意味の弔い
第一章 虚ろな街のアリア
アスファルトの罅(ひび)から、空虚な匂いが立ち上っていた。
俺、朔(サク)は、その場に膝をつく。鼻腔を刺すのは腐臭でも焦げた匂いでもない。そこにかつて在ったはずの『何か』が、根こそぎ抉り取られた後に残る、存在の真空。人々はそれを『虚無の匂い』と呼んだ。
目を閉じると、脳裏に情景が焼き付く。赤いボールを抱えた少女。スキップする軽い足取り。母親を呼ぶ、弾んだ声。次の瞬間、彼女の足元のアスファルトが、黒インクを垂らした水のように揺らぎ、少女は悲鳴を上げる間もなく、その存在の輪郭を闇に溶かした。フラッシュバックはそこで途切れる。
目を開けると、そこには直径三メートルほどの完全な円形の穴、『深淵』が口を開けていた。底は見えない。光も音も、そこだけが世界の法則から切り離されたように、ただ静かに在るだけだった。
「また、増えたわね」
背後からかけられた声に、俺はゆっくりと立ち上がった。理路整然としたスーツに身を包んだ女、玲奈(レイナ)。世界の『意味』の歪みを監視する組織、『理の番人』の一員であり、俺の雇い主だ。彼女の瞳には、この異常な光景に対する焦りと、どこか諦めに似た色が浮かんでいた。
「子供だった」俺は短く答える。
「そう。ここは二時間前まで、子供たちの笑い声で満ちていた場所……その『意味』が、消えた」
玲奈は深淵を忌々しげに見つめる。俺は無意識に、首から下げたガラスのペンダントに触れた。ひんやりとした感触だけが、俺自身の存在がまだここにあることを証明してくれているようだった。
第二章 ガラスの中の囁き
古びた四輪駆動車が、舗装の剥がれた道を軋ませながら進む。玲奈がハンドルを握り、俺は助手席で窓の外を流れる景色を眺めていた。景色、と言っても、そのほとんどは色褪せ、活気を失っている。
「世界の『意味』が失われ始めている。人々が愛を囁き合った公園、家族が食卓を囲んだ家、友と夢を語り合ったカフェ……そうした場所に込められた人々の想いや行動の積み重ねが、場所の『意味』を形成していた。それが、まるで誰かに奪われるように、次々と」
玲奈の声は、淡々としていたが、その奥に潜む震えを俺は感じ取っていた。
俺は首のペンダントをそっと耳に当てた。空っぽのはずのガラス玉の中から、微かな囁きが聞こえる。
『どうして……?』
『まだ、ここにいたかったのに』
『寒い……誰か……』
消滅した者たちの、意識の断片。彼らの最後の想いが、ペンダントに満ちる『虚無の匂い』を媒体として、俺の鼓膜を揺らす。このペンダントは、最初の『深淵』の淵で発見されたものだ。重さを一切感じさせない、奇妙な物質。これを身につけてから、俺の嗅覚はより鋭敏になり、同時に、俺自身の存在感は日に日に希薄になっていった。鏡に映る自分の顔が、時折、水彩画のように滲んで見えることがある。
囁きに耳を傾けていると、ふと奇妙な感覚に襲われた。この声は、絶望だけではない。困惑だ。まるで、自分がなぜ消えなければならないのか、その理由が全く分からない、というような。
第三章 祈りの残香
次にたどり着いたのは、小高い丘の上に立つ大聖堂の廃墟だった。かつては何百もの人々が祈りを捧げ、その荘厳なステンドグラスは街の象徴だったという。だが今、その中心には、建物そのものを飲み込むほどの巨大な『深淵』が広がっていた。
車を降りた瞬間、俺は息を呑んだ。
これまで嗅いできたものとは質の違う、『虚無の匂い』。絶望や恐怖が凝縮した粘つくような匂いではない。あまりにも純粋で、清らかで、そして絶対的な『無』。まるで、生まれたての宇宙から全ての星々を抜き去ったような、途方もない喪失の香りだった。
俺は深淵の縁に近づき、その匂いを深く吸い込む。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前に、在りし日の大聖堂が蘇る。人々が跪き、手を組み、一心に祈りを捧げている。彼らの身体から、淡い光の粒子が立ち上り、天井のドームへと吸い寄せられていく。それは美しい光景だった。しかし、次の瞬間、俺は戦慄した。光の粒子は、天上のどこかへ届くことなく、ドームの遥か上で待つ巨大な『何か』に、まるで捕食されるかのように、音もなく吸い込まれ、消えていく。人々の祈り、すなわち『意味』が、天上の何者かによって、一方的に奪われていたのだ。
