失われた記憶のキャンバス
第一章 雨の匂いと白い浸食
湿ったアスファルトの匂いが、古紙の埃っぽい香りに混じって足元を冷やしていく。
雨宮綴は、積み上げた文庫本の山が崩れぬよう指先でバランスを取りながら、軋む音を立てて開いた引き戸に目を細めた。
吹き込んだ冷気と共に、濡れた傘を引きずった女が一人、店内に滑り込んでくる。
女は傘を畳むことさえ忘れていた。雨粒が床に黒い染みを作っていく。彼女が胸に抱きかかえているのは、何重にも麻布で巻かれた長方形の板だ。その縁を掴む指は白く鬱血し、爪が布に食い込んでいる。
「……ここなら、拾ってくれるって」
問いかけではなかった。縋るような独白だった。
綴は手元の本を置き、黙って急須の茶を注ぐ。立ち上る湯気が薄暗い店内の視界を白く曇らせた。
女は茶に見向きもしない。カウンターの上に、赤子を寝かせるように包みを置く。
「消えるの。彼が……レオが」
麻布が解かれる。
鼻を突いたのは油絵具の匂いではない。腐りかけた果実と、焦げ付いた鉄の臭気。それは、何かが「在った」という事実ごと削り取られていく、喪失の悪臭だった。
現れたキャンバスを見て、綴は思わず息を呑んだ。
そこには夕暮れの街が描かれているはずだった。
だが、色彩は水に落ちたインクのように輪郭を失い、ドロドロと下のほうへ垂れ落ちている。それだけではない。キャンバスの右端から、生きた白蟻の群れのような「空白」が這い寄り、建物を、空を、意味のない白い染みへと食い荒らしていた。
見る間に、街灯の絵がひとつ、白の中に溶けて消滅する。
「今朝までは、まだ顔が見えていたの。でも、思い出そうとするたびに、頭の中が真っ白になって……」
女――セリナの瞳が揺れる。彼女は自分のこめかみを強く押し、怯えたように唇を震わせた。
「レオ・ヴァンス。彼は画家だった。そうよね? でも、ネットの記事も、写真も、見ている目の前で文字化けして、白い空白に変わっていく。私の記憶さえも」
綴は革手袋を嵌め直し、震える指先で、まだ色が残っているキャンバスの左端へ触れた。
瞬間、指先から手首、そして心臓へと、焼けつくような激痛が走る。
古傷が疼いた。かつて、繋いでいたはずの手がすり抜け、救えなかった熱の残滓が、脳裏で明滅する。
――視界が弾ける。
荒い息遣い。筆を叩きつける音。
『これは毒だ。だが、世界には解毒剤が必要なんだ』
男の声。そして、背後から忍び寄る、凍てつくような沈黙の気配。
綴は弾かれたように手を離し、カウンターに手をついて荒い息を吐いた。額から冷や汗が滴り落ち、古い木目を濡らす。
強烈な残留思念。この絵は、ただ描かれたものではない。画家の命そのものを絵具に混ぜて練り上げられている。
視界の端で、本棚の背表紙の文字が一瞬、蟻のように這い回り、また元の形に戻った。
世界が咀嚼を始めている。
不都合な異物を検知し、消化し、無かったことにしようとする巨大な胃袋の蠕動。この絵と、レオという男の存在が、今まさに溶かされようとしている。
「……引き受けよう」
綴は脂汗を拭い、目の前の白い浸食を睨みつけた。
「あんたの記憶が真っ白になる前に」
第二章 共鳴するキャンバス
レオ・ヴァンスのアトリエがあったとされる廃ビルは、都市の喧騒から切り離された墓標のように静まり返っていた。
最上階のドアを開ける。埃とカビの匂い。
部屋の中央に置かれたイーゼルも、床に散らばった絵筆も、どこかピントがずれているように輪郭が曖昧だ。まるで古い映写機で映し出された幻影のように、存在感が希薄になっている。
綴は胸の奥で燻る鈍痛を抑えながら、部屋の隅に打ち捨てられた描きかけのスケッチブックを拾い上げた。
そこには、レオの視点が焼き付いている。
「……潜るぞ」
短く告げ、綴は意識の覆いを外す。
世界が反転し、極彩色の記憶の濁流が彼を飲み込んだ。
***
そこは、燃えるような夕陽に照らされたアトリエだった。
若い男――レオが、狂気じみた形相で筆を走らせている。彼の目は充血し、恐怖と歓喜がない交ぜになった涙を流していた。
『見たんだ。空の裏側を』
カンバスの上で暴れる色彩は、風景画などではない。
