忘却の残響、凍てつく絶叫
第一章 凍てつく街
俺の仕事は、死者の最後の言葉を聞くことだ。ただし、俺に聞こえるのは声ではない。温度だ。人が死ぬ間際に抱いた感情は、その場に熱や冷気としてこびりつく。穏やかな死は陽だまりのような温もりを、そして、凄惨な死は、万物を凍らせる絶対零度の冷気を残す。人々が「残滓(ざんし)」と呼ぶその痕跡を辿り、記録すること。それが俺、カイの生業だった。
この世界は、緩やかに死に向かっている。人々が何かを「忘れる」たびに、その対象は物理的な実体を失い、輪郭がぼやけ、やがて空気のように消え失せる。かつて賑わっていたはずの商店街は、今や歯抜けのまだら模様だ。忘れられた店の看板は揺らめく陽炎と化し、その向こうの景色を歪ませて見せる。人々もまた、互いの顔や名前を忘れ、時折、のっぺらぼうのような輪郭の人間とすれ違うことさえあった。忘却は、静かで、残酷な伝染病だった。
そんな静かな終末の中で、異変は起きた。街の中心に聳える、古びた鐘楼。もう何十年も前にその役割を忘れられ、ただの巨大なシルエットと化していたはずの場所から、観測史上、類を見ないほどの強烈な「凍てつく冷気」が放たれ始めたのだ。
同僚たちは「危険すぎる」と近づこうともしなかった。だが、俺には分かった。あれは、ただの個人の死ではない。もっと巨大で、根源的な何かの断末魔だ。触れれば魂ごと凍てつき、砕け散ってしまいそうなほどの、純粋な絶望。その冷気は、まるで世界そのものが引き攣りを起こしているかのような、途方もない恐怖の叫びだった。
第二章 石版の囁き
鐘楼へ向かう足取りは重かった。一歩近づくごとに、皮膚を突き刺す冷気が密度を増していく。吐く息は瞬時に白い結晶となって、カランと乾いた音を立てて地面に落ちた。防寒具の内側まで染み込んでくる冷たさに、奥歯が自然と噛み合う。
ポケットの中で、師から受け継いだ唯一の形見が冷たく脈打っていた。手のひらサイズの「石版の欠片」。表面に指を滑らせると、この世界から忘れ去られた「言葉」が、淡い光の文字となってランダムに浮かび上がる。それは、失われた記憶への唯一の鍵だった。
俺は凍える指先で、石版を強く握りしめた。
『希望』
光の文字が浮かび上がった瞬間、脳裏に光景が流れ込んできた。夏の抜けるような青空。鐘楼から響き渡る、朗々とした鐘の音。その音色に耳を傾け、顔を上げる人々の笑顔、笑顔、笑顔。そこには、俺が一度も見たことのない、活気に満ちた世界が広がっていた。匂いや音までが、あまりに鮮明に蘇る。
だが、幻は一瞬で霧散した。現実に戻された俺の手のひらには、凍傷にも似た灼けつくような痛みが走り、石版はさらに冷たさを増していた。希望を思い出すことは、この終わりの世界では、自傷行為に等しいのかもしれない。
第三章 鐘楼の守り人
鐘楼の重い扉は、触れただけで手のひらの皮膚が張り付くほどに凍てついていた。無理やりこじ開けると、内部はまるで氷の洞窟のように変貌していた。壁も、床も、螺旋階段も、全てが分厚い霜で覆われている。
階段を軋ませながら上っていくと、最上階へと続く踊り場で、人影が揺らめいているのに気づいた。半ば透明になりかけた、老人が一人、静かに佇んでいたのだ。彼の存在そのものが、この世界から忘れ去られかけている証拠だった。
「来るな、若者よ」
老人の声は、ひび割れたガラスのようだった。
「ここは聖域だ。お前のような『忘却監視官』が足を踏み入れていい場所ではない」
「あんたは誰だ」
「わしは記憶の守り人。この冷気が、世界が『在った』ことの最後の証だと知る、最後の人間だ」
老人は、か細い腕を広げて俺の行く手を阻んだ。
「この冷気は災いではない。忘却という無慈悲な流れに対する、最後の『抗い』なのだ。これを消し去れば、我々は真に無になる。ただ、それだけだ」
彼の瞳には、狂信的な光が宿っていた。だが、俺の肌が感じるのは、彼の言葉とは裏腹の、底なしの絶望の冷気だけだった。この男は、途方もない恐怖を「聖なるもの」と錯覚することで、正気を保っているに過ぎない。
第四章 忘れられた音色
