深淵の微笑

深淵の微笑

2 5372 文字 読了目安: 約11分
文字サイズ:

第一章 完璧な湖畔の日常

湖畔に立つガラス張りのモダンな家は、橘楓にとって、長い悪夢の果てに掴み取った楽園だった。広大なリビングからは、朝焼けに染まる湖面が絵画のように広がり、日中はきらめく水面が部屋中に光の粒子を散りばめる。彼女の人生は、ここで再生されたのだ。過去の悲劇――家族を一度に失ったあの忌まわしい記憶は、悠真という光によって、ようやく薄れていった。

悠真は完璧なパートナーだった。温厚で、知的で、何よりも楓を心から愛してくれた。彼の淹れるコーヒーはいつも適温で、香りは彼女の心を深く落ち着かせた。朝食は彩り豊かで、会話は途切れることなく、しかし決して煩わしくなかった。最新のスマートホームは彼女のあらゆる望みを先回りして叶え、完璧な空調、完璧なBGM、完璧なセキュリティが、彼女の日常を寸分の隙もなく包み込んでいた。

「楓、今日も美しいね」悠真は、湖を眺める楓の背後からそっと抱きしめ、首筋にキスを落とした。その声はいつも穏やかで、蜂蜜のように甘い。楓は彼の腕の中で、満ち足りた幸福を感じた。こんなにも満たされた人生が、自分に訪れるなんて。奇跡としか思えなかった。

しかし、時折、その完璧すぎる世界に、わずかな亀裂が入ることがあった。

朝、いつものように鏡台に向かい、ブラシで髪を梳かす。鏡に映る自分の顔は、幸福に満ちた笑顔を浮かべているはずなのに、なぜか、その笑顔の奥に、凍り付いたような無表情が隠されているように感じることがあった。錯覚だろうか。悠真にそのことを話すと、彼は優しい手で楓の頬を包み、「大丈夫だよ、楓。君はもう何も恐れることはない。過去は過去だ。僕はいつも君のそばにいる」と囁いた。彼の瞳はどこまでも深く、心配する楓の心を溶かすようだった。

ある日の午後、スマートホームのシステムがわずかに誤作動を起こした。いつも完璧なBGMが、一瞬、ノイズを立てて途切れた。その刹那、耳に届いたのは、微かな、しかし鮮明な「声」だった。囁きのような、嘆きのような、まるで遠い過去から届いたこだまのような声。しかし、すぐにBGMは再開し、声はかき消された。楓は首を傾げたが、悠真は庭で熱心に花の手入れをしており、何も気づいた様子はなかった。

その夜、楓は寝室の本棚の奥で、古い手帳を見つけた。埃を被ったその手帳は、まるで何年も前にそこに忘れ去られたかのようだった。表紙には、見慣れない走り書きの文字で「楓」と記されている。開いてみると、それは日記だった。しかし、そこに綴られていたのは、今の楓が送っている完璧な生活とはかけ離れた、不安と喪失に満ちた過去の断片だった。

「今日で、もう三週間。あの悪夢から、私は一体何を守ろうとしているのだろう」

「悠真さんはいつも笑顔で、私の記憶の曖昧さを優しく受け止めてくれる。でも、時々、その優しさが、私を深く沈める冷たい水のように感じる」

「この湖畔の家は、完璧すぎる。まるで、私を外の世界から隔絶するための、美しい檻のようだ」

楓は混乱した。これは、一体誰の日記なのだろう。自分の名前が書かれているのに、内容は全く心当たりがない。何よりも、そこに書かれている「悠真さん」への疑念、そして「この家が檻のようだ」という記述は、今の彼女の幸福な現実とあまりにもかけ離れていた。背筋に、冷たい汗が流れ落ちた。

第二章 記憶の欠落と疑念の増幅

日記の存在は、楓の心に小さな、しかし不穏な波紋を広げた。その夜から、彼女は悠真の完璧な笑顔の裏に、別の感情が隠されているのではないかと疑うようになった。彼はいつも彼女の好むタイミングで飲み物を用意し、疲れていると思えばマッサージをしてくれた。しかし、その行為の一つ一つが、まるでプログラムされたかのように正確で、感情の揺らぎが見られない。あまりにも完璧すぎるのだ。

楓は日記を隠し、悠真の目を盗んで読み進めた。そこには、さらに恐ろしい記述があった。

「私は、大切なものを失った。私の手で、全てを。私は罰せられるべきだ。この幸福は、偽物だ。」

「時折、脳裏に白い光と、タイヤの軋む音、そして、家族の叫び声がフラッシュバックする。その度に、悠真さんが現れて、私を強く抱きしめてくれる。何もなかったように、全てを消してくれる。私は、それが正しいことだと信じようとしている。」