崩れ落ちる巨大な構造物。空を埋め尽くす、理解不能な幾何学模様の機械群。そして、それらを覆い隠すように降り注ぐ、美しい雪のような灰。
それは、この平穏な社会の皮一枚下に隠された、おぞましい世界の真の姿だった。
ふと、視界が揺らぐ。
誰かがいる。レオの背後に。
音もなく近づく影。手には鋭利なペインティングナイフが握られている。
女性だ。長い髪を束ねた、凛とした佇まいの老婦人。その瞳には、レオへの慈愛と、それ以上に深い絶望が宿っていた。
『描いてはいけない、レオ。それは、人が知るには重すぎる』
『イザベラ、君だって知っているはずだ! 僕たちが生きているこの安寧が、過去を塗り潰した上に成り立っている虚構だってことを!』
『だからこそよ!』
イザベラの悲痛な叫びが、アトリエの空気を引き裂く。
『誰もが狂わずに生きていくために、誰かが真実を塗り潰さなきゃいけない。私は……そうやってあなたを守りたかった』
ナイフが振り上げられる映像はそこで途切れ、代わりに強烈な喪失感が綴の胸を貫いた。
殺意ではない。これは、断腸の愛だ。
愛しているからこそ、消さなければならない。彼が世界に「修正」され、魂ごと消滅する前に、せめて人間としての死を与え、その存在を隠蔽しようとした。
イザベラの慟哭が、綴自身の古傷と共鳴する。
――あの日、炎の中で救えなかった恋人の指先の感触。
――真実を知ったがゆえに、世界から「消去」された彼女の最期の笑顔。
心臓を万力で締め上げられるような苦痛。
綴は喉の奥から込み上げる鉄の味を飲み込んだ。
***
「っ……ぐ!」
現実へと弾き出され、綴は床に膝をついた。鼻から滴った血が、埃っぽい床に黒い花を咲かせる。
「綴さん!?」
セリナが駆け寄り、背中を支える。
綴は激しく咳き込みながら、袖口で乱暴に血を拭った。視界が明滅し、平衡感覚が戻らない。
「……分かった」
掠れた声で、綴は呟く。
「レオの絵は、まだある。そして、彼を愛しながら殺さざるを得なかった『共犯者』も」
窓の外、灰色の空が不自然に白く発光し始めていた。
時間が惜しい。世界がこの場所を「不要なデータ」として削除し始めている。
第三章 空白の展示室
地下深くに位置する美術館の収蔵庫は、ひやりとする冷気に満ちていた。
最奥の部屋。重厚な鉄扉の前に、ひとりの老婦人が椅子に座り、身じろぎもせずに鎮座していた。
背後には、白い布で覆われた巨大な何かが立てかけられている。
足音に気づき、婦人がゆっくりと顔を上げた。
記憶の中で見た顔。イザベラだ。だが、その顔には深い皺が刻まれ、瞳は枯れ井戸のように暗い。
「……お帰りなさい。ここは関係者以外、立入禁止ですよ」
静かな拒絶だった。彼女は立ち上がろうともしない。ただ、その背後の絵画を、自らの体で隠すように守っている。
綴は一歩、また一歩と距離を詰める。
「絵を見に来たわけじゃありません。あなたの『罪』を、見届けに来ました」
イザベラの眉がぴくりと動く。
「罪? 何のことでしょう」
「レオ・ヴァンスを殺したのは、組織の命令じゃない。あなた個人の意思だ」
綴の言葉に、セリナが息を呑む気配がした。
イザベラは沈黙を守る。だが、膝の上で組まれた手が微かに震えているのを、綴は見逃さなかった。
「世界がレオを『削除』すれば、彼は存在しなかったことになる。誰も彼のことを思い出せなくなる。あなたはそれが耐えられなかった」
綴は痛む胸を押さえながら、言葉を継ぐ。
「だから、彼が世界に消される前に、自らの手で彼を葬り、その最高傑作をここに隠した。未完成の駄作として登録し、誰の目にも触れさせず……そうすることで、彼が生きた証を『バグ』ではなく『遺物』として残そうとした」
イザベラの表情が崩れた。
仮面のような無表情が剥がれ落ち、そこには子供のような泣き顔が露わになる。
「……あの子は、知りすぎたのです」
絞り出すような声だった。
「人々は、自分たちの足元が死体の山だと知れば、正気ではいられない。レオは優しすぎた。その優しさが、世界には猛毒だったのです」
彼女はゆっくりと立ち上がり、布に手をかけた。
「見なさい。これが、私が命を賭して隠し続けた『毒』です」
布が滑り落ちる。
そこにあったのは、空白ではなかった。
視界を焼き尽くすほどの、圧倒的な色彩の暴力。
