第一章: 静寂の赤
色素の薄い灰色の髪が、防音室の無機質な白い照明を吸い込んでは鈍く反射していた。喪服と見紛う漆黒のスーツを着崩し、首には銀色のノイズキャンセリングヘッドホン。まるで重たい首輪だ。天城響也は、琥珀色の瞳を細め、眼前の光景を睨みつけていた。
そこは、完全な無音の世界。
響也の鼓膜は二年前に機能を停止し、世界から「音」を締め出した。だが、代償として脳が得たのは、音波を色彩として網膜に焼き付ける呪いのような共感覚。
今、響也の視界は吐き気を催すほどの極彩色に塗れている。
「……酷い色だ。腐った海藻のような緑と、錆びた鉄の茶色が混ざり合っている」
[A:天城 響也:冷静]「刑事さん。あんたの声、ドブ川のような色をしているな」[/A]
傍らに立つ中年刑事が何かを喚いているが、響也には聞こえない。ただ、刑事の口元から吐き出される音波が、汚濁した色の塊となって床にボトボトと落ちるのが見えるだけ。響也は靴底が汚れるのを厭うように一歩下がった。
部屋の中央、グランドピアノ。鍵盤に突っ伏して事切れている男――響也の父、天城奏助。
そして、その死体の足元に、異質な存在が蹲っていた。
ボブカットの黒髪が、震える肩を覆っている。身体のサイズに合っていない、ぶかぶかの白いワンピース。裾は泥で汚れ、裸足のつま先は凍えたように青白い。少女は膝を抱え、ただ一点を見つめていた。
[A:天城 響也:驚き]「……透明?」[/A]
思わず、響也の唇から言葉が漏れる。
少女からは、音がしていない。呼吸音さえも、衣擦れの音さえも。
世界中のあらゆる人間が、生きている限りノイズ(色)を垂れ流すというのに、彼女だけがガラス細工のように透き通っていた。
刑事が少女の肩を揺さぶる。滑り落ちる一冊のスケッチブック。
そこには、クレヨンで殴り書きされた文字。
『たすけて』
その文字を見た瞬間、響也の脳裏に、鋭利な刃物のようなソプラノの「青」が走った。
[A:天城 響也:冷静]「……その子は喋らないのか」[/A]
刑事は首を振り、手元のメモ帳にボールペンを走らせて響也に見せた。『心因性失声症のようだ。名前は星奈リッカ。君の父親が保護していたらしい』
響也は視線を父の死体に戻す。外傷はない。死因は心不全か。
だが、ピアノの譜面台に置かれたものを見た瞬間、響也の全身の血が凍りついた。
五線譜だ。
音符の一つもない、完全な白紙。
[A:天城 響也:恐怖]「……ッ!」[/A]
響也はヘッドホンを握りしめ、後ずさる。
白紙ではない。
響也の目には、その五線譜から、どす黒く脈打つ粘着質な「赤」が、マグマのように噴き出しているのが見えた。
『殺意』の色。
音のない轟音が、響也の視界を真っ赤に染め上げる。
[Think]父さんは病死じゃない。この静寂(いろ)に、殺されたんだ。[/Think]
◇◇◇
第二章: 嘘の濁流、透明な雨
警察署の取調室。そこは蛍光灯の点滅が放つ神経質な「黄色」のノイズで満ちていた。
響也の前には、一人の男が座っている。父の助手であり、新進気鋭の音響工学者、九条奏汰。
整えられた茶髪に、銀縁のメガネ。白衣の襟は染み一つなく、清潔そのもの。
[A:九条 奏汰:冷静]「おや、天才様のお出ましですか。耳が聞こえないのに、わざわざご足労いただき恐縮です」[/A]
九条の口元は笑っているが、メガネの奥の瞳は氷のように冷たい。彼が発する声の色は、一見すると美しい紫だが、その中心には猛毒のような蛍光ピンクが渦巻いている。