楓は日記に書かれた「白い光」「タイヤの軋む音」「家族の叫び声」という言葉に、漠然とした恐怖を覚えた。それは、自身の記憶の奥底に封じ込められた、開けてはならないパンドラの箱のようだった。彼女自身の過去の記憶には、確かに「家族を失った悲劇」という空白があった。その空白を悠真はいつも「トラウマによる記憶の欠損だ」と説明し、それ以上詮索することをやんわりと制止してきた。しかし、日記の記述は、その空白の記憶に、新たな意味を与えようとしているようだった。

ある日、バスルームで歯磨きをしていると、鏡に映る自分の背後に、微かに人影が映り込んだ気がした。ハッとして振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、真っ白なタイルの床に、かすかな赤みがかった汚れが残っているように見えた。慌てて拭き取ろうとしたが、指で触れると、それは一瞬で消え失せた。幻覚?それとも、拭き取られたばかりの血痕だったのだろうか?

悠真は楓の異変に気づいていた。彼はさらに献身的に楓に寄り添い、彼女の不安を払拭しようとした。夜中に目を覚ますと、悠真はいつも隣で穏やかに眠っているか、あるいはキッチンで彼女のために温かいミルクを用意していた。彼の完璧な配慮は、楓の心を安らがせる一方で、何かがおかしいという違和感を増幅させた。まるで、自分が常に監視されているかのような、居心地の悪さ。

楓は、この完璧な家が、まるで自身を閉じ込めるための巨大な装置のように思えてきた。外に出ようとしても、悠真は常に「今日の天気は良くないよ」「少し体調が悪そうだね」と優しい言葉で制止した。もちろん、その言葉に悪意は感じられない。ただ、あまりにも合理的で、常に彼女の「安全」と「幸福」を優先しているようだった。

しかし、楓は、もはやこの「幸福」を疑わずにはいられなかった。彼女は、この完璧な牢獄の真実を探る決意を固めた。日記の最後に書かれていた、一枚の紙切れ。そこに記されていたのは、どこかのウェブサイトのアドレスのような、不可解な文字列だった。

第三章 幸福の深淵

楓は、悠真が庭の手入れに出かけた隙に、日記の最後に記されていた文字列を、隠し持っていた古いスマートフォンに入力した。その文字列は、この家では使われていない、かつての彼女が使っていた古いデバイスにだけ反応した。画面に表示されたのは、見慣れない医療機関のウェブサイトだった。そして、そこには彼女自身の名前が、患者として記されていた。

驚きと恐怖に震えながら、楓はページをスクロールした。そこには、「橘楓、重度の解離性障害とPTSD、および記憶障害を併発。現実逃避と自己防衛のための妄想構築が見られる」という診断記録が記載されていた。さらに読み進めると、そこに「治療担当医:神崎悠真」という名前があった。

息が詰まった。悠真は、恋人ではなかった。医師だった。そして、この「完璧な幸福」は、彼女が作り出した、あるいは悠真が治療の一環として構築した、巨大な虚構だったのだ。

手帳は日記ではなく、彼女が治療中に綴っていたセラピー記録だった。あの「白い光」「タイヤの軋む音」「家族の叫び声」は、彼女が運転していた車が起こした、家族全員が犠牲になった事故の記憶だった。彼女は、自らの手で、最も大切なものを奪ってしまったのだ。その罪悪感と悲しみに耐えきれず、現実から目を背け、理想のパートナーと完璧な生活を妄想し、その中で安息を得ようとしていた。

この湖畔の家は、病院の敷地内に建てられた、特別に設計された「治療用環境」だった。最新のスマートホームシステムは、彼女の精神状態をモニタリングし、安定を保つためのものであり、悠真の完璧な配慮は、全て治療プログラムの一環だった。彼女が見た、鏡に映る無表情、バスルームの血痕らしきもの、遠い声――それは、抑圧された現実が、虚構の壁を破って現れようとする兆候だったのだ。

背後から、ドアが開く音がした。振り返ると、悠真が立っていた。彼の顔はいつものように穏やかで、微笑みを浮かべている。しかし、その瞳の奥には、これまで楓が見てきた「愛」とは異なる、冷静で分析的な光が宿っていた。

「楓。どうして、それを開けたんだい?」彼の声は、蜂蜜のように甘いままだったが、その響きは、もはや楓の心に安らぎを与えなかった。それは、完璧な秩序を乱されたことへの、静かな非難のように聞こえた。

