第一章 琥珀色の依頼人
桐谷朔の営む小さなアトリエは、埃っぽい路地の奥、忘れられた時間の中にひっそりと佇んでいた。壁一面に並ぶ数百種類の香料瓶が、午後の傾いた光を浴びて、まるで古い教会のステンドグラスのように鈍い輝きを放っている。朔は、世界のあらゆる音を遮断するかのように、静かにムエット(試香紙)に鼻を寄せていた。彼にとって、匂いこそが世界を構成する唯一の言語だった。
その静寂を破って、ドアベルが澄んだ音を立てた。現れたのは、水野響子と名乗る女性だった。雨に濡れた紫陽花のような、儚げでいて芯の強さを感じさせる瞳をしている。彼女は大切そうに、レースのハンカチに包まれた小さなガラス瓶をテーブルに置いた。
「一年前に、恋人が失踪しました」
響子の声は、凪いだ湖面のように穏やかだったが、その底には計り知れない深さの悲しみが揺らめいていた。
「警察も、探偵も、もう匙を投げてしまって……。でも、私には分かるんです。彼はまだ、どこかにいる。せめて、彼がいつもつけていたこの香りを、もう一度感じたい。彼がここにいるかのように。この香りを、再現していただけませんか?」
朔は無言で頷き、ガラス瓶を受け取った。コルクの栓をそっと抜く。微かに残ったその香りを吸い込んだ瞬間、彼の世界は暗転した。
―――冷たい。水が、肺を満たしていく。手足の感覚が麻痺し、意識が遠のいていく。もがく力さえ奪われた体が、ゆっくりと、どこまでも暗い水の底へ引きずり込まれていく。見えるのは、水面に揺らめく、歪んだ月光だけ。絶望的な恐怖と、諦念。死の匂い。―――
「……っ!」
朔は激しく咳き込み、瓶を取り落としそうになった。目の前の光景がぐにゃりと歪み、アトリエの壁の染みが、溺れる男の顔に見えた。これが、彼の呪いであり、持って生まれた特殊な才能だった。特定の強い匂いに紐づいた、他人の記憶の断片。鮮烈な感情の奔流が、彼の五感を焼き尽くす。
「どうかなさいましたか?」
心配そうに覗き込む響子の顔を見返すことができない。朔は絞り出すような声で言った。
「……申し訳ありませんが、このご依頼は、お受けできません」
この匂いの先にあるのは、ただの失踪ではない。もっと暗く、冷たい何かだ。これ以上、他人の記憶の深淵に触れたくはなかった。孤独な調香師として、静かに生きていきたかった。しかし、響子の瞳に宿る、縋るような光が、彼の心を鈍く突き刺した。彼女は、この香りの記憶だけを頼りに、一年という途方もない時間を生きてきたのだ。その重みが、アトリエの空気を満たしていた。
第二章 断片を繋ぐ糸
結局、朔は響子の依頼を引き受けてしまった。彼女の瞳の奥にある、決して消えない灯火のようなものに、抗えなかったからだ。それは、彼がとうの昔に失くしてしまった感情に似ていた。
「ありがとうございます。彼、高遠航は、古いものが好きな人でした」
数日後、響子の案内で訪れた高遠のアパートは、主の不在を物語るように、ひっそりと静まり返っていた。彼女は警察の許可を得て、部屋の管理を任されているという。朔は目を閉じ、深く息を吸った。埃と古紙、微かなコーヒーの残り香、そして陽光の匂い。様々な記憶の断片が、混じり合って漂っている。
「何か、彼の匂いが強く残っているものはありますか?」
朔の問いに、響子は書斎の机に置かれた革張りの手帳を指差した。朔は許可を得て、それを手に取る。使い込まれた革の匂いと、インク、そして持ち主の皮膚の匂い。それを嗅いだ瞬間、新たなビジョンが朔の脳裏に焼き付いた。
―――薄暗いバーのカウンター。一人の男と向かい合っている。男の顔は見えないが、その声には苛立ちが滲んでいる。「もう終わりにしろ」「これはお前のためでもあるんだ」。高遠の視点から見える自分の指が、グラスの水滴を神経質になぞっている。焦りと、何かを隠そうとする必死の抵抗。―――
「バーで、誰かと口論を……」
朔が呟くと、響子は息を呑んだ。「彼、時々一人でバーに行っていました。でも、誰と会っていたのかまでは……」
次に朔は、クローゼットにかかったツイードのジャケットに鼻を寄せた。樟脳の匂いの奥に、甘く、それでいて少しスパイシーな香りが潜んでいる。
―――秋の夕暮れ。落ち葉を踏みしめる音。隣を歩く誰かの、甘い香水の香り。その人物に、彼は何か小さな包みを渡している。相手の手は白く、細い指をしていた。見覚えのある指だ。ああ、これは響子さんの……。しかし、その記憶は幸せなはずなのに、どこか張り詰めたような緊張感が漂っている。高遠の心臓が、不安に脈打っている。―――
断片的な記憶は、どれもジグソーパズルのピースのようだった。高遠が何かトラブルに巻き込まれ、深く悩んでいたことだけは分かる。だが、その核心が見えない。ピースが足りなすぎる。
「桐谷さん」響子が、そっと朔の淹れたハーブティーに口をつけながら言った。「あなたには、本当に匂いが見えるのですね」
彼女は、朔の能力を少しも疑わなかった。ただ、事実として受け入れ、静かに信じてくれていた。その信頼が、朔の心を少しずつ溶かしていく。人を遠ざけ、自分の殻に閉じこもっていた彼にとって、それは初めての経験だった。この人のために、真実を見つけ出したい。いつしか、朔はそう強く願うようになっていた。
第三章 金木犀の告白
