで、あの甘く悍ましい香りが満ち満ちている。

僕の侵入に気づいた千代さんが、ゆっくりと振り返った。その顔に驚きや恐怖の色はなかった。ただ、すべてを見透かしたような、凪いだ瞳で僕を見ている。

「……ああ、やっぱり。あなたには、この匂いがわかるのですね」

老婆の声は、鈴を転がすように澄んでいた。僕は言葉を返せず、ただ立ち尽くす。彼女は、安楽椅子の隣に置かれたサイドテーブルに、優しく視線を移した。そこには、古びた一枚の写真立てが置かれていた。セピア色に変色した写真の中で、若々しい男性がはにかむように微笑んでいる。

「この人は、私の夫です。五十年前に、病で亡くなりました」

千代さんは、愛おしむように写真立てを撫でながら、語り始めた。

「私はね、夫が死んでしまうことが、怖くて怖くて仕方がなかった。彼がこの世から消えて、私だけの記憶の中の存在になってしまうことが、何よりも恐ろしかった。だから、ずっと祈ったんです。どうか、彼の魂だけでも、私のそばに居させてください、と」

彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥に、穏やかさとは程遠い、燃え盛るような激情の炎が揺らめいていた。

「私の祈りは、届いたのかもしれません。夫は、今もここにいてくれる。姿は見えなくても、声は聞こえなくても……ええ、確かにここに。でもね、だからこそ、私は今も怖いのです」

そこで、僕は理解した。この部屋に満ちる匂いの正体を。

「彼が、いつか本当に消えてしまったら? この温もりも、気配も、すべてが私の妄想だったとしたら? その喪失を思うたび、私の心は恐怖で張り裂けそうになる。この恐怖がある限り、夫はここにいてくれる。だから私は、この恐怖を手放すことができない。夫を愛すれば愛するほど、失う恐怖もまた、深く、甘くなっていくのです」

衝撃が、僕の全身を貫いた。僕が「恐怖の匂い」だと思っていたものは、純粋な恐怖ではなかった。それは、死んだ夫を永遠に繋ぎ止めたいと願う、狂気的なまでの「愛」と、それ故に生まれる「喪失への恐怖」が、五十年という歳月をかけて熟成され、混じり合い、昇華された、究極の感情の香りだったのだ。

腐りかけた果実の甘さは、極限まで煮詰められた愛情。錆びた鉄の匂いは、死と喪失がもたらす冷たい恐怖。二つは分かちがたく結びつき、この世のものとは思えない、甘美で恐ろしい芳香を生み出していた。

僕の能力は、単に恐怖を嗅ぎ分けるものではなかった。人の感情が、その純度を高めた末に行き着く「本質」の匂いを、嗅ぎ取ってしまう能力だったのだ。

第四章 世界の香り

千代さんの部屋を出た後も、僕はしばらく廊下で立ち尽くしていた。脳が、全身が、痺れている。あの匂いは、もはや僕の鼻腔にこびりついて離れない。だが、不思議と、以前のような不快感はなかった。それは悍ましい腐臭であると同時に、あまりにも純粋で、切ない愛の香りでもあったからだ。

自室に戻り、僕は窓を開けた。夜の冷たい空気が流れ込んでくる。いつもなら、この街の夜は、無数の不快な「恐怖の匂い」が渦巻く地獄だった。仕事の失敗を恐れるサラリーマンの焦げ臭い匂い。恋人の裏切りを疑う女の酸っぱい匂い。漠然とした未来への不安が放つ、埃っぽい甘さ。僕はそれらをシャットアウトするように、いつも窓を固く閉ざしていた。

だが、今、僕の鼻が捉える匂いは、違って聞こえた。いや、違って「香った」。

一つ一つの匂いの奥に、それぞれの物語があることを、僕は知ってしまった。焦げ臭い匂いは、家族を養うための必死な祈りかもしれない。酸っぱい匂いは、かつて信じた愛が壊れることへの悲痛な叫びかもしれない。それらは単なる恐怖ではない。愛、責任、希望、執着……そういった、人間が抱えるどうしようもなく複雑で、厄介で、そして尊い感情が、恐怖というフィルターを通して僕に届いていただけなのだ。

僕が今まで呪いだと思っていた能力。それは、人の魂の最も深い場所から立ち上る、声なき声の香りを聞くための、特殊な才能だったのかもしれない。

千代さんは、これからも夫を愛し、恐れ続けるのだろう。彼女の部屋からは、あの甘美な腐果の香りが漂い続けるに違いない。だが、もう僕はその匂いに苛まれることはないだろう。むしろ、その香りを嗅ぐたびに、僕は人間の愛の深さと、その裏側にある孤独の深淵に、思いを馳せることになる。

僕は、夜の街を見下ろした。無数の光が、まるで香炉から立ち上る煙のように揺らめいている。その一つ一つの下に、誰かの人生があり、誰かの感情がある。喜びも、悲しみも、そして愛も恐怖も、すべてが混じり合って、この「世界」という、複雑で巨大な香りを創り出している。

僕は、深く、息を吸い込んだ。

街の匂いが、初めて不快ではない、と感じられた。それは、数えきれないほどの物語を秘めた、どこまでも豊かで、切なく、そして美しい香りだった。僕は呪われた調香師などではなかった。ただ、誰よりも先に、この世界の本当の香りに気づいてしまった、孤独な観測者に過ぎなかったのだ。

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