記憶の重みと空白の街
第一章 触覚の図書館
僕の指先は、時々嘘をつく。
いや、嘘ではない。世界が隠している真実を、あまりにも正直に伝えてしまうのだ。たとえば、この街の図書館の古びた樫の扉。そこにそっと指を触れると、ずっしりとした、底知れない重みが伝わってくる。それは単なる木の質量ではない。この扉が開館以来、何万、何十万という人々の手によって押され、引かれ、その記憶を無数に吸い込んできた『認識の重み』だ。
僕、日向(ひなた)には、そんな奇妙な能力があった。触れた人間や物体が、どれだけ他者に認識され、記憶されているか。その総量を、物理的な『重み』として感じ取ることができる。新しくオープンしたばかりのカフェのドアは羽のように軽く、道端に咲く名もなき花は、その存在に気づく者がいないせいか、触れても何も感じない。まるで透明な空気に触れているような、空虚な触覚だ。
この能力は、僕を孤独にした。人々が笑顔で語り合う「思い出の場所」が、僕にとってはひどく希薄で軽いものに感じられたり、逆に誰も気に留めないような路傍の石が、長い年月をかけて蓄積した無数の視線によって、鉛のように重く感じられたりする。世界は、僕にだけ違う質感で見えていた。
自室の机の上には、一冊の古い革製の日記がある。祖父の遺品らしいが、誰が書いたものかは分からない。表紙に触れると、鉄塊のような強烈な重みを感じるのに、ページを開くと中は真っ白だ。インクの染みひとつない。だが、その白いページを指でなぞると、奇妙なことが起こる。指先に、氷のように冷たい残像が一瞬だけ宿るのだ。知らない誰かの泣き顔、囁くような言葉、優しい眼差し。それらは指先で儚く像を結び、すぐに霧散してしまう。まるで、忘れ去られた記憶の断片が、最後の叫びを上げているかのように。
第二章 侵食する無
その異変は、静かに、だが確実に街を蝕んでいた。
「なあ、咲(さき)。駅前の角にあったパン屋、覚えてるか?」
ある日の放課後、僕は幼馴染の咲に尋ねた。彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
「パン屋? あそこは昔から空き地だよ。変なこと言うんだね、日向は」
その言葉に、背筋が凍る。つい一週間前まで、僕はそこで焼きたてのパンを買ったはずだ。優しいおばあさんがいつも微笑んでくれた、あの店。しかし今、そこにあるのは、まるで最初から何もなかったかのような、不自然なほど綺麗な更地だけだった。
僕は恐る恐るその『空白』に足を踏み入れ、地面に手を触れた。
指先に、何も感じない。
石ころの硬さも、土の湿り気も、草の感触もない。ただ、空虚な『無』がそこにあるだけ。それは、誰からも完全に忘れ去られた存在が放つ、透明な触覚だった。だが、その空白の中心の、さらに奥深くから、何かを感じる。これまで触れてきたどんなものとも違う、無数の存在が凝縮されたような、巨大な質量の気配。それはまだ微かで、遠い場所にあるようだった。
「また、その変な癖?」
咲が呆れたように笑う。彼女の手に触れると、いつも通りの温かく、しっかりとした『重み』が伝わってくる。彼女は確かにここに存在し、多くの人から認識されている。その事実だけが、僕をこの世界の側に繋ぎとめていた。
だが、空白は増えていく。小さな公園が、古い橋が、一本の並木道が、まるで хирургически切り取られたかのように、人々の記憶からも、地図からも消えていった。
第三章 白紙の道標
街から色が失われていくようだった。空白が増えるたびに、世界の『重み』が少しずつ軽くなっていく気がした。人々は何も気づかない。消えたものの存在を語る者は僕以外におらず、僕の言葉はただの妄想として流されていく。このままでは、僕自身も、この街も、希薄な存在になって消えてしまうのではないか。焦燥感が胸を焼いた。
その夜、僕は再びあの革製の日記を手に取った。藁にもすがる思いで、真っ白なページをなぞる。
すると、いつもよりずっと鮮明な残像が、指先から脳へと流れ込んできた。
消えたパン屋の主人の笑顔。
なくなった公園で遊ぶ子供たちの歓声。
取り壊された橋の上で愛を誓う恋人たち。
忘れ去られた無数の記憶が、奔流となって僕を襲う。そして、それらのイメージの断片が、奇妙なことに、すべて同じ方角を指し示していることに気づいた。街の中心。かつて、誰もが時間を確かめた、古い時計塔があった場所だ。
日記は、忘れられた者たちの記憶の集合体なのかもしれない。そして彼らは、僕をどこかへ導こうとしている。指先に残る冷たい残像は、もはやただの幻ではなかった。それは、失われた者たちからの、必死の道標だった。
第四章 忘れられたものの墓標
日記が指し示す場所、街の中心地は、巨大な『空白』に飲み込まれていた。古い時計塔の荘厳な姿も、それを取り囲んでいた広場の賑わいも、すべてが綺麗さっぱりと消え失せ、ただ不気味なほどの静寂と『無』が広がっているだけだ。
