第一章 色のない殺人
その知らせは、灰色の雨がアスファルトを叩く午後に届いた。色彩喪失症候群、通称「クロマ・フェイド」が世界を覆い尽くして久しい。人々は一人、また一人と特定の色覚を失い、やがて世界は完全なモノクロームへと変貌する。俺、水無月湊(みなづきみなと)に残された最後の色は「青」だった。かつて色彩設計士として生きていた俺にとって、それは残酷な宣告であり、同時に最後の希望でもあった。
「緋山茜さんが、亡くなりました」
受話器の向こうから聞こえる刑事の声は、まるで遠い国の出来事のように響いた。茜は大学時代の旧友であり、クロマ・フェイドの数少ない研究者の一人だった。彼女の研究所兼自宅で、頭部を鈍器で殴られた遺体となって発見されたという。
俺は警察の許可を得て、規制線の張られた彼女の部屋に足を踏み入れた。そこは、俺の目にはほとんど無彩色の世界だった。白い壁、黒い本棚、灰色の濃淡でできた床。だが、その中で一点だけ、俺の網膜を鮮烈に灼きつけたものがあった。
床に散らばる、微細な砂粒。
刑事はそれを「ただのホコリか砂だろう」と気にも留めなかった。彼らには、それが濃淡の違う灰色の粒にしか見えないのだ。だが、俺にははっきりと見えた。それは、かつて俺たちが卒業旅行で訪れた、ギリシャの小島の砂浜で見たのと同じ、深く、吸い込まれるようなウルトラマリンの青。茜が「空のかけらみたい」と笑って、小瓶に詰めていたあの青い砂だ。
なぜ、こんな場所に? 茜は「赤」を最後に失うタイプだったはず。彼女の世界に、この青は存在しなかった。だというのに、彼女の最期の場所に、俺だけが見ることのできる鮮やかな「青」が、まるでメッセージのように残されている。これは、偶然か。それとも、犯人が仕掛けた、俺にしか解けない謎なのか。モノクロームの世界で、たった一人、俺だけが目撃した殺人現場の色彩。その鮮烈な青は、俺の無気力な日常を根底から揺さぶる、不吉な狼煙だった。
第二章 灰色のパレット
警察の捜査は難航していた。防犯カメラは犯人の姿を捉えておらず、部屋から盗まれたものもない。怨恨か、通り魔か、動機すら見えてこない。俺は参考人として何度も話を聞かれたが、青い砂のことは言えなかった。言ったところで、誰も信じないだろう。俺は独り、あの青の意味を探り始めた。
「湊さん、無理しないで。あなたの身体が心配よ」
恋人の白川唯(しらかわゆい)が、温かいハーブティーを差し出してくれた。彼女は、先天的に色覚を持たない「全色盲」として生まれた。俺が色彩を失っていく苦しみを、誰よりも深く理解し、寄り添ってくれる唯一の存在だった。彼女のいる世界は、はじめからモノクロームだ。その穏やかな瞳に見つめられると、俺の心に渦巻く焦燥が少しだけ和らいだ。
「ありがとう、唯。…なあ、茜の研究って、どんなものだったか知ってるか?」
「ええ…。『色と記憶の関連性』について調べていたわね。特に、人が最後に失う色は、その人の最も強い原風景や執着と結びついている、という仮説を立てていたわ」
茜の仮説。ならば、彼女の最後の色は情熱的な「赤」だったはずだ。彼女はいつも赤いマフラーを巻き、赤い万年筆を愛用していた。彼女の執着が赤にあるのなら、なぜ現場には青い砂が?
