第一章 濁色の静寂
水野響(みずの ひびき)の世界は、音に彩られていた。彼の持つ共感覚は、あらゆる音を固有の色と形で彼の網膜に映し出す。鳥のさえずりはレモンイエローの細い線になり、車の走行音は鈍い灰色の帯となって流れていく。彼はその類稀な感覚を活かし、ピアノの調律師として生計を立てていた。完璧に調律されたピアノが奏でる和音は、彼にとって何色もの絵の具が美しく混ざり合うパレットのように見え、その瞬間を彼は何よりも愛していた。
その依頼が舞い込んだのは、秋も深まった肌寒い日のことだった。霧深い山奥に佇む古い洋館にある、一台のグランドピアノの調律。依頼主は電話口の向こうでか細い声で語る老婦人だったが、決して姿を見せようとはせず、報酬は望むだけ支払うとだけ告げた。どこか不気味な依頼だったが、最高の仕事を求める響の職人魂が、その挑戦を受け入れさせた。
苔むした石門をくぐり、蔦の絡まる洋館の重い扉を開けた瞬間、響は息を呑んだ。そこは、完全な静寂に支配されているはずの空間だった。しかし、彼の視界の隅で、何かが蠢いている。それは、色だった。
泥をかき混ぜ、腐った木の葉を溶かし込んだような、淀んだ茶褐色。響がこれまで三十年の人生で一度も見たことのない、不快で、生命力をじわりと吸い取られるような、名状しがたい「色」。それは音もなく、形もなく、ただ空間に染みのように滲んでいた。それは静寂そのものが腐敗して生まれた、悪意の色のように思えた。
「ピアノは……奥の音楽室に」
背後からかけられた声に、響は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、腰の曲がった老いた管理人が、感情の読めない瞳で彼を見つめていた。彼の声は、乾いた砂のようなベージュ色をしていた。
案内された音楽室は、高い天井からシャンデリアが下がり、床には分厚い絨毯が敷き詰められた壮麗な部屋だった。しかし、部屋全体が、あの濁った茶褐色の靄に薄く覆われている。そして、その色の発生源は、部屋の中央に鎮座する黒檀のグランドピアノだった。
響は恐る恐るピアノに近づいた。鍵盤の蓋にそっと指を触れる。その瞬間、ぞわりと背筋を冷たいものが駆け上がった。ピアノが、鳴っている。音ではない。無音の絶叫が、濁流のような茶褐色の濁色となって、彼の脳に直接流れ込んでくる。それは、魂がすり潰されるような、おぞましい感覚だった。このピアノは、何十年もの間、誰にも聴こえない悲鳴を上げ続けているのだ。響は、これから自分が向き合わねばならないものの深淵を垣間見て、乾いた喉を鳴らした。
第二章 軋む旋律
調律作業は困難を極めた。一本の弦を締め、ハンマーで鍵盤を叩くたびに、ピアノから溢れ出す濁色は濃度を増した。まるで、傷口に塩を塗り込む行為に、ピアノが苦痛の叫びを上げているかのようだった。澄んだ音色に対応するはずの鮮やかな色彩は、生まれるそばから濁った茶褐色に飲み込まれ、すぐにその輪郭を失ってしまう。
夜になると、洋館はその本性を現した。誰もいないはずの二階の廊下を、何かが引き摺るような音が響く。響にはそれが、粘りつくような暗紫色の軌跡として見えた。勝手に開閉するドアの蝶番は、錆びた鉄のような赤黒い悲鳴を上げた。彼は工具を握りしめ、自らの恐怖心と戦った。この仕事から逃げ出すことは、プロとして許されない。それ以上に、このピアノが発する「声」を、このまま放置しておくことはできないという奇妙な使命感が、彼の足をこの場所に縫い付けていた。
彼は、この洋館の過去を知る必要があると感じた。昼間、庭の手入れをしていたあの無口な管理人に、彼は思い切って声をかけた。管理人は最初、面倒臭そうに顔を顰めたが、響の真剣な眼差しに何かを感じたのか、ぽつりぽつりと語り始めた。
「この屋敷には、昔……静香(しずか)様というお嬢様がおられました」
静香は、ピアノを心から愛する少女だったという。彼女の弾くピアノは、聴く者の心を震わせる、陽だまりのような音色だった、と管理人は遠い目をして語った。しかし、彼女は重い病を患い、その声を失った。言葉を奪われた彼女は、唯一の表現手段であるピアノに全てを注ぎ込んだが、病は彼女の身体を蝕み続け、十代の若さでその短い生涯を閉じたのだという。
「声を失ってからというもの、お嬢様のピアノの音は、どこか……苦しげでございました。まるで、言葉にならない何かを、叫んでおられるかのように……」
その言葉を聞いた瞬間、響の脳裏に、あの濁った茶褐色の絶叫がフラッシュバックした。彼は確信した。この洋館を、ピアノを、そして彼の視界を蝕むこの怪異の正体は、声を失った少女、静香の無念の魂なのだと。彼女の怨念が、この場所に染みついているのだ。恐怖と共に、響はやり場のない怒りのような感情を覚えた。これほどの苦しみを撒き散らすとは、どれほど強い憎しみを抱いて死んでいったのだろうか。
第三章 声なき者のソナタ
調律が最終段階に差し掛かった三日目の夜、嵐が洋館を襲った。窓ガラスを叩きつける激しい雨音は、彼の視界を無数の青い針に変え、轟く雷鳴は空を巨大な白い亀裂で引き裂いた。その狂騒の中、音楽室のピアノが、ひとりでに鳴り始めた。
ガンッ、グシャアァン、ギィィィィッ!
