第一章 腐鉄の蜜
水野楓の舌は、嘘をつかない。それは呪いであり、彼女だけの羅針盤だった。幼い頃から、楓は恐怖を「味」として感じてきた。友達とかくれんぼをしていて、鬼に見つかりそうになった時の、焦げた砂糖のような甘ったるい味。夜道で背後に人の気配を感じた時の、舌を刺す炭酸のような痺れる味。その共感覚は、彼女から感情の起伏を奪い、代わりに世界を冷静に分析する癖を植え付けた。恐怖とは、脳が作り出すただの化学反応。その産物を味覚として処理しているに過ぎない。そう自分に言い聞かせ、楓は感情に蓋をして生きてきた。
そんな彼女の元に、十年以上疎遠だった祖母の訃報が届いたのは、初夏の湿った風が窓を揺らす日のことだった。両親を早くに亡くした楓にとって、唯一の肉親だったが、祖母との間にはいつも見えない壁があった。記憶の中の祖母は、いつもどこか怯え、何かに赦しを乞うように伏し目がちに微笑む人だった。
遺品整理のため、一人で訪れた祖母の家は、海に近い小さな町にひっそりと佇んでいた。古いが、庭の紫陽花まで丁寧に手入れされた、穏やかな佇まいの日本家屋。楓は深呼吸し、錆びた門扉を押した。
その瞬間だった。
「っ……!」
経験したことのない、強烈な味が口内を蹂躙した。それは、腐りかけた鉄の生臭さと、花の蜜を煮詰めたような、吐き気を催す甘さ。二つの相反する味が複雑に絡み合い、舌の付け根から脳天までを貫く。これは、ただの恐怖ではない。もっと根源的で、濃密で、長い時間をかけて熟成された、澱のような何かの味だ。
楓は思わずその場に膝をつきそうになった。玄関の引き戸に手をかけたまま、動けない。家の中から、まるで巨大な捕食者が息を潜めているような、圧倒的な気配が漏れ出してくる。祖母は、こんな「味」の中で、たった一人で暮らしていたというのか。
逃げ出したい本能と、この異常な味の正体を突き止めなければならないという奇妙な使命感が、楓の中でせめぎ合う。これまでずっと目を背けてきた、自らの忌まわしい体質と、初めて本気で向き合う時が来たのかもしれない。楓は唾を飲み込み、不快な味を喉の奥へ押しやると、軋む戸をゆっくりと開いた。家の中は、外光の届かない、深い闇に沈んでいた。
第二章 褪せたインクの告白
家の中は、予想に反して整然としていた。埃一つなく磨かれた廊下、季節の花が生けられた床の間。しかし、楓の舌が感じる「腐鉄の蜜」の味は、家の奥へ進むにつれて濃くなっていく。まるで、音源に近づくように。
リビングの隅にある文机の引き出しから、楓は一冊の古い大学ノートを見つけ出した。それは祖母の日記だった。褪せたインクで綴られた文字は、祖母のものに間違いない。最初のページは穏やかな日常の記録だったが、数年分を飛ばして読み進めると、徐々にその内容は変容していく。
『今日も「あれ」は静かだ。私が与える恐怖だけで、満たされているらしい。それでいい。それが、私の犯した罪に対する、唯一の償いなのだから』
『時折、壁の向こうから、飢えた気配がする。私の恐怖心が薄れると、「あれ」は飢える。もっと恐れなければ。もっと、この家を恐ろしい場所にし続けなければ』
「あれ」という言葉が、何度も繰り返し現れる。日記によれば、祖母は家の屋根裏に何かを封じ込め、それを自らの「恐怖」を餌として飼いならしていたというのだ。楓は背筋が凍るのを感じた。舌の上の味は、さらに粘度を増し、まるで熱い鉛を舐めているかのように痛みを伴い始めた。
『この体質は、呪いだと思っていた。けれど、この呪いがあったからこそ、私は「あれ」を生かし続けられた。楓には、決してこの連鎖を継がせてはならない。あの子は、自由に生きていい』
最後のページには、楓の名前が記されていた。その瞬間、楓の中で点と点が繋がった。祖母も、自分と同じ共感覚の持ち主だったのだ。そして、彼女が自分を避けていたのは、嫌っていたからではない。この家の、そしてこの血筋の呪いから、自分を遠ざけるためだったのだ。
楓は立ち上がり、二階へと続く急な階段を見上げた。その先にある、固く閉ざされた屋根裏部屋の扉。そこが、この家の恐怖の震源地。祖母がその身を賭して封じ込めていた「何か」がいる場所。腐鉄の蜜の味は、今や口の中だけでなく、全身の毛穴から染み出してくるような錯覚さえ覚える。楓は、ポケットから祖母の遺品の束にあった、一本の小さな錆びた鍵を取り出した。鍵穴に差し込むと、カチリ、と乾いた音が響いた。
第三章 恐怖を食む人