[A:天城 響也:冷静]「……お前の言葉は、相変わらず安っぽい芳香剤のような色だな、九条」[/A]
[A:九条 奏汰:怒り]「相変わらず失礼な人だ。師匠が亡くなって、私も悲しいんですよ。まさか、あんな実験を……」[/A]
[A:天城 響也:冷静]「実験? 父は何をしていた?」[/A]
九条は白々しく肩をすくめ、唇を歪めた。その瞬間、彼の口から吐き出された紫の煙が、不快な棘となって響也の網膜を刺した。
[A:九条 奏汰:狂気]「科学は芸術を超えますよ。師匠はそれを証明しようとして、自滅したんです。凡人には理解できない高みでね」[/A]
[Think]嘘だ。こいつの色は、嫉妬で濁りきっている。[/Think]
響也は席を立った。これ以上、この男の「色」を見ていると、自分の色彩感覚まで腐りそうだ。
署を出ると、雨。
雨粒がアスファルトを叩くたびに、灰色の波紋が視界いっぱいに広がる。
その雨の中に、リッカが立っていた。傘もささず、濡れた白いワンピースが肌に張り付いている。
響也はため息をつき、自分の黒いジャケットを脱いで彼女の頭から被せた。
[A:天城 響也:冷静]「……風邪を引くぞ。行く当てがないなら、来るか?」[/A]
リッカは濡れた前髪の隙間から、大きな瞳で響也を見上げた。
無言のまま開かれるスケッチブック。
『ピアノ、ききたい』
[A:天城 響也:絶望]「……弾かない。僕はもう、音楽を捨てたんだ」[/A]
リッカは首を振った。そして、響也の手を取り、その掌に指先で文字を書く。
『あなたの色は、泣いてる』
指先の体温だけが、冷え切った世界の中で確かな熱を持っていた。
響也のマンションに連れ帰ってからも、リッカは音を立てなかった。
彼女が部屋の隅で膝を抱えていると、そこだけ空気が澄んで見える。彼女は、響也が失った「静寂」そのものだった。
[A:星奈 リッカ:悲しみ]「…………」[/A]
声にならない吐息。だが、響也には見えた。彼女の喉元で、淡い水色の光が瞬いているのが。
それは、誰かを呼ぶ色。
[A:天城 響也:冷静]「……親父は、お前の父親代わりだったのか?」[/A]
リッカは小さく頷き、そして響也の袖を掴んだ。
縋るような瞳。
歪な共同生活の中で、二人は失われた愛の代用品を互いに求めていた。響也は彼女の「透明」に安らぎを覚え、リッカは響也の「黒」に守られることを望んだ。
だが、安息は長くは続かない。
響也は、父が遺した白紙の五線譜の謎を解く鍵が、リッカの記憶にあることに気づき始めていた。
◇◇◇
第三章: 崩落する世界
九条の研究室に忍び込んだ響也は、父の研究データを見つけ出した。
モニターに映し出される数式と波形データ。
それを読み解いた響也の手が、激しく震え始める。
[A:天城 響也:驚き]「……嘘だろ……」[/A]
『聴覚再生のための共感覚誘導理論』
実験被験者:天城響也。
父は、響也の聴力を取り戻すために、リッカの絶対音感を利用した生体実験を行っていたのだ。そして、その実験の副作用が、父自身の心臓を蝕んでいた。
[A:九条 奏汰:喜び]「おや、見つけてしまいましたか」[/A]
背後から、ねっとりとした声。
振り返ると、九条が白衣のポケットに手を突っ込み、愉悦に歪んだ笑みを浮かべて立っていた。
[A:九条 奏汰:狂気]「師匠はあなたを愛していたわけじゃない。自分の最高傑作である『ピアニスト天城響也』を修理したかっただけだ。あなたは壊れた楽器だったんですよ」[/A]
[A:天城 響也:怒り]「黙れ……! 父さんは……」[/A]