「違う……」俺は呻いた。「絶望が深淵を生んでいるんじゃない。希望も、祈りも、愛も……全ての『意味』が、どこかへ吸い上げられているんだ」
第四章 天上の捕食者
俺の言葉に、玲奈は目を見開いた。彼女は鞄から数枚の羊皮紙の写しを取り出す。
「古文書に、こんな記述があったわ。『神は人の祈りにより形作られ、その意味によって存在を定義される』と。もし、その神自身に何か異常が起きていたら……?」
その時だった。
ペンダントから聞こえる囁きが、不意に一つの巨大な声へと収束していくのを感じた。それは個人の声ではない。もっと古く、巨大で、そして深く傷ついた存在の、嘆きにも似た思念だった。
『我とは、何か』
『愛を説けと乞われ、憎しみを滅せと願われる』
『善であれと祈られ、悪を罰せと求められる』
『矛盾する、全てが。我が意味は、どこにある』
『我を、定義せよ。さもなくば、全てを無に還す』
雷に打たれたような衝撃が、俺の全身を貫いた。
犯人は、人ではない。悪魔でもない。
世界の『意味』を奪い、深淵を出現させていた元凶は、人類が長年信じ、祈りを捧げ続けてきた、『神』そのものだったのだ。
あまりにも多くの、矛盾した意味を与えられ続けた結果、神は自己の存在意義を見失い、その精神は崩壊しかけていた。そして、自らを規定する『意味』そのものを、無意識のうちに世界から吸収し、消滅させていたのだ。
俺が真実にたどり着いた、その瞬間。
ゴゴゴゴ、と地が鳴動した。大聖堂の『深淵』が、天に向かって伸び始めた。黒い光の柱が、空に鎮座する見えざる捕食者へと、最後の供物を捧げるかのように。
第五章 意味の終焉
世界の終焉は、驚くほど静かだった。
天に伸びた深淵を起点に、世界から急速に『意味』が失われていく。街並みは色を失い、風の音は止み、人々の輪郭が水面に落とした絵の具のように滲んでいく。それは破壊ではなかった。ただ、そこに在ったはずの『定義』が失われ、全てが元の混沌へと還っていく、厳かな儀式にも見えた。
隣に立つ玲奈の姿も、徐々に透き通り始めていた。
「朔さん……」
彼女は、恐怖ではなく、安らかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう。真実を……見せてくれて。私たちは、神という名の鏡に、自分たちの矛盾を映し続けていただけなのね……」
その言葉を最後に、玲奈は光の粒子となって、静かに霧散した。彼女がいた場所には、微かな『虚無の匂い』だけが残された。
俺は、最後の匂いを嗅ぐ。
それは玲奈のものではない。この世界そのものが放つ、最後の吐息。
俺の意識は、天上の神と繋がった。無限の祈り。無限の願い。無限の呪い。愛と憎しみ、創造と破壊、慈悲と残酷。それら全てが混ざり合い、一つの巨大な『無意味』の渦となっている。神は、ただ静かに、自己という名の牢獄から解放されることを、ずっと望んでいたのかもしれない。
第六章 虚無の香りだけが
やがて、全てが消えた。
光も、闇も、音も、沈黙も。時間さえも意味を失い、絶対的な『無』が訪れた。
だが、その完全な虚無の中、俺の意識だけが、小さな灯火のように揺蕩っていた。自身の『存在の痕跡』が極限まで希薄になっていたおかげか、あるいは、この結末を見届けるための役割を与えられていたのか。俺は、世界の消滅を生き延びた、唯一の観測者となった。
首には、あのガラスのペンダントが、まだ確かにかかっている。
そして、その空っぽのガラス玉の中から、ふわりと、あの香りが立ち上った。
『虚無の匂い』。
それは、かつて世界があったことの。
人々が生きて、愛し、悩み、そして祈ったことの。
唯一残された、最後の証明。
俺は、その香りを静かに、深く吸い込んだ。
そこには悲しみも喜びもない。ただ、存在したという、あまりにもか細く、しかし永遠に消えない事実だけが、弔いの花のように、この何もない空間に漂い続けていた。
彼は、最後の物語の、最後の読者となったのだ。