第一章 虚無の色の音
水島響の人生は、常に音に彩られていた。いや、正確には、音が彼の視界を彩っていた。彼は、音を色として知覚する共感覚――色聴の持ち主だった。小鳥のさえずりはレモンイエローの飛沫となり、通り過ぎる車のエンジン音は鈍い灰色の帯を描く。この世界で唯一、完全な静寂だけが、彼に透明な安らぎを与えてくれた。
だからこそ、丘の上に建つ古びた洋館に足を踏み入れた瞬間、響は強烈な違和感に襲われた。依頼主である老婦人、高遠夫人から預かった鍵で重厚な扉を開けると、そこは静寂に満ちていた。だが、それは安らぎをもたらす透明な静寂ではなかった。まるで分厚いベルベットのカーテンが幾重にも垂れ下がり、あらゆる音を無理やり圧し殺しているかのような、息苦しい沈黙だった。
「ピアノの調律をお願いしたいのです。長年、誰も触れていないものでして」
電話口での夫人の声は、乾いた葉が擦れるような音で、くすんだ琥珀色をしていた。その言葉通り、広間の奥には、埃をうっすらと被ったグランドピアノが巨大な獣のように鎮座している。スタインウェイのフルコンサートモデル。かつては艶やかだったであろう黒檀のボディも、今は光を失っている。
響は調律道具の入った鞄を床に置き、ピアノへと歩み寄った。一歩、また一歩と近づくにつれて、圧殺された静寂の奥から、何かが漏れ出してくるのを感じた。それは音ですらない、音の残骸。耳ではほとんど聞き取れないほどの微かなノイズ。
しかし、響の目には、それがはっきりと見えていた。
ピアノの周囲に、煤(すす)のように黒い霧が淀んでいる。それはただの黒ではない。光を飲み込み、色彩を否定する、絶対的な虚無の色。響がこれまで見たどんな不快な音の色とも違う、存在そのものを削り取るような不吉な黒だった。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。この感覚には覚えがあった。これは、純粋な恐怖の色だ。
「……失礼します」
彼は誰にともなく呟き、ピアノの鍵盤蓋にそっと手をかけた。ゆっくりと持ち上げると、並んだ白鍵と黒鍵が姿を現す。そのうちの一つの鍵盤に、彼は指を伸ばした。中央の「ド」の音。
ポーン、とくぐもった音が鳴った。調律が狂い、濁った響き。
その瞬間、淀んでいた黒い霧が生き物のように蠢き、濃度を増した。霧は響の指先から腕を這い上がり、心臓を直接握り潰すような冷たい感触を伴って、彼の視界を侵食する。
「うっ……!」
思わず手を引く。黒い霧はふわりと後退し、再びピアノの周りにまとわりついた。呼吸が浅くなる。これはただの調律の仕事ではない。このピアノには、何か得体の知れないものが巣食っている。
それでも、と響は思う。自分はプロの調律師だ。どんな状態のピアノであろうと、本来の音を取り戻すのが使命だ。彼は自分の特異な感覚を、仕事の上では正確な音を聞き分けるためのツールとして利用してきた。この呪われたような感覚が、唯一役立つ瞬間だった。
彼は意を決し、再び鍵盤に向き合った。この黒い霧の正体を突き止めなければ、このピアノを救うことはできない。そして、この息苦しい静寂に囚われた館そのものも。
第二章 黒い霧の旋律
調律を始めると、黒い霧は執拗に響にまとわりついた。チューニングハンマーでピンを回し、弦の張力を調整するたび、ピアノは軋むような、あるいは嘆くような音を立てた。その一つ一つの音に、虚無の色の霧が呼応する。それはまるで、眠っている怪物を無理やり起こそうとしているかのような、危険な手応えだった。
霧は冷たく、生命力を奪う。集中力は削られ、指先はかじかむように感覚が鈍っていく。時折、霧の向こうに、長い髪の少女の影が揺らめくような気がした。だが、目を凝らすとそこには何もなく、ただピアノの黒い影が落ちているだけだった。
「……誰か、いるのか」
問いかけは、音を吸い込む静寂に溶けて消えた。
作業の合間に、響は館の中を少しだけ歩いてみた。埃っぽい廊下を抜け、リビングらしき部屋に入る。暖炉の上には一枚の肖像写真が飾られていた。セピア色の写真の中で、ピアノの前に座る一人の少女が、はにかむように微笑んでいる。年は十代半ばだろうか。写真の中の彼女は、今にも美しい旋律を奏でだしそうな、喜びに満ちた表情をしていた。