「悠真……あなたは、誰なの?」楓は震える声で尋ねた。

「私は神崎悠真。君の担当医だよ、楓。君の治療のために、私はここにいる。君が過去のトラウマから完全に解放され、現実を受け入れる準備ができるまで、この場所で、君を守り、導くのが私の役目だ」悠真は一歩、また一歩と楓に近づいてくる。彼の言葉は優しいが、その存在は、かつてないほどの恐怖を楓の心に植え付けた。

これまでの幸福な日々は、全て作り物だった。自分自身が作り出した幻想と、それを維持しようとする医師の綿密な計画。最も恐ろしいのは、彼女がその完璧な幸福の裏に隠されていた真実を、無意識のうちに求めていたということだ。湖畔の美しい家は、実は彼女の精神を閉じ込める、もっとも巧妙で、もっとも残忍な「檻」だったのだ。そして、その檻の看守は、かつて彼女が最も愛した「悠真」だった。

「治療」という名の下に、彼女の現実感覚は剥奪され、幸福という甘美な毒で支配されていた。その完璧な「深淵の微笑」が、今、楓の全てを飲み込もうとしていた。

第四章 現実への跳躍

悠真は楓の前に立ち、優しく彼女の手を取ろうとした。「楓、君はまだ心の準備ができていない。現実の苦痛に直面するよりも、この穏やかな日々の中で少しずつ回復していくべきなんだ」

しかし、楓は彼の手を振り払った。真実を知ってしまった今、その言葉はもはや優しさではなく、再び虚構の牢獄に引き戻そうとする誘惑にしか聞こえなかった。彼女の胸には、恐怖と絶望、そして裏切られた怒りが渦巻いていた。同時に、底知れない悲しみがこみ上げてきた。愛する家族を失った過去の記憶が、鮮明な映像となって脳裏に焼き付く。白い光、タイヤの軋む音、そして、家族の断末魔の叫び。全て、自分の過ちだった。

「違う……私はもう、目を背けない」楓は震える声で言った。「苦しくても、それが現実だ。偽りの幸福の中で、私はもう生きられない」

悠真は悲しげに、しかし諦めたように首を振った。「君がそう望むのなら……だが、真実を受け入れることは、想像を絶する苦痛を伴うだろう。君は、それに耐えられるのか?」

楓は窓の外を見た。湖畔の美しさは変わらない。しかし、その向こうに、これまで見えなかった、高い塀と、それらしき建物の屋根がわずかに見えた。ここが、病院の敷地内であるという証拠だった。

完璧な静寂だったこの家に、今は微かな生活音が聞こえるような気がした。遠くでサイレンの音がする。鳥のさえずりも、BGMの完璧なそれとは違い、どこか不揃いだ。

楓は深呼吸をした。恐怖はまだ消えない。過去の罪悪感は、彼女の心を深くえぐり続けるだろう。しかし、それでも、虚構の幸福の中で、自分自身を欺き続けることは、もうできない。

「ええ。耐えてみせる」楓は、これまでで一番はっきりと、自分の言葉を発した。彼女の顔には、かつて鏡に映ったような「無表情」ではなく、苦痛と決意が混じり合った、しかし紛れもない「生きた」表情が浮かんでいた。

悠真は、しばらく沈黙した後、ポケットから小さな鍵を取り出した。「ドアは開いている。いつでも、出て行けるよ」

楓は悠真に背を向け、ゆっくりと家の玄関に向かった。ガラス張りのドアの向こうには、太陽の光が容赦なく降り注いでいる。その光は、温かいと同時に、現実の厳しさを物語っているようだった。

ドアを開けると、湖畔の涼やかな風が彼女の頬を撫でた。そして、耳に届いたのは、これまで遮断されていた、外界の音だった。車の走行音、子供たちの遊び声、そして、遠くで響く、救急車のサイレン。それらはすべて、かつての彼女が忌み嫌い、逃げ出してきた「現実」の音だった。

楓は一歩、また一歩と、外の世界へと踏み出した。振り返ることはしなかった。完璧な幸福は、時に最も恐ろしい牢獄となり得る。しかし、苦痛を伴う現実の中にも、真の解放と成長があることを、彼女は知った。

湖畔の家は、相変わらず完璧な佇まいを見せていた。そのガラスの壁に、楓自身の姿が映り込む。かつてのような無表情ではない。苦痛と、そして、かすかな希望を宿した、彼女自身の顔がそこにあった。彼女は、この日から、自らの足で、現実という名の荒野を歩き始めるのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る