東京での消耗しきるような仕事に嫌気が差し、俺こと佐藤健太は、都心から電車で一時間半ほど離れた郊外の町に越してきた。決め手は圧倒的な家賃の安さだ。築五十年の木造アパート「月影荘」の二階角部屋、202号室。不動産屋の男が最後まで何か言いたげに口ごもっていたのが少し気になったが、日当たりの良い六畳間に俺は満足していた。
荷解きもそこそこに部屋を見渡すと、黄ばんだ壁の一角に、古びた一枚の紙が画鋲で留められているのに気がついた。達筆だが、どこか神経質な筆跡でこう書かれている。
【月影荘 居住者心得】
一、午後十時以降、蛇口から水を流してはならない。
二、自身の影を長時間見つめてはならない。
三、隣室から聞こえる音を、模倣してはならない。
「……なんだ、これ」
俺は思わず声に出していた。まるで小学生の肝試しだ。前の住人の悪趣味な置き土産だろう。俺はそれを剥がそうとして、やめた。妙にリアルな墨の滲みが、ただの悪戯ではない何かを訴えかけているような気がしたからだ。まあ、いい。気味の悪いインテリアだと思えばいい。
新生活が始まって三日目の夜だった。隣の201号室から、壁を叩く音が聞こえてきた。
コン、コン、コン。
乾いた、無機質な三回のノック音。時刻は午前一時。こんな時間に何の用だろうか。俺は無視して布団を頭まで被った。翌朝、アパートの大家である老婆に会うと、彼女は申し訳なさそうにこう言った。「お隣さん、昨日の夜に出て行っちゃったみたいでねえ。荷物もそのままで……」。夜逃げ、というやつか。
一週間後、空室だった201号室に新しい住人が入ってきた。俺より少し若そうな、快活な印象の大学生だった。彼は引っ越しの挨拶に来た時、「壁に変な貼り紙がありましたけど、あれ、なんスか?」と笑っていた。俺は曖昧に頷くことしかできなかった。
その夜だった。また、あの音がした。
コン、コン、コン。
隣から聞こえる、壁のノック音。しばらくすると、大学生の楽しげな声が聞こえてきた。「はいはい、ノックね!」。そして、彼が壁を叩き返す音が響いた。
コン、コン、コン。
完璧な模倣だった。
その直後。
「ぎぃああああああああッ!」
鼓膜を突き破るような絶叫。何かが倒れ、ガラスが砕け散る凄まじい破壊音。俺はベッドから跳ね起きた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。恐る恐る自室のドアを開け、廊下を覗き込むと、201号室のドアが、まるで内側から巨大な獣にこじ開けられたかのように歪み、ひしゃげていた。隙間から見える部屋の中は荒れ果て、誰の姿もない。ただ、壁には、べったりと赤黒い何かが擦り付けられた跡が残っていた。
俺は自分の部屋に逃げ帰り、鍵をかけた。間違いなく、あの貼り紙は本物だ。「隣室から聞こえる音を、模倣してはならない」。大学生は、ルールを破ったのだ。
恐怖に駆られた俺は、憑かれたように月影荘の過去を調べ始めた。古い新聞記事のデータベースを漁り、ついに一つの記事を見つけ出した。三十年前、このアパートで一人の物真似芸人が失踪した、という小さな三面記事だ。全く売れない芸人で、ノイローゼの果てに、隣人の立てる生活音──咳払いや食器の音、果ては赤ん坊の泣き声まで──を完璧に模倣するという奇行を繰り返していたという。そしてある日、忽然と姿を消した。彼の部屋には、彼自身の声で「助けて」と録音されたテープが、延々とリピート再生されていたらしい。
「模倣」……。芸人は、音を真似ることで、その音の主の「何か」を奪っていたのではないか。そして最後は、自分自身を模倣することで、自らをこの世から消し去ってしまったのでは? だとすれば、今アパートにいる「何か」は、その芸人の成れの果てなのか。音を模倣する者を許さず、どこかへ連れ去ってしまう怨念そのもの……。
そこまで考えた時、俺は全身の血が凍るのを感じた。もうこんな場所には一刻だっていられない。俺は夜中にもかかわらず、手当たり次第に荷物をスーツケースに詰め込み始めた。一刻も早く、ここから逃げ出すんだ。
その、時だった。
カタカタカタ……。
壁の向こうから、音がした。それは、俺が今まさに立てている、キーボードの打鍵音と全く同じ音だった。いや、違う。俺はキーボードに触れてなどいない。音は、壁の内部から聞こえてくる。俺の部屋の、隣の壁から。
俺の音を、模倣している?
ルールは「隣室から聞こえる音を模倣してはならない」。逆は? 自分の音を模倣された場合は?
カタカタ、カタカタカタ……。
そのリズミカルな音に、俺の指が、まるで操り人形のように引き寄せられていく。やめろ、動くな。脳が命令するのに、身体が言うことを聞かない。俺の指は、吸い寄せられるようにキーボードに触れ、壁から聞こえる音と全く同じリズムを刻み始めた。
カタカタカタ……。
ああ、俺は、模倣してしまった。自らの音の模倣を。
しまった、と思った瞬間、背後にあったクローゼットの扉が、軋む音を立ててゆっくりと開いた。
闇の奥から現れたのは、俺と寸分違わぬ姿をした「何か」だった。顔だけが、まるで歪んだ鏡に映したようにぐにゃりと溶けている。それが、完璧な俺の声で、にたりと笑った。
「模倣、上手だね」
翌朝、月影荘202号室はもぬけの殻だった。ただ、部屋の壁には、一枚の新しい紙が、前の貼り紙の隣に画鋲で留められていたという。
四、自分の音を模倣されてはならない。
模倣禁止
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