第一章 不協和音の旋律
古びた洋館の扉を開けると、埃と樟脳の匂いが混じり合った、時が止まったかのような空気が音無響(おとなし きょう)の肺を満たした。調律師である彼にとって、古いピアノは懐かしい友人のような存在だ。だが、この家に漂う空気は、友好的なものとは言い難かった。重く、冷たい沈黙が、まるで分厚いフェルトのように全ての音を吸い込んでいる。
「こちらです」
皺の刻まれた指先で案内するのは、依頼主の藤宮静子と名乗る老婆だった。彼女の背中は小さく丸まり、歩むたびに床板が悲しげに軋む。通された応接間の中心には、一台のグランドピアノが鎮座していた。黒檀の艶は失われ、表面には無数の細かな傷。それでもなお、かつての威厳を保っている。
「孫が…美咲が、大切にしていたピアノなのです」静子はピアノを愛おしげに撫でながら、か細い声で言った。「あの子が、一年前にいなくなってから、誰もこのピアノに触れておりません」
響は無言で頷き、調律道具の入った鞄を床に置いた。彼の仕事は、ずれた音を正しい音程に戻すこと。だが、彼にはもう一つの、誰にも言えない秘密があった。彼は、物に触れると、それに最後に触れた人間の「記憶の断片」を、音として聞くことができるのだ。それは祝福ではなく、呪いに近い能力だった。街を歩けば、手すりから苛立ちの舌打ちが、自販機のボタンから欲望の溜息が、絶えず彼の鼓膜を侵食する。だから響は、他人の感情が染みついていない「音」そのものと向き合える調律師という仕事を選んだのだ。
「では、拝見します」
響はそっと鍵盤の蓋を開けた。象牙は黄ばみ、いくつかは指の跡で黒ずんでいる。彼は意を決して、中央のドの鍵盤に指を置いた。
その瞬間、彼の頭蓋に鋭い音が突き刺さった。
『お願い、やめてっ…!』
若い女性の、恐怖に引きつった悲鳴。直後、ガシャン!と硬質な何かが砕け散る、耳障りな破壊音。それは単なる音の記憶ではなかった。絶望と恐怖という、生々しい感情の奔流が、響の全身を駆け巡る。彼は思わず指を離し、息を呑んだ。額には冷たい汗が滲んでいる。
「どうか、なさいましたか?」心配そうに静子が響の顔を覗き込む。
「いえ…少し、鍵盤の感触を確かめていただけです」
響は動揺を悟られぬよう、平静を装った。今のは、間違いなく失踪したという孫娘、美咲の声だ。一年前に止まったピアノの記憶。悲鳴と破壊音。これは単なる家出などではない。この静かな洋館のどこかに、おぞましい事件の残響が、今もなお鳴り響いている。響は、自分が決して踏み入るべきではなかった領域に、足を踏み入れてしまったことを悟った。
第二章 褪せた記憶の残響
響は、ピアノの記憶から離れるように、美咲の部屋を見せてもらった。彼女の部屋もまた、主の不在を告げるように静まり返っていた。本棚には音楽史の本が並び、机の上には書きかけの五線譜が置かれている。繊細で、音楽を心から愛していた少女の気配が、部屋の隅々にまで満ちていた。
響は、机に置かれた革張りの日記帳に手を伸ばした。ページをめくる音を立てないよう、慎重に表紙に触れる。
『…あの人に会わなければ…』
聞こえてきたのは、焦燥感に満ちた呟きだった。切羽詰まったような、追い詰められた声色。やはり、彼女は誰かとの間に問題を抱えていたのだ。響の胸に、重たい疑念が澱のように溜まっていく。
静子の話によれば、警察は事件性が低いと判断し、早々に捜査を打ち切ったという。「あの子は内気で、友達と揉めるような子では…」と静子は語るが、響がピアノから聞いた音は、その言葉を真っ向から否定していた。
数日後、響は美咲の友人だったという女性に会う機会を得た。喫茶店のテーブル越しに向かい合った彼女は、美咲の話になると途端に口が重くなった。響は、彼女がテーブルに置いたスマートフォンの縁に、さりげなく指を触れさせた。
『…美咲ばっかり、いつも特別扱いで。正直、羨ましかった』
嫉妬に濡れた、低い声。響は表情を変えずにコーヒーを啜ったが、心の中では冷たい波が引いていくのを感じていた。友人関係のトラブル。それは、失踪事件の最もありふれた動機の一つだ。
響は、自分の能力を呪った。断片的な音は、想像力を掻き立て、人を疑う心を増幅させる。聞こえてくるのは、嫉妬、焦燥、恐怖といった負の感情ばかり。真実を知りたいという思いと、これ以上他人の醜い心の内を聞きたくないという思いが、彼の中でせめぎ合っていた。
それでも、あのピアノから聞こえた悲鳴が、彼の耳から離れなかった。美咲という、会ったこともない少女の絶望が、まるで自分のことのように胸を締め付ける。彼は、この不協和音に満ちた物語に、正しい終止符を打たなければならないという使命感に駆られていた。彼は再び、あの洋館へと足を向けた。事件の始まりとなった、沈黙のピアノと向き合うために。
第三章 沈黙のクレッシェンド
再び訪れた藤宮家の応接間は、以前にも増して静寂が支配していた。響はピアノの前に座り、目を閉じた。前回は、たった一つの鍵盤に触れただけだった。だが、記憶はピアノ全体に染みついているはずだ。もっと多くの音を、もっと深く聞かなければならない。