高遠小夜子、と写真立てのプレートに彫られている。おそらく、依頼主である高遠夫人の娘だろう。
響はピアノのある広間に戻り、改めてその楽器と対峙した。小夜子という少女が、このピアノを弾いていたのだろうか。彼女の指は、どんな色の音を紡いだのだろう。
彼は試しに、簡単なアルペジオを弾いてみた。狂った音階が、黒い霧をさらに濃くする。霧はもはや、響の全身を包み込むほどに膨れ上がっていた。それは単なる恐怖ではなかった。霧の中に、深い悲しみと、底なしの絶望が渦巻いているのを、響は肌で感じ取っていた。これは、誰かの魂の叫びそのものだ。
「あなたなのか、小夜子さん」
響は鍵盤に指を置いたまま、虚空に語りかけた。
「あなたのピアノを、元の音に戻したいんだ。邪魔をしないでくれ」
すると、それまで不規則に揺らめいていただけの黒い霧が、明確な形を取り始めた。それは、まるで一つの旋律をなぞるように、特定の音の周りに集まり、渦を巻く。それは不協和音の連続だったが、その中に、途切れ途切れのメロディーのかけらが隠されていることに、響は気づいた。
彼は自分の感覚を研ぎ澄ます。聴覚と視覚を総動員し、黒い霧が指し示す音を追った。ラ、ファ、シ、ミ……。バラバラの音が、一つの苦悶に満ちたフレーズを形成しようとしている。
この音は、このピアノが記憶している最後の旋律なのかもしれない。小夜子が最後に弾いた、未完の曲。
響は、その旋律を正確に再現しようと試みた。恐怖に震える指で、一つ、また一つと鍵盤を押していく。彼が旋律をなぞるたびに、霧は叫び声をあげるように激しく渦巻いた。やめてくれ、と懇願するように。あるいは、もっと、と渇望するように。
その矛盾した反応に戸惑いながらも、彼は弾き続けた。この霧の正体、このピアノにかけられた呪いの核心に、もう少しで手が届く。そんな確信があった。
第三章 聞きたくなかった音
「おやめなさい!」
突然、背後から鋭い声が飛んだ。振り返ると、いつの間に入ってきたのか、高遠夫人が入り口に立ち尽くし、蒼白な顔で響を睨みつけていた。
「その音を……その音を鳴らさないでください!あの子が、小夜子が苦しみます!」
夫人の声は、ガラスが砕けるような鋭利なマゼンタ色をしていた。彼女の目には、響には見えない何かが見えているようだった。
「夫人、ですが、このままでは調律が……」
「調律など、もう結構です!どうか、このままにしておいてください。どうか……」
夫人は懇願するように両手を合わせた。その姿は、響の決意を鈍らせるには十分だった。だが、彼はもう引き返せなかった。黒い霧の正体、小夜子の苦しみの根源。それを見届けなければならないという、奇妙な使命感が彼を突き動かしていた。
「申し訳ありません。ですが、俺は調律師です。このピアノを、このままにはしておけない」
響は夫人に背を向け、再び鍵盤に向き合った。そして、先ほどの不協和な旋律の、最後の音を探った。黒い霧が最も濃く、最も深く、最も絶望的な色になる音。それは、高音域の一つの鍵盤だった。
彼は覚悟を決め、その鍵盤を強く、長く押した。
キィン、という金属的な、耳を劈くような音が鳴り響いた。
その瞬間、響を包んでいた黒い霧が、中心の一点に向かって急速に収縮した。そして、ピアノの前に、半透明の少女の姿が浮かび上がった。セピア色の写真で見た、高遠小夜子その人だった。
しかし、彼女は響を睨みつけてはいなかった。それどころか、両手で固く耳を塞ぎ、苦痛に顔を歪めている。その口が、声にならない叫びの形に開かれている。
違う。響は直感した。この黒い霧の音は、小夜子の霊が発しているものではない。
その時、響の脳内に、一つの光景がフラッシュバックした。それは彼の記憶ではない。このピアノに、この館に染み付いた、小夜子の最後の記憶。
――雨の日の交差点。けたたましいブレーキ音。叩きつけられるような衝撃。そして、世界から一切の音が消え去る瞬間。
ピアニストを目指し、音を誰よりも愛していた少女、小夜子。彼女は交通事故で、その命よりも大切な聴力を完全に失ったのだ。
