災禍の器

災禍の器

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第一章 降り止まぬ雨

鼻腔にへばりつく、濡れたアスファルトの匂い。

六月の雨は、灰色の絵の具をぶちまけたように街を塗りつぶしている。

傘を差しているのに、肩口がじっとりと重い。

「蓮、聞いてる?」

美咲の白い指先が、カップの縁をなぞる。

小刻みに震えていた。

「ああ、ごめん。雨、ひどいなと思って」

蓮は視線を窓の外へ逃がした。

濁った水たまりを、車が無慈悲に跳ね飛ばしていく。

美咲の眉間に刻まれた深い皺。

彼女の職場で続く不可解な事故。

夜な夜な首を絞められる悪夢。

相談したいのだと分かっている。

けれど、言葉は喉元で泥のように詰まった。

『力になれるか?』

いや、僕なんかが口出しして、余計にこじらせたら?

責任なんて取れない。

「……ううん、いいの。私の気にしすぎだよね」

美咲が諦めたように笑う。

その笑顔は、ひび割れた能面のように歪んで見えた。

パリンッ!

突如、隣の席でグラスが弾け飛ぶ音がした。

悲鳴。

床に散乱する破片。

店員が駆け寄る喧騒の中、蓮は反射的に胸元を押さえた。

シャツの下。

肌に張り付く、古びた布の感触。

祖母の形見である『お守り袋』が、焼けた鉄のように熱を発している。

「っ、痛い!」

美咲が短く叫んだ。

飛び散ったガラス片の一つが、彼女の頬を浅く切り裂いていた。

白い肌に、赤い珠が滲む。

「美咲!」

蓮は立ち上がろうとして、椅子の脚に躓いた。

無様に転倒する。

周囲の視線が、痛いほど突き刺さる。

「ご、ごめん……大丈夫?」

情けない声。

美咲は頬の血を拭いもせず、虚ろな目で蓮を見下ろしていた。

「……蓮と一緒にいると、いつも何かが壊れるね」

雨音にかき消されそうな呟き。

だがそれは、鋭利な刃物となって蓮の心臓を抉った。

否定したかった。

けれど、脳裏に浮かぶのは過去の残骸ばかりだ。

かつての親友の骨折。

実家の火事。

同僚の奇病。

みんな、僕の近くにいた。

蓮は胸元のお守り袋を、服の上から握りしめた。

指の関節が白く浮き出るほどに。

これがあるから大丈夫だ。

ばあちゃんがくれた厄除けだ。

僕の不運を、これが吸い取ってくれているはずなんだ。

ドクン。

掌の中の袋が、脈打った。

まるで、胎動のように。

第二章 ほどけた結び目

深夜。

着信音が静寂を引き裂いた。

画面には『美咲』の文字。

午前二時。

「……もしもし」

応答はない。

ただ、生理的な嫌悪感を催す音が聞こえてきた。

『ギュ……ヂュル……』

濡れた雑巾を無理やり絞るような、湿った音。

そして、何かが引きずられる音。

「美咲? どうした!」

『……へや……黒い……隅っこ……』

彼女の声は、極限の恐怖で裏返っていた。

『……目が……合っちゃった……』

背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒。

「今すぐ行く! 鍵をかけてじっとしてろ!」

蓮は上着をひっ掴み、部屋を飛び出した。

外は暴風雨だ。

タクシーなど一台も走っていない。

走るしかない。

美咲のアパートまで十五分。

叩きつける雨が視界を奪う。

泥水が靴の中に侵入し、足取りを重くする。

交差点の赤信号。

誰もいない。

だが、蓮の足は凍りついたように止まった。

車が来たら?

警察に見つかったら?

一瞬の躊躇。

その数秒が、永遠のように長い。

信号が青に変わるのを待って、再び走り出す。

その間にも、胸のお守り袋が暴れるように揺れる。

重い。

鉛の塊を首から下げているようだ。

鎖が皮膚に食い込む。

「くそっ、なんだよこれ!」

走りながら、蓮は苛立ちに任せて袋の紐を乱暴に引いた。

普段なら、決して解けなかった固い結び目。

それが今夜は、あっけなく解けた。

袋の口が開く。

中から転がり出たのは、硬貨ほどの大きさの黒い石だった。

街灯の光さえ吸い込む、底なしの漆黒。

蓮は足を止め、掌に乗ったそれを見つめた。

その瞬間。

バキィッ!!

