第一章 雨音の依頼人
「そのテープには、夫の『罪』が録音されているはずなんです」
湿った声だった。
まるで、三日間降り続いているこの雨そのものが喋っているような。
俺は安物のパイプ椅子が軋む音を背中で聞きながら、依頼人に向き直る。
「罪、ですか」
「ええ。夫は先週、息を引き取りました。最期にこう言ったんです。『裏庭の土蔵に、俺の罪を隠してある』と」
俺はサングラスの位置を人差し指で直し、見えない目で彼女の『音』を探る。
衣擦れの音。絹だ。上質な喪服。
心拍数は安定しているが、呼吸が浅い。恐怖よりも、確信に近い緊張。
年齢は七十代後半といったところか。
「警察には?」
「行けません」
彼女はバッグからカセットテープを取り出し、机の上に置いた。
カチリ、と硬質な音が響く。
「もし夫が誰かを殺めていたのなら、私がその罪を償わなければなりません。警察に突き出す前に、真実を知りたいのです」
俺は手探りでテープを掴んだ。
古いTDKのノーマルポジション。ラベルには何も書かれていない。
「ここは『音』の探偵事務所です。浮気調査も人探しもしない。ただ、持ち込まれた音を解析するだけだ。それでもいいんですね?」
「構いません。あなたが、どんな小さな音も聞き逃さない『耳』をお持ちだと伺いましたから」
俺は微かに口の端を吊り上げた。
視力を失って五年。代わりに得たのは、人の嘘や隠し事すら聞き分ける、呪わしいほどの聴覚だ。
「いいでしょう。解析料は先払いです」
俺は再生機――ナカミチのドラゴン――にテープをセットする。
ヘッドホンを耳に当て、再生ボタンを押し込んだ。
『サーーーーーーー……』
聞こえてきたのは、均一なホワイトノイズだけだった。
第二章 空白の4分33秒
「何も聞こえませんが」
俺はヘッドホンを外さずに言った。
「そんなはずはありません」
依頼人の女性――静江は身を乗り出した。
「夫は確かに『罪を録音した』と言ったのです。それは四十五年前、あの日付のテープのはずです」
四十五年前。
俺はコンソールの周波数アナライザーに手を伸ばす。
波形を見ることはできないが、指先の感覚と音の変化で操作する。
ハイパスフィルターで低域のハムノイズを削る。
さらに、特定の帯域を強調する。
『ザザッ……サーーー……』
ノイズの質が変わる。
これは、ただの空白ではない。
「環境音だ」
俺は呟く。
「マイクが生きている状態で、無音の空間を録音している。場所は……室内じゃない」
風の音がマイクの風防を叩くボツボツという低音。
遠くで鳴る、金属的な摩擦音。
俺はイコライザーのフェーダーを操作し、風音を極限まで減衰させる。
その奥にある微細な音を拾い上げるために。
五感を研ぎ澄ます。
世界から色が消え、音だけの三次元空間が脳内に構築される。
聞こえる。
『ザクッ……ザクッ……』
「……土を掘る音だ」
俺の言葉に、静江が息を呑む音が聞こえた。
「スコップで、湿った土を掘り返している。リズムは一定だ。男だ。息遣いが荒い」
「夫は……何を埋めているんですか?」
「まだ分からない」
俺はボリュームを上げた。
土を掘る音は続く。
だが、妙だ。
死体を埋めるような切迫感がない。
むしろ、儀式のように慎重で、丁寧な動作音だ。
「静江さん。ご主人は四十五年前、何かトラブルを抱えていましたか?」
「……いいえ。私たちは結婚したばかりで、幸せの絶頂でした。ただ……」
「ただ?」
「私が、長期の入院をしていた時期があります。心の病気で……当時の記憶が、曖昧なんです」
心の病。
その言葉が出た瞬間、ヘッドホンの中の音が変わった。
『カチッ』
何かが硬いものに当たる音。
そして、男の手が止まる。
『……すまない』
テープの向こうから、掠れた男の声が聞こえた。
「夫の声です!」
「静かに」
俺はさらにゲインを上げる。
男は泣いていた。
嗚咽を漏らしながら、何かを呟いている。
そして、決定的な音が響いた。
『オギャア、オギャア……』
赤ん坊の泣き声だ。
いや、違う。
これは生音じゃない。
ラジオか何かを通したような、くぐもった音質。
俺の脳内で、音のパズルが組み合わさる。
土を掘る男。
謝罪の言葉。
そして、スピーカーから流される赤ん坊の泣き声。
「……殺したんじゃない」
俺はヘッドホンを外し、静江の方を向いた。
「ご主人は、何かを埋めた。だが、それは死体じゃない」
「じゃあ、何を……?」
「それを知るには、このノイズの正体をもっと深く潜る必要があります」