僕は息を呑み、意を決してその空白の中心へと足を踏み入れた。一歩、また一歩と進むにつれて、空気がねじれるような圧迫感を覚える。そして、中心に近づくほど、あの微かに感じていた巨大な『重み』が、物理的な圧力となって全身にのしかかってきた。まるで深海に沈んでいくようだ。それは、一つの物体の重みではない。この街から消えていった建物、道、そして人々の、数えきれないほどの忘れられた記憶が凝縮された、巨大な墓標の重みだった。
「う…っ!」
膝が折れそうになる。呼吸が苦しい。それでも僕は、この現象の核心を知るために、歯を食いしばって前へ進んだ。
そして、ついにその中心に辿り着いた。
そこには、何もなかった。いや、違う。空間そのものが、僅かに揺らいでいた。まるで水面のように。そして、その揺らぎの中心から、途方もない重力が僕を引いていた。
第五章 ゲートと観測者
僕が揺らぎの中心に手を伸ばした瞬間、世界が反転した。
目の前に広がったのは、色も形も音も失った、灰色の世界。忘れられた存在たちが、輪郭の曖昧な影となって、静かに漂っている。ここは、忘れられた者たちの終着駅、『忘れられた世界』。そして、僕が立っている場所は、現実世界とその世界を繋ぐ、巨大なゲートの前だった。
『ようこそ、観測者』
声が聞こえた。それは誰かの声ではなく、世界そのものが僕の意識に直接語りかけてくるような、荘厳で冷徹な響きだった。
『この世界は、記憶でできている。だが、記憶は増えすぎれば飽和し、存在そのものを崩壊させる。故に、世界は自らを保つため、過剰な情報を定期的に廃棄する。それが、お前の言う『消失』だ』
僕の能力は、このためにあったのか。
『その通り。お前は、記憶の重みを測る天秤。何が忘れられ、何をこの世界に残すかを無意識に選別するための『観測者』として、世界に選ばれた。お前が重みを感じることで、存在は繋ぎとめられ、お前が忘れ去ったものは、このゲートへと送られる』
愕然とした。僕がただ感じていただけの『重み』が、世界の取捨選択を担っていたというのか。僕が気に留めなかったせいで、あのパン屋は、公園は、人々は消えてしまったというのか。
第六章 最後の重み
絶望が全身を貫いた。僕は殺人者と同じではないか。無自覚な、世界の死刑執行人。
その時、僕の脳裏に、鮮明なイメージが浮かんだ。
咲の笑顔だ。
「咲は…咲はどうなるんだ!」
僕は叫んだ。ゲートの向こうの灰色が、一瞬だけ揺らめく。
『彼女もまた、世界の大きな流れの中で、その重みを失いつつある。いずれは忘れられ、ここへ来るだろう。それが摂理だ』
世界の冷たい宣告に、全身の血が凍る。嫌だ。それだけは、絶対に。
僕が咲の手に触れた時、いつも感じていたあの確かな重み。それが、僕の世界そのものだった。彼女が消えるくらいなら。
『…観測者よ。摂理に抗う道が一つだけある』
世界の意思が、僕の決意を読み取ったかのように囁いた。
『お前が、このゲートそのものとなるのだ。忘れられた全ての記憶の重みをその身に引き受け、永久にこの場所で世界を観測し続ける番人となる。そうすれば、世界の記憶は安定し、これ以上の大規模な消失は起こらない。だが、お前は現実世界から完全に消え、誰からも忘れ去られる』
それは、永遠の孤独を意味していた。だが、僕の心は、不思議なほど静かだった。
第七章 空白の街の番人
僕は、現実世界へと意識を戻した。目の前には、僕を心配そうに見つめる咲がいた。しかし、彼女の瞳には、僕が映っていない。彼女の「重み」が、砂のように指の間からこぼれ落ちていくのを感じる。もう、時間がない。
「さき」
僕の声は、彼女には届かない。彼女の記憶から、僕はもう消え始めている。
「ありがとう」
僕は微笑み、彼女の輪郭が完全に消える前に、再びゲートへと意識を向けた。
「僕が、その重みを引き受ける」
その言葉と同時に、忘れられた世界から、無限とも思える記憶の奔流が僕の身体に流れ込んできた。痛みはなかった。ただ、僕という個の存在が、無数の忘れられた者たちの記憶と溶け合い、希釈されていく感覚だけがあった。僕の身体は光の粒子となり、ゲートと同化していく。
最後に僕の意識に映ったのは、僕のことを忘れ、友人たちと楽しそうに笑いながら歩いていく、咲の姿だった。それでいい。それが、僕の望んだ世界だ。
街から、『空白』は消えた。消失現象はぴたりと止み、人々はまるで何もなかったかのように日常を送っている。日向という少年がいたことなど、誰も覚えていない。
ただ、街の図書館の片隅に、誰にも読まれることなく、真っ白なページを晒す古い革製の日記だけが、静かに置かれていた。それは、世界を守るために忘れられた、孤独な番人の、唯一の墓標だった。