[A:九条 奏汰:冷静]「あの白紙の五線譜。あれは遺書じゃない。実験の失敗データだ。師匠は最期まで、あなたのことなんて見ていなかった」[/A]
九条の言葉が、鋭利な槍となって響也の胸を貫く。
信じていた憎しみさえもが、空虚なものに変わる。
愛されていたわけでも、憎まれていたわけでもない。ただの「実験材料」。
[A:天城 響也:絶望]「……あ……ああ……」[/A]
視界が、明滅する。
極彩色の世界が、色を失っていく。
赤も、青も、緑も。すべてが灰色に塗りつぶされ、やがて漆黒の闇へと溶けていく。
[Think]見えない。色が、消える。[/Think]
音のない世界で、唯一の道標だった「色彩」さえもが失われた。
完全なる無。
響也は膝から崩れ落ちた。床の感触さえも遠い。
[A:九条 奏汰:興奮]「ハハハ! 素晴らしい! ついに壊れた! これで私が正当な後継者だ!」[/A]
九条の高笑いが振動となって空気を揺らすが、響也にはもう、その汚い色さえ見えなかった。
深淵の底。そこには、自分以外、誰もいない。
◇◇◇
第四章: 光の旋律
廃墟のような部屋のソファで、響也は死んだように横たわっていた。
何日経過したのかもわからない。
食事も喉を通らず、ただ闇の中で呼吸を繰り返すだけの肉塊。
そこに、気配が近づく。
小さな手。リッカだ。
彼女の手が、響也の頬に触れた。
[A:天城 響也:絶望]「……触るな。僕にはもう、君の透明な色さえ見えないんだ」[/A]
響也は掠れた声で拒絶した。
だが、リッカは離れない。
彼女は響也の胸に顔を埋め、震え始めた。
そして――。
[A:星奈 リッカ:悲しみ]「……あ……あー……」[/A]
喉の奥から、錆びついた扉をこじ開けるような、軋んだ音が漏れた。
失声症の彼女が、声を絞り出している。
[A:天城 響也:驚き]「リッカ……?」[/A]
[A:星奈 リッカ:愛情]「……きょ、う……や……」[/A]
その瞬間。
響也の漆黒の視界に、一筋の閃光が走った。
それは、見たこともないほど純粋で、眩い「金色」の光。
リッカが歌い始めた。
言葉ではない。旋律(メロディ)。
それは、あの白紙の五線譜に隠されていた、父が最期に残そうとした未完成の曲。
リッカの絶対音感が記憶していた、父の本当の遺言。
[A:星奈 リッカ:愛情]「ラ……ララ……♪」[/A]
歌声が響くたびに、闇が切り裂かれていく。
金色の粒子が部屋中を舞い、灰色の家具に色彩を取り戻させる。
それは「実験」のためのデータではない。
響也への、不器用で、歪んだ、けれど確かな「愛」の旋律だった。
[Think]父さんは、僕を直そうとしたんじゃない。僕に、新しい世界を見せようとしていたんだ。[/Think]
涙が、響也の頬を伝った。その涙は、美しい蒼色に輝いていた。
響也はゆっくりと体を起こす。
視界は以前よりも鮮やかに、そして澄み渡っている。
[A:天城 響也:愛情]「……リッカ。ありがとう」[/A]
響也は立ち上がり、埃をかぶったピアノの蓋を開けた。
鍵盤に指を置く。
震えはもう、ない。
[A:天城 響也:怒り]「九条……。お前が盗んだ父さんの技術、そしてお前が汚した音楽。僕がすべて終わらせてやる」[/A]
[Shout]僕には聞こえない。だが、今の僕には、全てが視える!![/Shout]
響也の瞳に、かつてないほど激しい炎の色が宿った。
狙うは、今夜開催される九条奏汰の追悼記念コンサート。
そこで、真実の音色を叩きつける。
◇◇◇
第五章: 色彩の鎮魂歌
