虹の亡骸と光の蒐集家
第一章 鎖のない街角
僕、響(ヒビキ)の目には、世界が少しだけ違って見えていた。人々が誰かと心を繋ぐとき、その間には淡い虹色の鎖が架かる。笑い声が弾ければ鎖は鮮やかさを増し、すれ違いが起これば鈍い色に澱む。そして僕にはもう一つ、奇妙な体質があった。他者の強い感情が、物理的な「光の塵(ひかりのちり)」となって体に降り積もるのだ。喜びは金の粒子、悲しみは蒼い雫、怒りは赫い火花。塵に触れるたび、その感情が奔流のように僕の心を洗い、そして少しずつ僕自身の感情を削り取っていく。
その日、僕はいつものカフェで親友の澪(ミオ)を待っていた。僕たちの間には、かつて黄金の光を編み込んだ、世界で最も強く美しい虹色の鎖が繋がっているはずだった。だが、ガラス扉を押して入ってきた彼女と僕の間には、もう何もなかった。
空虚。ただ、がらんどうの空間が広がっているだけ。
「ヒビキ、待った?」
澪は柔らかく微笑む。その笑顔に、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。彼女の心から生まれたであろう温かな喜びが、金色の光の塵となって僕の肩に降り注ぐ。鎖もないのに、感情だけが一方的に流れ込んでくる。その矛盾が、冷たい鉄の杭のように僕の喉元に突き刺さった。
「ううん、今来たとこ。……そういえば、先週貸した本、どうだった?」
僕が投げかけたのは、二人で何度も語り合った、お気に入りの小説家の最新作だった。
澪は小首を傾げ、困ったように眉を寄せた。
「本? 私、ヒビキから何か借りてたっけ……ごめん、覚えてないや」
その瞬間、僕たちの共有した記憶の一部が、音もなく崩れ落ちていくのを感じた。
第二章 塵が囁く未来
街は静かに病み始めていた。ニュースキャスターが神妙な面持ちで語る。「虹色蒸発現象」と呼ばれる不可解な事態が、世界中で頻発している、と。長年の友人たちが互いを忘れ、パートナーだった者たちが他人行儀にすれ違う。社会は、友情という名の潤滑油を失い、軋みを上げていた。
僕は自室にこもり、溜め込んだ光の塵をアンティークの硝子瓶に移す作業に没頭していた。体から塵を離す、唯一の対抗策。瓶の中では、無数の感情が渦を巻き、小さな銀河のように明滅している。特に、澪から流れ込んだ金色の塵は、ひときわ強い光を放っていた。鎖を失ったはずの彼女が、なぜこれほど強い感情を僕に向けるのか。
その謎を解きたくて、僕は澪に会うたびに彼女の感情を浴び続け、硝子瓶に溜め込んでいった。やがて瓶が限界に近い光で満たされたとき、異変が起きた。瓶の内側で光の渦が像を結び始めたのだ。
砕け散る無数の虹色の鎖。その残骸から舞い上がる、星屑のような光の塵。
そして、その光景を静かに見つめる一人の男。フードを目深に被り、顔は見えない。だが、その立ち姿、塵を掬い上げる仕草が、鏡に映した自分自身を見ているかのように酷似していた。心臓が凍てつくような冷たい音を立てた。
第三章 砕けた感情の器
僕は焦っていた。失われた澪との絆を取り戻すために、世界から友情が消えゆく謎を解くために、僕は街を彷徨い、より多くの光の塵を求め始めた。喧嘩する恋人たちの怒り、再会を喜ぶ親子、夢破れた若者の悲嘆。他人の感情を浴びるたびに、僕自身の心は薄氷のように脆くなり、喜怒哀楽の輪郭が曖昧になっていくのを感じた。それでも、足を止めることはできなかった。
広場で、二人の女性が激しく言い争っていた。彼女たちの間の鎖が、見る間に色褪せ、細い糸のようにか弱くなっていく。
「もう、あんたの顔なんて見たくない!」
甲高い声と共に、鎖に亀裂が走った。パリン、と硝子が割れるような悲しい音が響き、友情の鎖は粉々に砕け散った。夥しい量の蒼い光の塵が、慟哭のように舞い上がる。
僕は咄嗟に硝子瓶を掲げた。塵が渦を巻いて瓶に吸い込まれていく。だが、その悲しみは僕の想像を絶するほどに濃密で、重かった。
ピシッ、と硝子瓶に亀裂が走る。
まずい、と思った瞬間、瓶は甲高い音を立てて砕け散った。凝縮されていた感情の奔流が爆発し、僕の周囲にいた人々の表情が一変する。突然泣き出す者、怒鳴り散らす者、虚ろに笑い出す者。感情の嵐が、小さな広場を混沌の坩堝へと変えた。僕が生み出してしまったパニックの中心で、僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。
第四章 追憶の残滓
割れた硝子瓶の最大の破片を、僕は震える手で拾い上げた。その断面を覗き込むと、これまで以上に鮮明なビジョンが網膜に焼き付いた。
それは、澪との鎖が消えた、あの日の光景だった。