自分の愛したピアノの音、母の優しい声、世界のあらゆる美しい音楽。そのすべてが、彼女の前から永遠に姿を消した。残されたのは、耐え難い無音の世界。絶望した彼女は、この広間で、自らの手で人生の幕を下ろした。
響が見ていた「黒い霧の音」は、小夜子の怨念ではなかった。
それは、彼女が失った「音の世界」への絶望。そして、彼女が最後に聞いた忌まわしい記憶――事故の轟音、悲鳴、ガラスの砕ける音。彼女が二度と「聞きたくなかった音」の記憶そのものが、残留思念となってこのピアノにこびりついていたのだ。
小夜子の霊は、訪れる者がピアノを弾くたびに、その忌まわしい音の記憶を追体験させられ、苦しんでいたのだ。
響は愕然とした。恐怖の源だと思っていたものが、実は悲痛な叫びだった。これまで自分の共感覚を、人との違いを生む呪わしい能力だと思っていた。孤独の源だと。
だが、今、この瞬間、彼は理解した。音を失った小夜子の絶望を、彼女の「聞こえない」という地獄の苦しみを、「色」として感じ取れるのは、世界で自分だけなのかもしれない。
彼の能力は、呪いではなかった。誰かの魂の痛みに触れるための、特別な言葉だったのだ。
第四章 鎮魂の調律
恐怖は消え、深い憐憫と共感が響の胸を満たした。彼は目の前の苦しむ少女の幻影に、そしてその後ろで泣き崩れる老婦人に、静かに語りかけた。
「小夜子さん。もう、あの音を聞かなくていい。今度は、俺があなたに音を見せてあげる」
響は、調律道具を脇に置いた。もはや、正確な音程など問題ではなかった。彼がこれから行うのは、調律ではない。鎮魂の儀式だ。
彼は目を閉じ、自身の記憶の中にある、最も美しく、穏やかな色の音を探した。
そっと指が鍵盤に触れる。彼が最初に紡いだのは、夜明けの東の空のような、淡いラベンダー色と乳白色が溶け合う、静かな和音だった。それは、新しい一日が始まる前の、希望に満ちた静寂の色。
次に、彼は木漏れ日が地面に落ちる様子を思い浮かべた。指が踊り、キラキラと輝く黄金色のトレモロが広間に満ちる。暖かく、優しい光の粒子が、黒い霧に触れ、それを溶かしていく。
雨上がりの虹の色。澄んだ小川のせせらぎの、透明なアクアブルー。愛する人の声が持つ、柔らかなコーラルピンク。
響は、自分がこれまで見てきた世界の美しい音の色を、次から次へと旋律に乗せて奏でた。それは、技術的に完璧な演奏ではなかったかもしれない。だが、一音一音に、小夜子の魂に届けと願う、強い祈りが込められていた。
音を失った少女に、もう一度、世界の美しさを「見せて」あげたい。その一心だった。
すると、どうだろう。館に渦巻いていた絶望の黒い霧が、美しい音の色彩に照らされ、徐々にその濃度を失っていく。インクが清らかな水に溶けていくように、煤色の霧は薄まり、ちりぢりになって消えていった。
ピアノの前で耳を塞いでいた小夜子の幻影が、おそるおそる手を下ろす。彼女の瞳に、響が奏でる音の色が映っているかのように、その表情が穏やかに和らいでいく。
やがて、彼女はかすかに微笑んだ。それは、苦しみから解放された安堵の笑みであり、感謝の笑みでもあった。そして、その姿は陽光に溶ける朝霧のように、静かに、ゆっくりと消えていった。
最後の音が消え、館には再び静寂が訪れた。だが、それはもう、あの息苦しい沈黙ではなかった。すべてを浄化し、優しく包み込むような、透明で穏やかな静寂だった。
響が振り返ると、高遠夫人が涙を流しながら、深く頭を下げていた。
館を後にし、夕暮れの道を歩きながら、響は世界の音を聞いていた。車の走行音は灰色の帯ではなく、家路を急ぐ人々の想いを乗せた茜色の流れに見えた。人々のざわめきは、無秩序な色の氾濫ではなく、一つ一つの人生が奏でる複雑な和音のように感じられた。
呪いだと思っていた自分の感覚は、世界と、そして他者の魂と繋がるための特別な「言葉」だったのだ。孤独だった調律師は、音を通じて魂に触れ、初めて世界との調和を見出した。彼の足取りは、今までになく軽く、確かだった。空は、彼を祝福するかのように、燃えるような赤と紫のグラデーションに染まっていた。