耳元で、骨がへし折れる音が炸裂した。

中学時代、僕のせいで階段から落ちた親友の、足が折れる音だ。

「がっ……!?」

続いて、皮膚が焼け焦げる臭いと熱風。

実家の店が燃えた日の記憶。

そして、冷たい視線。

『お前のせいだ』と語る、同僚たちの失望した目。

「あ、あぁ……」

言葉による理解など必要なかった。

五感が、痛覚が、暴力的に理解させられた。

この石は、ただの石じゃない。

僕が逃げるたびに感じた罪悪感。

見ないふりをした時の胸の痛み。

優柔不断が生んだ、他人の苛立ち。

それらが凝縮し、腐敗し、結晶化した「呪い」そのものだ。

祖母は不運を吸い取ってなどいなかった。

僕が排泄した汚泥を、ここに溜め込んでいただけだ。

蓮の手から石が滑り落ちる。

アスファルトに落ちた石は、ゴロリと嫌な音を立てて転がった。

石から黒い靄(もや)が噴き出す。

靄は蛇のようにのたうち、一直線に彼方へと伸びる。

その先にあるのは、美咲のアパートだった。

第三章 澱みの深淵

美咲の部屋のドアノブは、飴細工のように捻じ切られていた。

「美咲!」

踏み込んだ瞬間、腐った花のような甘ったるい悪臭が鼻をつく。

真冬の冷蔵庫のような冷気。

部屋の中央。

美咲が宙に浮いていた。

いや、吊るされていた。

天井の隅、壁の黒いシミが広がり、逆さまにぶら下がった「影」となって、彼女の首を締め上げているのだ。

影に顔はない。

言葉も発しない。

ただ、不快な音だけが響く。

『グチュ……グヂュ……』

影が動くたび、骨と肉が擦れるような音がする。

その不定形の腕が、美咲の喉に食い込んでいく。

彼女の顔は赤黒く変色し、白目が剥かれている。

「……あ……が……」

助けなきゃ。

でも、どうやって?

あんな化け物に勝てるわけがない。

警察? 無駄だ。

逃げるか?

見捨てるのか?