それは音楽ではなかった。全ての鍵盤を一度に叩きつけたような、耳を劈く不協和音。響の視界は、瞬く間にあの濁流のような茶褐色で塗り潰された。息ができない。色が、視覚が、彼の精神を圧殺しようと襲いかかってくる。恐怖のあまり床にうずくまった彼の目に、ピアノの脚の付け根、床板との僅かな隙間に挟まっているものが見えた。革の表紙が覗いている。
彼は這うようにしてそれに近づき、震える手で引き抜いた。それは、古ぼけた小さな日記帳だった。乱れた、しかし懸命に綴られた少女の文字が並んでいる。静香の日記だった。
『声が出ない。私の喉は、ただ息をするだけの管になってしまった。言いたいことがたくさんあるのに、伝えたい想いがこんなに溢れているのに、誰にも届かない』
ページをめくるごとに、彼女の絶望がインクの染みとなって響の心に突き刺さる。友達の楽しそうな話し声は、彼女には残酷なナイフだったこと。自分の名前を呼んでくれる両親に、ありがとうと返せない苦しみ。
『私の声は、どこへ行ってしまったの? もしかしたら最初から、私の声なんて醜くて、神様が取り上げてしまったのかもしれない。私の声は、きっと汚い音だったんだ』
そして、最後の日付のページ。死を目前にした彼女の、最後の言葉が記されていた。
『もうピアノも弾けない。指が動かない。私の最後の声も、誰にも聴いてもらえなかった。……こんなに苦しいのなら、私の声なんて、誰にも届かない、世界で一番醜い、濁った音になってしまえばいい。そうすれば、誰も私の声を聴きたいなんて思わなくなるでしょう』
響は、雷に打たれたような衝撃を受けた。彼は、根本的な間違いを犯していたことに気づいた。
彼が見ていたあの「濁色の音」。それは、怨念や憎悪ではなかった。悪意でも、呪いでもない。これは、声を失い、誰にも想いを伝えられず、自分の声すら信じられなくなった少女の、行き場のない「悲しみ」そのものだったのだ。純粋で、あまりにも深い悲しみが、長い孤独の歳月の中で澱み、腐り、濁ってしまった色。それは攻撃ではなく、救いを求める「悲鳴」の色だった。
響は、ただ一方的にそれを恐怖の対象として見ていた自分を恥じた。彼は立ち上がり、濁色の嵐が吹き荒れるピアノを、まっすぐに見つめた。
第四章 解放の和音
「聴かせてくれ、君の本当の声を」
響は、ピアノの前に静かに座った。彼の呟きは、誰に聞かせるでもない、彼自身の決意表明だった。彼はもう、この色を恐れない。彼は、この声なき声と向き合うことを決めたのだ。
彼はまず、最後の調律を完成させた。一本一本の弦に、静香の悲しみに寄り添うように、祈りを込めて。そして、全ての音が完璧な調和を取り戻したことを確認すると、彼はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
彼が奏で始めたのは、激しい曲ではなかった。静かで、訥々としていて、しかし、芯のある温かさを持ったメロディ。それは、静香の日記から彼が感じ取った、彼女の心の奥底に眠っていたはずの想い。ピアノを愛した喜び、家族への感謝、友達と笑い合った日の記憶。悲しみの濁流の下に隠されていた、澄んだ泉のような感情を、彼は音にして紡いでいった。
すると、奇跡が起こった。
彼の視界を埋め尽くしていた濁った茶褐色が、少しずつ、その色合いを変え始めたのだ。泥水がゆっくりと沈殿し、中から清水が湧き上がるように。濁りの中心から、柔らかな陽だまりのような橙色が滲み出し、澄み切った秋の空のような青が広がり、若葉が芽吹くような優しい緑が彩りを添えていく。
それは、悲しみの中に埋もれていただけの、静香の本当の心の色だった。響の奏でる旋律が、彼女の凍てついた心を解きほぐし、本来の色彩を取り戻させているのだ。
演奏がクライマックスに達した時、ピアノの周りを舞っていた色とりどりの光は、一つの大きな、温かい光の球になった。そして、響が最後の和音をそっと奏でると、その光はまるで満足したかのように穏やかに弾け、無数の光の粒子となってシャンデリアの輝きの中に溶け込むように消えていった。
後には、完璧に調律されたピアノと、夜明け前の静寂だけが残されていた。あの不快な濁色は、もうどこにも見当たらない。ピアノは、安らかな溜息をつくように、ただ静かにそこに佇んでいた。
洋館を後にした響の世界は、一変していた。今まで不快なノイズとして彼の感覚を苛んでいた街の雑踏の「色」が、今は違って見えた。苛立ちの赤、喜びの黄色、憂鬱の青。それらは全て、そこに生きる人々の感情の色であり、一つ一つが尊い物語を奏でているように感じられた。彼は、自分のこの共感覚が、呪いではなく、誰かの「声なき声」を聴くための祝福なのかもしれないと、初めて思うことができた。
数日後、彼の仕事場に電話が鳴った。新しい調律の依頼だった。電話の向こうから聞こえる快活な女性の声は、彼の目には、春の訪れを告げる優しい若草色に見えた。響は、口元に穏やかな笑みを浮かべ、受話器に向かって答えた。
「はい、水野です。どんな音でも、聴かせてください」
彼の世界は、これからも音と色で満ち溢れていくだろう。だがもう、そこに孤独の色はなかった。