俺は茜の残した研究資料を読み漁った。膨大なデータと論文のほとんどは、俺の目には黒と白の染みにしか見えない。だが、その中で奇妙な記述を見つけた。特殊な音波と光の周波数を組み合わせることで、特定の神経経路を刺激し、一時的に特定の色覚を「阻害」する技術。それは色彩を取り戻す研究とは真逆の、「色を奪う」ための技術だった。茜は、この技術の危険性に気づき、研究を中断しようとしていたのではないか。
その夜、俺は悪夢を見た。鮮やかな青い海が、足元から急速に色を失い、灰色の泥水に変わっていく夢だ。飛び起きた俺の網膜に、暗闇の中でぼんやりと光る窓の外のネオンが映った。それは俺にとって最後の色彩。失うことへの恐怖が、背筋を冷たく濡らした。この事件を解決しなければ、俺は自分の「青」すら守れない。そんな強迫観念に駆られていた。
第三章 赤の不在証明
茜の研究ノートの隅に、走り書きされた名前があった。「黒崎」。茜の共同研究者だ。俺はすぐに彼の元へ向かった。黒崎は神経質そうな痩せた男で、彼の世界に最後に残された色は「緑」だという。
「緋山君が…色を奪う研究を? まさか」
黒崎は俺の話を聞いて顔を青ざめさせた。いや、彼の目には俺の顔は灰色に見えているのだろう。
「彼女は誰かに脅されていました。研究成果を軍事転用しようとする組織がいる、と。彼女が殺されたのは、きっとその口封じだ」
黒崎の証言は、捜査を新たな方向へと導いた。だが、俺の心の中の違和感は消えない。軍事組織の犯行だとしたら、なぜあんな詩的な、青い砂などという手がかりを残す? まるで、個人的なメッセージのように。
その時、俺の脳裏に、茜の日記の一節が蘇った。それは事件の数日前に書かれたものだった。
『私の赤を奪ったのは、あなた。でも、許すしかない』
当時は意味が分からなかったが、今なら分かる。茜は、誰かによって強制的に「赤」の色覚を奪われたのだ。彼女の最後の執着を。その犯人こそが、彼女を殺した人物に違いない。
だとすれば、犯人は茜の研究を悪用できる人物。そして、茜の「赤」への執着を知っている近しい人間だ。黒崎か? いや、彼には犯行時刻に完璧なアリバイがあった。
思考は袋小路に迷い込む。俺は自宅に戻り、呆然と窓の外を眺めた。空も、海も、俺の瞳を通してしかその色を保てない。その青が、ふと恐ろしくなった。それは俺だけの聖域であり、同時に、俺を世界から孤立させる檻でもあった。
「湊さん、顔色が悪いわ」
いつの間にか、唯が隣に立っていた。彼女の指がそっと俺の頬に触れる。その冷たい感触に、俺はハッとした。
なぜ、気づかなかったんだ。
あまりにも近くにいて、あまりにも当たり前の存在だったから。
彼女は、俺が青い砂の話をした時、少しも驚かなかった。
彼女は、茜の研究内容を、まるで自分のことのように詳しく知っていた。
そして、彼女は、色という概念を、生まれてから一度も理解したことがない。
「唯…」
俺の声は震えていた。
「茜を殺したのは、君なのか?」
第四章 愛はモノクローム
唯は、ゆっくりと微笑んだ。その表情は、俺のモノクロームの世界では聖母のようにも、悪魔のようにも見えた。
「ええ、そうよ」
彼女の告白は、雨音のように静かで、恐ろしいほど穏やかだった。
「私には、あなたの言う『青』がどんなものか分からない。茜が執着した『赤』も。私にとって世界は、光と影だけでできている。でもね、湊さん、あなたが色を失って苦しんでいるのを見て、私は初めて『色』に嫉妬したの」
唯は続けた。彼女は茜の研究に希望を見出していた。色が見えるようになるかもしれない、と。しかし、茜は研究の危険性に気づき、全てのデータを破棄しようとした。唯にとって、それは唯一の光を消されることに等しかった。
「だから、茜さんには消えてもらったわ。そして、研究データは私がもらった。でも、それだけじゃ足りなかった」
彼女は俺の瞳をまっすぐに見た。
「私は、あなたの見ている世界を共有したかった。あなたの最後の『青』を。だから、あの砂を撒いたの。あなただけが見つけられるように。あなただけが、この事件の謎を解けるように。あなたが謎を追い、苦しみ、そして真実に辿り着く…そのプロセスを隣で共有すれば、私にも『色』が分かるかもしれないと思ったのよ。それは、私なりの愛し方だったの」
全身の血が凍りつくようだった。彼女の動機は、憎しみでも、金でもない。理解できないものへの憧憬と、俺への歪んだ愛情。彼女は、俺が最後にしがみついていた聖域である「青」を、自分のための舞台装置として利用したのだ。俺の苦悩すら、彼女にとってはモノクロームの世界に彩りを与えるためのエンターテイメントだった。
警察が駆けつけ、唯が連行されていく。彼女は最後まで穏やかな笑みを浮かべていた。一人残された部屋で、俺は立ち尽くす。事件は解決した。だが、俺は何を得て、何を失ったのだろう。
窓の外に広がる海は、まだ青い。だが、そのウルトラマリンは、もはや俺の心を慰めてはくれなかった。それは穢され、意味を剝奪された、ただの色の染みでしかなかった。その夜、俺の視界から、最後の色がゆっくりと消えていった。まるで、涙で滲むように。
数週間後、俺は海辺の街を離れる準備をしていた。荷物は少ない。色彩設計士時代の画集や資料は、すべて処分した。俺の視界は、もう完全にモノクロームの世界だ。
不思議と、絶望はなかった。唯を失い、最後の色を失ったことで、俺は逆説的に、ある執着から解放されたのかもしれない。色を失う恐怖から。
俺は目を閉じる。聞こえてくるのは、寄せては返す波の音。肌を撫でる潮風の匂い。足元の砂の、ざらりとした感触。世界は、色がなくとも、こんなにも豊かだった。
俺は、この灰色の世界で生きていく。光と影のグラデーションの中に、新しい美しさを見つけながら。それは、誰にも奪われることのない、俺だけのパレットだ。夜明け前の空が、微かな階調の変化を見せ始めていた。それは、新しい一日の始まりを告げる、静かで、確かな希望の色だった。