かつて栄え、そして理不尽に埋め立てられた機械仕掛けの都市。その残骸の上に無邪気に築かれた現代の街並み。空から降り注ぐ白い灰が、人々の記憶を静かに侵食していく様が、克明に、残酷なまでの美しさで描かれていた。
それは絵画という枠を超えた、世界の叫びそのものだった。
キィィィィィィン。
耳鳴りが響く。空間が軋み、収蔵庫の壁が白く透け始めた。
真実が露見した。観測されてしまった。
世界というシステムが、即座に修正プログラムを発動させる。
第四章 継承される色彩
視界の端から色が抜けていく。
綴は、自分の指先が半透明になっていることに気づいた。
強大すぎる真実は、個人の存在強度では支えきれない。この絵を見た代償として、観測者である自分たちが「ノイズ」として処理されようとしている。
「綴さん! 手が……!」
セリナの悲鳴が、遠い水底から聞こえるように響く。
ああ、やっぱりこうなるか。
綴の中に、恐怖はなかった。むしろ、奇妙な安堵があった。
かつて、恋人が目の前で消滅した時、自分はただ無力に立ち尽くしていた。彼女が何を見て、何を伝えようとしたのかも知らずに。
だが今は違う。
レオが見た景色。イザベラが守ろうとした痛み。そして、今まさに世界が隠蔽しようとしているこの真っ白な悪意。その全てを、俺は知っている。
「……セリナさん」
綴の声は、もう空気の振動としてしか響かなかった。
彼は残された最後の力を振り絞り、自身の精神回路を全開にする。
レオの絵画から溢れ出す膨大な情報量、イザベラの悲痛な愛、そして世界の真実の姿。それら全てを、ひとつの強固な『物語』として編み直す。
「受け取ってくれ」
綴は、霞む手をセリナへと伸ばした。
触れることはできない。だが、魂の輪郭が重なった瞬間、金色の火花が散った。
「これは、俺が最後に描く、記憶のキャンバスだ」
奔流がセリナの中へと流れ込む。
それは単なる知識ではない。熱だ。痛みだ。生きていたという鼓動だ。
セリナの脳裏に、レオの笑顔が、イザベラの涙が、そして失われた都市の風景が、鮮烈な色彩となって焼き付けられていく。
情報は彼女一人に留まらない。セリナを起点に、彼女と繋がりのある人々、かつて綴が救った依頼人たちへと、見えない波紋となって広がっていく。
『忘却』に対抗できる唯一の手段は『共有』だ。
一人の人間が支えきれない真実も、無数の人間が分かち合い、語り継げば、それは消せない『歴史』となる。
「綴さん、だめ……行かないで!」
セリナが手を伸ばす。その指は、綴の透き通った頬を何の手応えもなく通過した。
綴は微笑んだ。その表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
あの日の後悔が、ようやく溶けていくのを感じた。
「探偵廃業だよ。……あとは、頼んだ」
彼の輪郭が、光の粒子となって崩れ落ちる。
古い紙の匂いと、雨上がりの土の香りだけを残して。
雨宮綴という存在は、世界というキャンバスから、静かにその色を失った。
終章 見えない絵画の守護者たち
雨上がりの空は、目が痛くなるほどに青かった。
セリナは、古びた雑居ビルの二階、かつて古書店があった場所の前に立っていた。
ドアには『テナント募集中』の貼り紙がある。大家に聞いても、ここはずっと空き家だったと言うだろう。
けれど、セリナには見えた。
磨りガラスの向こうで、本の山に埋もれて茶をすする青年の姿が。
そして、彼女の瞼の裏には、世界がどれほど白く塗り潰そうとも決して消えない、鮮やかな『真実』の絵画が焼き付いている。
通りを行く人々の中に、ふと足を止め、空を見上げる者がいた。
彼らの瞳には、微かな違和感が宿っている。日常の風景の裏側に潜む何かに、気づき始めているのだ。
綴が最期に撒いた種は、確実に芽吹き始めていた。
セリナは、小脇に抱えた真新しいスケッチブックを開く。
そこはまだ真っ白だ。
だが、彼女の手には確かな感触があった。
「忘れません。私たちが、覚えている限り」
彼女は絵筆を取り、力強く最初の一線を引く。
消えゆく真実を拾い集め、次の世代へと色彩を繋ぐために。
新たな『記憶探偵』たちの物語は、ここから始まる。