調査は行き詰まりを見せていた。高遠の記憶の断片は、彼の苦悩を映し出すだけで、失踪に繋がる決定的な手がかりを与えてはくれない。朔はアトリエで、再現を依頼された香水の調合を試みていた。ベルガモット、サンダルウッド、そして微量のムスク……。しかし、何かが違う。記憶の中で感じた、あの冷たい水の底の絶望感と結びつかない。
その日、響子は打ち合わせのために朔のアトリエを訪れていた。彼女がジャケットのポケットからハンカチを取り出した瞬間、朔の鼻腔を、これまで気づかなかった香りが掠めた。それは、響子がいつも身につけているフローラルな香りとは違う、甘く切ない、金木犀の香りだった。そして、その奥に、インクと古い紙の匂いが混じり合っている。
「その匂い……」
朔が呟いた瞬間、世界が反転した。これまでで最も鮮明で、長いビジョンが、彼の意識を完全に飲み込んでいく。
―――視点は、高遠航のものだった。彼は必死に夜道を走っている。息が切れ、心臓が張り裂けそうだ。追われている。誰に? 振り返る余裕もない。ようやく辿り着いたのは、見慣れたアパートの自室だった。鍵を閉め、震える手で電話をかけようとする。その時、背後に人の気配がした。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは響子だった。いつの間に部屋に入ってきたのか。彼女は、いつもと変わらない、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「航さん。どこへ行こうとしていたの?」
その声は優しいのに、彼の全身の血が凍りつく。彼は、見てはいけないものを見てしまったのだ。彼女が、彼女の父親が長年行ってきた不正の証拠を、この手で掴んでしまった。彼女の優しい微笑みの裏に隠された、底なしの闇を知ってしまった。
「響子……君は、知っていたのか……」
「ええ。最初から全部」
次の瞬間、彼女の微笑みが、すっと消えた。能面のように無表情な顔。その手には、書斎の机にあった重たい真鍮の文鎮が握られている。それが振り上げられるスローモーションの光景。そして、最後に見たのは、愛したはずの女性の、氷のように冷たい瞳だった。―――
「……ああ……っ!」
朔は現実の世界に引き戻され、激しく喘いだ。目の前には、何も知らぬ顔で微笑む響子が立っている。しかし、今の朔には、その微笑みが恐ろしい仮面のようにしか見えなかった。
犯人は、ずっと目の前にいた。
健気に恋人を探す被害者のフリをしながら、彼女は朔を利用していたのだ。警察の捜査が手詰まりになった今、自分の犯行が完璧であったかどうかを、この世で唯一真実を「嗅ぎ分ける」ことのできる朔を使って、最終確認するために。彼女は、朔の能力の噂を聞きつけ、最初からすべて計算ずくでここへ来たのだ。
第四章 静寂のレクイエム
アトリエの空気は、鉛のように重かった。何百という香料瓶が、沈黙の証人となって二人を見つめている。朔は震える声で言った。
「金木犀の香る文鎮……。あれで、彼を……」
響子の顔から、ふっと表情が消えた。それは、朔がビジョンの中で見た、あの氷のような無表情だった。彼女は静かに頷いた。
「やはり、あなたには分かるのですね。……ええ、そうよ」
彼女は淡々と語り始めた。父親の罪、それを知ってしまった高遠、そして、自分たちの築き上げてきたすべてを守るために、彼を手にかけたこと。彼女にとって、それは愛するものを守るための、当然の行為だった。その声には、後悔も罪悪感も微塵も感じられなかった。
恐怖が朔の背筋を駆け上る。しかし、それ以上に、深い悲しみが彼を襲った。彼女が放つ匂いは、金木犀の甘い香りなどではなかった。それは、罪悪感と孤独で凍りついた、悲しく、冷たい匂いだった。
「あなたの記憶の匂いは……あまりに、悲しすぎる」
朔の言葉に、響子の肩が微かに震えた。初めて彼女の仮面に、小さな亀裂が入ったように見えた。
数日後、響子は逮捕された。朔の証言が決定打となった。彼女は最後まで抵抗せず、静かに罪を認めたという。
アトリエに戻った朔は、一人、窓の外を眺めていた。彼の呪われた能力は、初めて真実を暴き、一人の人間の罪を白日の下に晒した。しかし、彼の心に残ったのは、達成感ではなく、人の心の闇に触れてしまったことへの、消えない痛みだった。
もう二度と、こんなことに関わるのはよそう。そう思った。だが、同時に、彼は自分が変わってしまったことにも気づいていた。響子の瞳の奥にあった灯火、彼女が必死に守ろうとしたもの、そして、その果てにある深い孤独。それらを知ってしまった今、もう以前のように、ただ匂いの世界に閉じこもっていることはできなかった。痛みや悲しみから目を背けずに、この能力と共に生きていく。それが、真実に触れてしまった者の、責任なのかもしれない。
朔は、新しい香料瓶を手に取った。響子のために、一つの香りを作る。それは、彼女の記憶にあった甘い金木犀ではない。罪を浄化するような、雨上がりの湿った土の匂い。そして、かすかな白百合の香り。再生と鎮魂の祈りを込めて。
完成した香水を、朔は『静寂のレクイエム』と名付けた。その香りが彼女の元に届くことはないだろう。それでも、彼は作りたかった。冷たい水の底に沈んだ魂と、氷の仮面の下で凍えていた魂が、せめて安らかな眠りにつけるように。
アトリエに、静かで清らかな香りが満ちていく。それは、事件の終わりを告げる匂いであり、桐谷朔という一人の男が、自らの呪いを受け入れ、新たな一歩を踏み出す始まりの匂いでもあった。