第一章 漆黒のオルゴール
薄明のオフィスに、琥珀色の光が差し込んでいた。磨き上げられた机の上には、幾つもの未解決失踪事件のファイルが積み重なっている。私立探偵、水瀬悠は、その日の最初の依頼人を待っていた。窓の外では、東京の雑踏がすでに一日を始めているが、この部屋だけは、常に時間の流れから隔絶されたかのように静謐だ。悠の人生は、五年前に最愛の妹が跡形もなく消え去って以来、失われたものへの探求に捧げられてきた。彼の瞳の奥には、常に深い悲しみと、それでも諦めないという鋼のような意志が宿っている。
依頼人は、初老の執事だった。彼は、長年仕えてきた資産家の夫人、橘静子が前夜から行方不明であると告げた。
「橘夫人は、著名な慈善家で、子供たちの支援に尽力されていました。恨みを買うような方ではありません」
執事の声は震え、その言葉は悠の胸に重く響いた。静子が、妹がかつて世話になっていた養護施設に多額の寄付をしていたことを、悠は知っていた。
現場は都心から少し離れた閑静な高級住宅街の一角にある、瀟洒な洋館だった。玄関には鍵がかかり、窓も施錠されている。侵入の痕跡は一切見当たらず、争った形跡もない。ただ、リビングルームの中央、アンティークのサイドボードの上に、場違いなほど質素な、しかし異様な存在感を放つ黒い木箱が置かれていた。
悠はゆっくりとそれに近づく。それは、手作りのオルゴールだった。黒檀のような深い色合いの木肌は、幾度も磨き上げられたであろう艶を帯びているが、ところどころに不器用な彫り跡や、かすれた絵の具の跡が見て取れる。螺子を巻く持ち手も、どこか歪だ。
執事は首を傾げた。「このようなものは、以前はございませんでした。夫人は質素な方でしたが、趣味の良いものを好んでおりましたから」
悠が螺子を巻くと、オルゴールはか細く、しかし澄んだ音色を奏で始めた。それは、どこか懐かしく、しかし聞いたことのないメロディだった。童謡のような無邪気さと、レクイエムのような深い悲しみが入り混じった、不思議な旋律。その音色が空間に満ちると、悠の心臓が奇妙な鼓動を刻んだ。
「この曲、どこかで……」
独り言のように呟いた悠の脳裏に、幼い頃の曖昧な記憶が稲妻のように走った。遠い昔、妹と二人で過ごした、寂しくも温かい場所の風景。その記憶はすぐに霧散し、彼の心にはかすかな不安と混乱が残った。オルゴールが奏でる旋律は、彼の内なる闇を揺さぶり、失われた過去への扉をわずかにこじ開けたかのように感じられた。橘静子の失踪事件は、単なる行方不明事件ではない。この漆黒のオルゴールが、すべての始まりだ。悠は、無意識のうちにオルゴールをそっと掌に包み込んでいた。その重みが、彼に、避けられない運命の予感を与えた。
第二章 過去への糸口
水瀬悠はオルゴールを専門家に鑑定を依頼した。アンティークの価値は低いが、その構造や音色が非常に独特であるという見解だった。
「特にこの音階。通常のオルゴールではあまり使われない組み合わせです。まるで、子供が初めて触った鍵盤を、記憶を辿るように奏でているような……」
鑑定士の言葉は、悠の心に再び幼い頃の記憶を呼び起こした。それは、妹がまだ幼く、二人がとある施設で過ごしていた頃の断片的な風景だった。
悠は橘静子が多額の寄付をしていた養護施設「ひだまりの家」を訪れた。老朽化した建物だが、壁には子供たちの描いた絵が飾られ、窓からは明るい日差しが差し込んでいる。園長の温かい笑顔に迎えられた悠は、橘静子について尋ねた。
「橘様は、本当に素晴らしい方でした。特に、虐待を受けていた子供たちには、いつも深い愛情を注いでくださり……」
園長は静子を慈母のように語った。
しかし、悠がオルゴールについて尋ねると、園長の顔にわずかな動揺が走った。
「これは……もしかして、昔、子供たちが作ったものと似ていますね。特に、ある子が作ったオルゴールに」
園長は古いアルバムを取り出した。そこには、まだあどけない子供たちの笑顔が並んでいた。悠の視線は、ある一枚の写真に釘付けになった。それは、幼い頃の自分と、その隣に立つ、はにかんだ笑顔の少女、そして、その二人に優しく寄り添う橘静子の姿だった。
そして、その写真の裏には、墨で「ひだまりの家 記念祭 ユウとミオ」と書かれていた。
「ユウとミオ……」悠の心臓が激しく脈打つ。ユウは、彼の幼い頃の名前だった。ミオは、彼の妹の名前。
「この少年は、あなたとよく似ていますね」園長が悠を見て言った。
悠は、自分がこの「ひだまりの家」にいたことを思い出した。妹のミオと共に、親を失い、ここに預けられたこと。そして、橘静子が頻繁に施設を訪れ、子供たちに優しく接してくれていたこと。特に、手先の器用だった自分が作った、歪なオルゴールを彼女にプレゼントしたこと。
そのオルゴールが、今、悠の掌にあるものだった。
だが、なぜ静子夫人は、あのオルゴールを遺して消えたのか。そして、なぜ悠は、この記憶に蓋をしてしまっていたのか。
園長は、アルバムをめくりながら続けた。「橘様は、特に心を閉ざしていた子供たちに目をかけていました。虐待の傷は深く、回復には時間がかかりますから。特にユウとミオちゃんは、いつも一緒で、とても仲が良かった。ミオちゃんは、本当に歌が好きな子で……」