ホールは満員の聴衆で埋め尽くされていた。
ステージの中央には、スポットライトを浴びた九条奏汰。
彼は、盗み出した響也の父の研究データを元に作った「感情制御スピーカー」のデモンストレーションを行っていた。
[A:九条 奏汰:興奮]「これぞ革命です! 聴く者の脳波を直接操作し、至高の感動を与えるシステム!」[/A]
観客は催眠にかかったように拍手している。会場全体が、九条の支配する濁った紫色の靄に包まれていた。
その時。
ステージの袖から、黒い影が現れた。
ボロボロのスーツを着た天城響也だ。傍らには、スケッチブックを抱えたリッカが寄り添っている。
[A:九条 奏汰:驚き]「な……!? 貴様、なぜここに!?」[/A]
響也は何も答えない。
ただ、九条を押しのけ、グランドピアノの前に座った。
マイクを通さずとも、その威圧感だけで会場の空気が凍りつく。
[A:天城 響也:冷静]「九条。お前の科学は騒音(ノイズ)だ。本物を教えてやる」[/A]
響也が両手を振り下ろした。
《色彩の鎮魂歌(カラー・オブ・レクイエム)》
第一音が放たれた瞬間、会場の空気が爆ぜた。
ピアノの音が、視覚的な衝撃波となって観客を襲う。
濁った紫色の靄が霧散し、ホール全体が鮮烈な「黄金」と「深紅」の渦に飲み込まれた。
[A:九条 奏汰:恐怖]「や、やめろ……! 私のシステムが、色が、混ざる……!!」[/A]
響也の指は、鍵盤の上を目にも止まらぬ速さで駆け巡る。
聞こえないはずの音が、響也には色として完璧に見えていた。
父の遺した旋律に、響也の魂の叫びが重なる。
悲しみ、怒り、そしてリッカへの感謝。
それらが複雑に絡み合い、極上のカタルシスとなって空間を支配していく。
リッカもまた、ピアノの横で小さくハミングを重ねた。
その透明な声が、響也の激しい色彩を優しく包み込み、調和させていく。
観客の目から涙が溢れ出した。
九条のシステムによる強制的な感動ではない。魂が震える、本物の感動。
[A:九条 奏汰:絶望]「ありえない……音が見える……私の罪が……色が……!!」[/A]
九条は頭を抱え、ステージの上でのた打ち回った。
彼自身の視界にも、自らの嘘と悪意が醜悪なドブ色となって映し出され、精神を崩壊させていく。
自らの技術の暴走。因果応報。
演奏が終わると同時に、九条は白目を剥いて倒れ伏した。
静寂。
そして、割れんばかりの拍手喝采。
音のない拍手が、響也の目には温かな「桜色」の光のシャワーとして降り注いでいた。
[System]事件解決:真実は白日の下に晒された。[/System]
舞台袖。
手錠をかけられ連行される九条を見送った後、響也はリッカに向き直った。
汗だくの顔を拭いもせず、彼は微笑む。
[A:天城 響也:愛情]「……終わったよ、父さん」[/A]
リッカがスケッチブックを開く。
『きれいな色だった』
響也は首を振り、リッカの手を取った。
[A:天城 響也:冷静]「僕の耳は、一生治らないかもしれない。静寂は続く」[/A]
それでも。
響也はリッカの瞳を見つめた。そこには、澄み渡る青空のような色が映っていた。
[A:天城 響也:愛情]「だが、君がいれば、世界はこんなにも美しい」[/A]
[A:星奈 リッカ:照れ]「……ん」[/A]
リッカは小さく微笑み、響也の手を握り返した。
二人は並んで、ホールの出口へと歩き出す。
その背中は、どんな音楽よりも雄弁に、希望の色を奏でていた。
静寂の中で見上げる空は、かつてないほど美しく澄んだ「希望の色」に満ちていた。