彼は両の手のひらを、ピアノの本体、響板に繋がる木製のフレームにそっと置いた。全身の意識を指先に集中させる。冷たく、滑らかな木の感触。長い年月の間に蓄積された、無数の記憶の振動が、彼の神経を伝って脳へと流れ込んでくる。
子供の頃の美咲が弾く、たどたどしい練習曲の音。静子が優しく歌う、古い子守唄の音。家族の笑い声、誕生日を祝う歌声。温かく、幸せに満ちた音の奔流が、響の心を洗い流していく。
そして、彼は再びあの音に到達した。
『お願い、やめてっ…!』
だが、今度は違った。断片的だった音が、前後の文脈を伴って響き始めたのだ。悲鳴の後に続く、微かな声。
『…その花瓶、おじい様がヨーロッパで買ってきてくださった、大切なお品なのに…!』
ガシャン!という破壊音。その後に聞こえたのは、若い女性の嗚咽と、厳しい男性の声だった。『静子、お前という奴は!』
響は、雷に打たれたように目を見開いた。
声の主が、違った。これは、美咲の声ではない。もっとずっと昔の、若い頃の静子の声だ。そして、彼女を叱責しているのは、亡くなった彼女の夫の声。これは、美咲の失踪事件の記憶などではなかった。何十年も前に、若き日の静子が、誤って高価な花瓶を割ってしまった時の、古い、古い記憶の残響だったのだ。
全身から力が抜けていく。響は、自分の能力が生み出した壮大な誤解に愕然とした。悲鳴と破壊音という衝撃的な情報が、失踪という事実と結びつき、彼の頭の中で勝手におぞましい物語を組み上げてしまったのだ。ピアノは、何も語ってはいなかった。ただ、そこに在った記憶を、ありのままに響かせていただけだった。
では、美咲はどこへ?
彼は混乱する頭で、もう一つの手がかりを思い出した。日記帳から聞こえた『あの人に会わなければ…』という焦燥の音。響は再び日記帳に触れ、全ての意識を集中させた。あの時、焦りの感情に気を取られ、聞き逃していた何かがあるはずだ。
『…あの人に会わなければ…』
そして、その後に続く、ほとんど吐息のような、しかし確かな意志を宿した言葉を聞き取った。
『…新しい音を、見つけに』
響は日記の最後のページをめくった。そこには、美咲の流麗な文字で、箇条書きのリストが記されていた。
『聞きたい音のリスト』
・アイスランド、ヴァトナヨークトル氷河の洞窟で聞こえる、氷が軋む音
・ナミブ砂漠の、鳴き砂が奏でるメロディー
・コスタリカの熱帯雨林に響き渡る、ケツァールの鳴き声
・日本の屋久島で、苔を伝う雨粒の音
彼女は、事件に巻き込まれたのではない。誰かから逃げたのでもなかった。彼女は、世界中に散らばる「美しい音」を探し出すために、壮大な旅に出たのだ。響と同じ、音に魅せられた人間として。
第四章 未来へ続くソナタ
響は、日記のリストを静かに静子に見せた。老婆は震える指でページをなぞり、そこに書かれた文字を一つ一つ、確かめるように読んだ。やがて、その深い皺の刻まれた目から、大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
「あの子らしい…本当に、あの子らしいわ…」
それは絶望の涙ではなかった。孫の無事を、そしてその壮大な夢を知った、安堵と愛情に満ちた涙だった。心配をかけまいと、何も言わずに旅立った孫の不器用な優しさが、痛いほど伝わってきた。
響は、リストの最後に書かれた一文を指さした。
『そしていつか、旅の終わりに。祖母の弾いてくれる、思い出のピアノの音』
「美咲さんは、必ずここに帰ってきます。このピアノの音が聴きたくて」
静子は何度も頷き、涙で濡れた頬に優しい微笑みを浮かべた。
呪いだと思っていた響の能力が、初めて人を救い、誤解の連鎖を断ち切り、真実を繋いだ瞬間だった。彼は、自分の内側で何かが変わっていくのを感じていた。世界は断片的な音で満ちている。だが、その音をどう聞き、どう繋ぎ、どんな物語を紡ぎ出すかは、聞き手である自分自身に委ねられているのだ。
響は、その日、生涯で最高の仕事をした。彼は美咲が愛したピアノの、全ての弦を、完璧な音程に調律した。一つ一つのハンマーの動きを調整し、鍵盤のタッチを均一にした。埃を払い、黒檀を磨き上げ、ピアノは失われた輝きを取り戻した。
全ての作業を終え、響は最後にもう一度、中央のドの鍵盤に指を置いた。
今度聞こえてきたのは、恐怖の悲鳴ではなかった。
旅立ちの朝、期待に胸を膨らませた美咲が、ピアノの前に座って口ずさんでいた、軽やかな鼻歌の音だった。それは、未来への希望に満ちた、明るい長調のメロディー。
響は静かに鍵盤の蓋を閉じた。外を見ると、西の空が優しい茜色に染まっていた。
彼はこれからも、様々な音を聞き続けるだろう。時には心をかき乱され、人を疑うこともあるかもしれない。だが、もう迷うことはない。彼はただの調律師ではない。彼は、不協和音の中に調和を見出し、断絶された音と音を繋いで、未来へと続く旋律を紡ぎ出す、「残響の調律師」なのだから。