夕暮れの公園。僕と澪がいつものように笑い合っている。そこに、音もなく現れた人影。フードを被った、あの男だ。男が澪の肩にそっと触れると、僕たちの間に繋がっていた壮麗な虹色の鎖が、まるで陽炎のように揺らめき、霧となって消え去った。
――やめろ。
声にならない叫びが喉の奥で凍りつく。
ビジョンの中の男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。フードがはらりと落ち、その素顔が露わになる。
僕と、同じ顔。
だが、その瞳には何の光も宿っていなかった。感情というものが根こそぎ抜け落ちた、ガラス玉のような双眸。彼は砕けた鎖から生まれた光の塵を、慈しむように、しかし何のためらいもなくその手に吸収していく。あれは「回収」だった。まるで、それが当然の義務であるかのように。
第五章 無感情の調停者
導かれるように、僕は街外れの廃墟と化した時計台に辿り着いた。螺旋階段を上りきった先に、彼はいた。未来の僕が。
彼の周りには、巨大な硝子装置がいくつも並び、その中では世界中から集められたであろう、天の川のような光の塵が静かに渦巻いていた。
「ようやく来たか、過去の私よ」
彼の声は、何の抑揚もない、機械的な響きだった。
「なぜ、こんなことを……澪との鎖まで!」
「感情は苦しみだ」彼は静かに告げた。「友情は執着を生み、やがて憎悪に変わる。争いも、悲しみも、全ては感情から生まれる。私は世界を救いたいのだ。この苦痛の連鎖から、人々を解放するために」
彼が指し示した硝子装置の中の光。それは、失われた友情の「記憶の残滓」であり、同時に、鎖が断ち切られた瞬間に生まれる「痛み」そのものだった。
「私がこの痛みを吸収することで、人々は喪失の苦しみすら感じずに済む。これは慈悲であり、救済なのだ」
未来の僕は、僕に選択を迫った。
「私と共に、感情のない平穏な世界を創造するか。それとも――この世界中の痛みと、失われた記憶の全てを、お前が引き受けるか」
その瞳は、究極の問いを投げかけながらも、微動だにしなかった。
第六章 虹色の器
楽になれる。
その言葉が、悪魔のように僕の心を揺さぶった。感情の奔流に身を晒し、自分という存在が摩耗していく苦しみ。それから解放されるのなら。
だが、脳裏をよぎったのは、澪の笑顔だった。くだらないことで笑い合った午後の陽光。一緒に見た映画の、陳腐な台詞。喧嘩した後の、気まずい沈黙。その全てが、痛みと共に僕を形作っていた。失いたくない。たとえ、どれほど苦しくても。
「俺は、忘れたくない」
声が震えた。だが、瞳はまっすぐに未来の自分を射抜いていた。
「澪といた時間を。世界中の誰かが、誰かを想った時間を。無かったことには、させない」
僕は覚悟を決めた。両腕を広げ、叫ぶ。
「全部、俺が引き受ける!」
その言葉が合図だったかのように、巨大な硝子装置が一斉に砕け散った。億千万の光の塵が、光の津波となって僕の体に殺到する。
喜びが、悲しみが、怒りが、愛しさが、後悔が、感謝が――世界中の失われた友情の記憶が、僕という器を貫き、満たしていく。意識が真っ白に染め上げられ、僕という個は、無限の感情の奔流の中に溶けて、消えた。
最後に感じたのは、僕自身の感情が完全に消え去る、絶対的な静寂。
しかし、僕の体は砕け散る代わりに、内側から眩い虹色の光を放ち始めていた。
第七章 鎖を繋ぐ者
未来の僕は、虹色の光の柱と化した僕の姿を静かに見つめていた。「それもまた、一つの答えか……」そう呟くと、彼の姿は陽炎のように揺らめき、満足したかのように消えていった。
世界中で、奇跡が起きていた。消え去ったはずの友情の鎖が、再び人々の間に架かり始めたのだ。それは以前のものとは違い、どこか儚く、それでいて温かい、新しい絆の光だった。僕という存在が、世界中の友情を繋ぎ止める、新たな「法則」となったのだ。
「ヒビキ……!」
澪は、僕との記憶を完全に取り戻していた。彼女は時計台に駆けつけ、光の中心で佇む僕の名を呼ぶ。
僕は、ただ静かにそこに立っているだけ。その瞳に、もう何の感情も映らない。
澪は涙を流しながらも、僕の手にそっと触れた。その瞬間、彼女と、虹色の光と化した僕の間に、一本の細く、しかし確かな光の糸が結ばれる。
「おかえり、ヒビキ」
彼女は、僕の感情のない瞳を見つめて、強く、優しく微笑んだ。
「大丈夫。今度は私が、この鎖を育てていくから。あなたが世界を繋いでくれている限り、私は、あなたとの絆を繋ぎ続けるから」
澪は僕の手を握りしめ、夜明けの空を見上げた。東の空には、以前よりもずっと優しい色合いの、巨大な虹が架かっていた。
僕はもう何も感じない。だが、僕という虹の鎖は、確かに世界を、そして愛する親友を、静かに、永遠に繋ぎ止めていた。