俺は老人を振り払い、最上階の部屋へと駆け込んだ。そこに鎮座していたのは、巨大な青銅の鐘だった。しかし、その本来の色は見る影もない。表面は氷の鎧で覆われ、無数の氷柱が鍾乳石のように垂れ下がっている。ここが、全ての冷気の源だった。
鐘に一歩近づいただけで、ポケットの石版が灼けつくように熱を帯びた。いや、違う。あまりの冷たさに、感覚が麻痺しているのだ。俺は恐る恐る石版を取り出す。すると、石版はこれまでにないほど激しく明滅を始めた。
『愛』
『悲しみ』
『夢』
『未来』
『約束』
『祈り』
忘れられた言葉たちが、堰を切ったように溢れ出す。そのたびに、人類が紡いできた無数の記憶が濁流となって俺の意識に流れ込んできた。初めて手を繋いだ恋人たちのときめき。我が子を失った母親の慟哭。星空を見上げ、まだ見ぬ世界を語り合った若者たちの眼差し。それらは全て、かつて人々が共有し、この鐘の音色に託してきた感情の断片だった。記憶の奔流に、俺の自我が溶けていく。
第五章 絶叫の正体
意識が混濁する中で、俺は真実を悟った。
この凍てつく冷気は、特定の誰かの死ではない。この鐘は、人々の営みの中心にあった。誕生を祝い、死者を悼み、時の訪れを告げ、人々の祈りを受け止めてきた。この鐘自体が、巨大な記憶の器だったのだ。
そして今、世界は忘れている。人類は、自らが築き上げてきた歴史も、文化も、そして、他者を愛し、未来を夢見るという感情そのものの価値さえも、忘れ始めている。
この「凍てつく冷気」は、忘れ去られようとする「人類の集合無意識」そのものが、消えたくないと、ここに在ったのだと叫ぶ、最後の断末魔だった。老人が言っていた「抗い」の正体は、これだったのだ。それは聖なる祈りなどではない。ただ、忘れられることへの純粋な恐怖が生み出した、巨大な絶叫だった。
この絶叫が消えれば、世界は感情も記憶もない、静かで空虚な「無」に帰るだろう。老人が望んだ安寧とは、魂の死を意味していた。
第六章 最後の選択
俺は、巨大な氷塊と化した鐘の前に立ち尽くす。目の前にあるのは、人類の魂そのものの亡骸だった。そして俺は、その葬儀を執り行うか否かを委ねられた、たった一人の存在だった。
選択肢は二つ。
この絶叫を、この凍てつく痛みを、世界から完全に「忘れ去る」か。そうすれば、この苦しみは消え、世界は一時的な「平静」を取り戻すだろう。だがそれは、人類が自らの魂を完全に放棄し、意味のない存在へと堕ちることを意味する。感情も、歴史も、未来への希望も、全てが失われるのだ。
あるいは、石版の力を使って、この絶叫を「思い出す」か。忘れられた記憶の奔流を、最後の力で世界に解き放つ。それは忘却に抗う、あまりに無謀な試みだ。脆弱になった世界は、強大すぎる記憶の奔流に耐えきれず、崩壊するかもしれない。忘却の速度を、むしろ加速させてしまうかもしれない。
どちらを選んでも、世界の終わりは避けられない。意味のない永続か、意味のある一瞬の終焉か。
第七章 残響の果てに
俺は凍りつく鐘に、そっと手を触れた。骨の髄まで凍りつくような冷たさが、腕を伝って心臓に達する。だが、不思議と恐怖はなかった。
もう片方の手で、石版を強く、強く握りしめる。
俺は、笑っていたのだろうか。それとも、泣いていたのだろうか。自分でも分からなかった。ただ、答えはもう決まっていた。
痛みのない世界に、意味などない。
石版が甲高い音を立てて砕け散った。その瞬間、鐘に宿っていた全ての記憶が、眩い光の奔流となって世界に解き放たれる。空から暖かい光の粒子が、雪のように舞い降りてきた。
街が、世界が、一瞬だけ、その本来の色彩を取り戻していく。陽炎のように揺らめいていた建物が、確かな輪郭を結ぶ。のっぺらぼうだった人々の顔に、驚きと、困惑と、そして懐かしさの表情が浮かぶ。それは、燃え尽きる寸前の蝋燭が放つ、最後の輝きだった。
世界が崩壊していく荘厳な音の中で、俺は初めて、肌で感じていた。かつて人々がこの鐘の音に託した「希望」という感情の、温もりを。
凍てつく冷気は、もうどこにもなかった。代わりに、陽だまりのような暖かな何かが、俺の身体を、そしてこの世界を優しく包み込んでいく。
それは紛れもない終わりだった。だが、不思議と、何かの始まりのようにも感じられた。俺は降り注ぐ光の粒子の中で、満足げに、そっと目を閉じた。