扉を開けた先は、埃とカビの匂いが充満する、闇の空間だった。楓はスマートフォンのライトを点け、恐る恐る中を照らす。そこに怪物の姿はなかった。打ち捨てられた古い家具や、黄ばんだ本の山。そして、その奥。部屋の隅に置かれた簡素なベッドの上に、小さな人影が横たわっていた。
それは、老婆だった。骨と皮ばかりに痩せ衰え、白髪は乱れ、深く刻まれた皺は、まるで干上がった川底のようだった。だが、その顔立ちは、紛れもなく、楓が知る祖母のそれと瓜二つだった。
老婆が、ゆっくりと顔を上げた。虚ろな目が、楓を捉える。その瞬間、楓の口内の味は、これまでで最も強く、鋭くなった。しかし、それはもはや恐怖の味だけではなかった。その奥に、途方もないほどの「飢え」と「孤独」の味が混じっているのを、楓は感じ取った。
楓は、日記の最後の数ページに挟まっていた、一枚の古い写真を見つけ、全てを悟った。写真には、瓜二つの若い女性が、仲睦まじく写っている。祖母と、その双子の姉妹。
祖母が封じ込めていたのは、怪物などではなかった。彼女自身の姉――楓の大伯母だったのだ。日記の断片的な記述と、目の前の光景から、楓は恐ろしい真実を組み立てていった。大伯母は、楓や祖母よりもさらに強烈な共感覚の持ち主だった。彼女は、他者の「恐怖」を直接的に味わい、それを自らの生命エネルギーに変換しなければ生きていけない、特異な存在だったのだ。
若い頃、その能力を制御できなかった大伯母は、無意識に周囲の人々の恐怖を「捕食」し、村人から鬼や物の怪のように恐れられた。祖母は、迫害から姉を守るため、世間から彼女の存在を抹消し、この屋根裏に匿った。そして、自らが恐怖を感じ続けることで、姉のための「食事」を、何十年もの間、たった一人で供給し続けてきたのだ。
祖母の日記にあった『私の罪』とは、姉をこの薄暗い部屋に幽閉したことへの罪悪感だった。そして、祖母の死によって「餌」を失った大伯母は、今、飢えに苦しんでいる。楓が家に入った瞬間から感じていた強烈な味は、大伯母が発する飢餓の叫びであり、同じ体質を持つ楓の「恐怖」を渇望する、必死のシグナルだったのだ。
「……あ……ぁ……」
大伯母の乾いた唇から、か細い声が漏れた。楓に向かって、震える手がゆっくりと伸ばされる。その目は、もはや楓に恐怖を求めてはいなかった。ただ、誰かの温もりに触れたいと、そう訴えているように見えた。
第四章 塩辛い追憶
楓は、一歩、また一歩と、ベッドに近づいた。舌の上で荒れ狂っていた腐鉄と蜜の味は、不思議と凪いでいく。代わりに、大伯母の絶望的な孤独の味が、じわりと滲み出す。それは、乾いた砂を噛みしめるような、ざらついた寂しい味だった。
これまで忌み嫌い、蓋をしてきた自らの体質。それが、この孤独な魂と自分とを繋ぐ、唯一の絆だった。祖母が守ろうとしたもの。その意味を、楓は今、全身で理解していた。
楓は、ためらわずにその皺だらけの冷たい手を取った。大伯母の虚ろな目が、わずかに見開かれる。驚きと、安堵と、そして長い長い孤独の終焉を予感したかのような、穏やかな光が宿った。
その瞬間、楓の口の中に、まったく新しい味が広がった。
それは、温かく、そして少しだけ塩辛い味だった。恐怖でも、孤独でもない。それは、祖母が姉に向け続けた愛情の味であり、今、楓が大伯母に感じている憐憫と共感の味だった。生まれて初めて、楓は恐怖以外の感情を「味わって」いた。それは、涙の味によく似ていた。
大伯母は、楓の手を弱々しく握り返すと、満足したかのように、静かに目を閉じた。まるで長い眠りにつくように、ゆっくりと呼吸が浅くなっていく。楓は、ただ黙って、その最期の瞬間まで手を握り続けた。
やがて、大伯母の身体から完全に力が抜けた時、家全体を覆っていたあの不快な「腐鉄の蜜」の味は、霧が晴れるように、跡形もなく消え失せていた。
後に残されたのは、静寂と、楓の舌の上に微かに残る、塩辛い余韻だけだった。
楓の頬を、一筋の涙が伝った。感情を押し殺し、世界を味覚だけで分析してきた彼女が、何十年ぶりかに流す涙だった。恐怖を味わうこの体質は、これからも消えることはないだろう。だが、もう呪いだとは思わなかった。恐怖の味を知っているからこそ、今この瞬間に感じる、温かく塩辛いこの味の尊さがわかる。
祖母の家を出る時、楓は振り返らなかった。彼女はこれから、恐怖だけでなく、喜びも、悲しみも、そして愛しさも、その舌で味わいながら生きていくのだ。それはきっと、複雑で、時におぞましく、けれどどうしようもなく豊かな、人間だけの「味」なのだろうから。