俺は再びコンソールに向かう。
このテープには、四十五年間の沈黙を破るための『鍵』が隠されている。
第三章 周波数の記憶
俺はノイズキャンセリングのアルゴリズムを変更した。
ターゲットは、男の背後で鳴っている環境音だ。
『カーン、カーン……』
遠くで響く鐘の音。
「静江さん、この鐘の音に聞き覚えは?」
スピーカーから音を流す。
「これは……西陽寺の鐘? ええ、昔住んでいた家の近くです」
「時間は夕方五時。鐘の数で分かる。そして、もう一つ」
俺は特定の周波数帯を抽出する。
『……きしゃポッポ……きしゃポッポ……』
「歌?」
「オルゴールだ。ネジを巻く音がする。そして、メロディが途中で歪んでいる。特定の弁が錆びている音だ」
静江の呼吸が乱れ始めた。
「そのオルゴール……私が、お腹の子のために買ったものです」
記憶の蓋が開こうとしている。
俺は畳み掛けるように解析を続けた。
男は穴の中に何かを置いた。
木箱のような音。
そして、その中にオルゴールを入れた。
さらに、何か紙のようなものを大量に入れる音。
最後に、男はこう言った。
『静江。これでいいんだ。お前は忘れろ。全部、俺が持っていく』
そして、土がかけられる。
ザザッ、ザザッ。
オルゴールの音が、土に埋もれて遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで、テープは回っていた。
俺は再生を止めた。
部屋には、雨音だけが残された。
「……思い出しましたか」
俺は静かに尋ねた。
静江は震える声で答えた。
「私……流産したんです。四十五年前に」
衣擦れの音が激しくなる。彼女は顔を覆っているのだろう。
「ショックで、私は心を病みました。子供が死んだことを認められず、毎日『あの子はどこ?』と探し回って……夫を責めました。『あなたが殺したのね』って……錯乱して……」
俺は、テープに残された『罪』の意味を理解した。
「ご主人は、あなたの妄想を受け入れたんですよ」
「え……?」
「あなたが『夫が殺した』と思い込むことで精神の均衡を保てるなら、その汚名を被ろうとした。そして、このテープを作った」
俺はカセットテープを指先で弾いた。
「ここには、生まれてくるはずだった子供のためのオルゴールと、おそらくエコー写真や日記が埋められている音が記録されている。彼は、子供の『存在』そのものを土に埋めたんです。あなたを、悲しみから守るために」
『俺の罪を隠してある』
その言葉は、殺人告白ではなかった。
妻の記憶を奪い、真実を闇に葬ったことへの、夫なりの懺悔だったのだ。
第四章 雨上がりのノクターン
翌日、俺たちはかつて彼女が住んでいた家の跡地へ向かった。
そこは今は小さな公園になっていた。
雨は上がっていた。
俺の杖が、濡れたアスファルトを叩く。
「この辺りです」
静江の声は、昨日よりも澄んでいた。
俺が解析した場所――大きな松の木の根元。
彼女が雇った業者が、慎重に土を掘り返す。
三十分後。
『カチッ』
昨日、テープの中で聞いたのと同じ音がした。
「ありました……!」
錆びついたブリキの缶が出てきた。
蓋を開ける音。
中には、腐りかけた母子手帳と、小さな靴。
そして、泥だらけのオルゴールが入っていた。
静江がそれを手に取る気配がした。
「……あなた」
彼女は泣いていた。
だが、その泣き声は悲痛なものではない。
四十五年間、心の奥底で凍りついていた何かが溶け出していくような、温かい涙の音だった。
「ご主人は、ずっと待っていたんでしょうね」
俺は空を見上げた。
何も見えないが、頬に当たる風が心地よい。
「あなたがいつか強くなって、この真実と向き合える日が来ることを。だから、テープを残した」
静江が、錆びついたオルゴールのネジを巻く。
『……きしゃ……ポッ……ポ……』
途切れ途切れの、しかし優しい音色が公園に響き渡る。
それは、亡き夫と、生まれなかった子供と、そして今を生きる彼女を繋ぐ、世界で一番美しいノイズだった。
「ありがとう、探偵さん」
「礼には及びません。俺はただ、ノイズを除去しただけです」
俺は踵を返した。
街の雑踏が聞こえてくる。
車の走行音、笑い声、足音、クラクション。
以前は耳障りでしかなかったそれらの音が、今日は不思議と、愛おしく響いていた。
世界は、こんなにも多くの『想い』で溢れている。
俺は白杖を握り直し、光のない、けれど賑やかな世界へと歩き出した。