いつもの悪い癖。

優柔不断な思考が、脳内で濁流のように渦巻く。

その迷いの一秒ごとに、影は質量を増し、美咲の命を削り取っていく。

蓮の足元で、転がってきた黒い石がカチリと鳴った。

磁石のように、主を追ってきたのだ。

蓮は震える手で石を拾い上げた。

ドライアイスのように冷たい。

逃げるのは、もう終わりだ。

でも、戦う勇気なんてない。

足はすくみ、歯の根が合わない。

それでも。

美咲が死ぬのを、ただ見ていることだけは。

それだけは、死んでも嫌だ。

「……ぅ、うぅ……」

嗚咽が漏れる。

思考より先に、身体が動いた。

これは僕の汚れだ。僕が始末をつけるしかない。

蓮は黒い石を口にねじ込んだ。

大きい。

異物感が喉を塞ぐ。

鉄の味と、汚泥の味が口いっぱいに広がる。

「んぐっ……!」

嘔吐反射が起きる。

胃袋が全力で拒絶する。

涙と鼻水が溢れ出る。

それでも蓮は、えずきながら指で石を喉の奥へと押し込んだ。

飲み下す。

直後、内臓が裏返るような激痛が走った。

「が、ああああああっ!!」

腹の中で手榴弾が爆発したようだった。

蓮の口、鼻、耳、目から、黒い泥のような触手が噴き出す。

美咲を拘束していた影が、その奔流に引かれた。

掃除機に吸い込まれる塵のように、影が蓮の肉体へと収束していく。

ミシミシと、蓮の肋骨がきしむ。

美咲の恐怖、蓮への失望、過去の怨念。

それら全てが、蓮という「器」に無理やり詰め込まれていく。

痛い。

痛いなんてもんじゃない。

魂がミキサーにかけられ、ミンチにされていく感覚。

美咲が床に崩れ落ちるのが見えた。

咳き込みながら、こちらを見ている。

「……蓮……?」

彼女の視線の先で、蓮の輪郭が崩れていく。

皮膚の下で黒い何かが蠢き、彼という存在を塗り替えていく。

蓮は笑おうとした。

最期くらい、格好良く。

けれど、顔の筋肉はもう動かなかった。

意識が、無限に続く漆黒の泥沼へと沈んでいった。

最終章 抜け殻の影

昨夜の嵐が嘘のような、突き抜けるような青空。

美咲は病院のベッドの傍ら、パイプ椅子に腰掛けていた。

日差しが、白いシーツを眩しく照らす。

ベッドには、灰崎蓮が座っていた。

彼は窓の外をぼんやりと眺めている。

「蓮、りんご剥いたよ」

美咲が皿を差し出す。

蓮はゆっくりと首を回し、美咲を見た。

その瞳には、何も映っていなかった。

光も、影も、美咲の姿さえも。

ただ底なしの闇だけが、硝子玉のように嵌め込まれている。

彼は何も言わず、りんごにも手を伸ばさず、また窓の外へ視線を戻した。

呼吸はしている。

だが、そこに「蓮」という人格はもう存在しなかった。

医者は『極度のショックによる昏迷状態』と言った。

回復の見込みは、ない。

美咲は自分の首筋に触れた。

あざは綺麗に消えていた。

あの夜の出来事は、悪い夢だったかのように痕跡を残していない。

蓮が全てを持って行ってしまったから。

「……ありがとう、蓮」

美咲は呟いた。

けれど、その言葉は空虚に響いた。

彼がこうなったのは、自分を救うためだ。

そう思えば思うほど、胸の奥からどす黒い感情が湧き上がってくる。

罪悪感。

後悔。

そして、一生続くかもしれない介護という現実への、冷たい絶望。

美咲の心の中に生まれた小さな「澱み」。

彼女が無意識にため息をついた瞬間、蓮の肩がピクリと反応した。

彼の虚ろな瞳が、わずかに細められる。

まるで、極上の餌を見つけた深海魚のように。

蓮の身体から、目に見えない黒い粒子がふわりと舞い上がり、美咲の肩へと降り積もる。

美咲は寒気を感じてカーディガンを羽織った。

何かがおかしい。

不幸の連鎖は終わったはずなのに。

世界から色が失われていくような感覚。

蓮の周りだけではない。

街全体が、世界全体が、薄暗い膜に覆われ始めているような。

特定の誰かに不幸が集中することはなくなった。

その代わり、薄められた不幸が、霧のように公平に、静かに浸透し始めていた。

蓮は窓の外を見つめたまま、動かない。

その背中は、すべての災厄を詰め込んだパンドラの箱。

蓋はもう、永遠に開くことはない。

美咲の指先から、ポトリと。

剥いたばかりのりんごが滑り落ちた。

腐りかけたような茶色いシミが、

純白の床に、じわりと広がっていった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
蓮の優柔不断と責任回避は、彼が抱える負の感情を凝縮させた「呪いの石」を生み出す根源でした。美咲を救うための究極の自己犠牲は、彼自身を魂なき「災禍の器」に変え、世界に薄い不幸を拡散させるという皮肉な結末を迎えます。美咲の心に残る「澱み」は、彼女が救われた代償としての罪悪感と、不幸が連鎖する新たな始まりを暗示します。

**伏線の解説**
降り続く雨は、登場人物の停滞した心象と物語を覆う閉塞感を象徴しています。当初「厄除け」とされた祖母のお守り袋は、蓮の負の感情を溜め込む「呪いの容器」であり、その「胎動」や「熱」は内なる災厄の成長を暗示するものでした。隣席のグラス破損は、蓮の周囲で不幸が起こる予兆だったのです。

**テーマ**
本作は、優柔不断と責任放棄がもたらす破滅、そして不幸の「本質」と「伝播」を深く描きます。災厄が外部から来るものではなく、内なる負の感情が生み出したものであり、一つの自己犠牲が別の形で不幸を世界に拡散させるという、救済の皮肉と人間の業を問いかけます。
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