悠は、園長の言葉の続きを聞くことができなかった。ミオが失踪した時、悠は混乱のあまり、この「ひだまりの家」での記憶を無意識のうちに遠ざけていたのかもしれない。橘静子が、失踪したミオを捜す悠の活動を知り、何かメッセージを残そうとしたのではないか。そんな思いが、悠の胸を締め付けた。
施設を後にした悠は、静子夫人が長年支援してきたNPO団体「未来の光」の存在を知る。そこは、成人した元孤児たちが社会に溶け込むための支援を行う組織だった。そこで、悠は「藤井」という人物の存在を知る。彼は「ひだまりの家」出身で、橘静子を慕い、彼女の慈善活動を熱心に手伝っていたという。しかし、数ヶ月前からNPOを辞め、静子夫人とは疎遠になっていたという情報も得られた。悠の心に、不吉な予感がよぎる。静子夫人の失踪に、藤井が関わっている可能性を捨てきれなかった。オルゴールは、静子夫人から悠への、あるいは静子夫人から藤井への、何かメッセージなのだろうか。悠は、オルゴールの旋律が、単なる懐かしさだけでなく、どこか深い警告を帯びているように感じ始めていた。
第三章 旋律の裏側
悠は藤井の行方を追った。彼の住んでいたアパートはすでに引き払われていたが、部屋に残されていたゴミの中から、古びたノートを見つけた。そこには、橘静子の慈善活動の裏側を告発するような記述がいくつも残されていた。「橘様は、子供たちを道具としか見ていない」「完璧な子供だけを愛する」「寄付金の不正流用」。ノートは、藤井が静子夫人への信頼を失い、深い憎悪を抱いていたことを示唆していた。
藤井は、静子夫人の失踪後、姿を消した唯一の人物だ。悠は、藤井が静子夫人を誘拐し、どこかに監禁している可能性が高いと判断し、警察に情報を提供した。警察が藤井の捜索を始める中、悠はオルゴールの旋律が、どこか違和感があることに気づいた。美しいメロディなのに、なぜか心がざわつく。彼は、その旋律を楽譜に起こし、分析を重ねた。すると、ある特定の音が、不自然なほど繰り返されていることに気づいた。その音は、まるで何かの暗号のように、他の音から際立って聞こえる。
悠は、その繰り返される音に着目し、音階を数字に置き換えてみた。そして、その数字の羅列が、彼がオルゴールをプレゼントした時の、静子夫人の書斎の隠し金庫の番号と一致することに気づいた。
悠は執事と共に再び洋館を訪れ、金庫を開いた。中には、薄暗い書斎の光に照らされた一通の手紙と、古いカセットテープが入っていた。手紙は、橘静子によって書かれたものだった。
「水瀬悠、いえ、ユウ。この手紙を読んでいるのはあなたでしょう。オルゴールが示す真実に、ようやく辿り着いたのね。私の慈善事業は、純粋なものではありませんでした。私は、完璧な子供を愛し、私の期待に応えられない子供たちは、容赦なく切り捨ててきた。寄付金も、一部は私の私腹を肥やすために使っていました。藤井は、その真実に気づいてしまったのです。彼は私を糾弾し、告発しようとした。だから私は、彼を罠にかけたのです。私は自ら姿を隠し、彼を犯人に仕立て上げようとしました。この手紙は、彼が私を脅迫し、私が自ら命を絶ったかのように見せかけるためのもの。そうすれば、彼は社会から抹殺されるでしょう。私が愛したのは、私の理想を体現する子供だけ。あなたも、ミオも、私にとってはそのための道具に過ぎなかった。このオルゴールの旋律は、私があなたたちに課した、完璧な子供でなければならないという呪縛。そして、繰り返し奏でられるあの音は、私にとっての『失敗作』、つまり、ミオの歌声の模倣です。ミオは、私の理想に合わない、自由奔放な子だった。だから、彼女は……」
手紙の途中で、文字が乱れ、続きは書かれていなかった。悠の心臓は、耳鳴りのように激しく鳴り響いていた。震える指で、彼はカセットテープをラジカセにセットし、再生ボタンを押した。
聞こえてきたのは、子供たちの楽しそうな笑い声、そして、どこか場違いなほど美しい少女の歌声。その歌声は、オルゴールの旋律とは全く違う、自由で、奔放で、魂を揺さぶるような調べだった。それは、彼の妹、ミオの歌声だった。テープには、ミオが静子夫人の慈善活動の裏側を目撃し、その真実を歌に乗せて告発しようとしていたことが記録されていた。
ミオの歌声が、悠の記憶を鮮明に呼び覚ました。静子夫人は、ミオのその「自由すぎる歌声」を疎ましく思い、その存在自体を封じようとした。ミオの失踪は、静子夫人の巧妙な策略によるものだったのだ。そして、あのオルゴールの旋律は、ミオの歌声を歪ませ、その魂を抑圧するために、静子夫人が作らせた「偽りの歌」だった。
橘静子は、慈悲深い慈善家ではなかった。彼女は、己の欲望と支配欲を満たすために子供たちを利用し、反抗する者を容赦なく排除する、冷酷な捕食者だった。そして、その犠牲者の一人が、悠の妹ミオだった。
悠は、長年信じてきた「恩人」の姿が、音を立てて崩れ去るのを感じた。そして、藤井は真の被害者であり、静子夫人の悪事を告発しようとしていた正義の人だったのだ。真実が、あまりにも残酷な形で悠の目の前に突きつけられた。彼の価値観は、根底から揺らいでいた。
第四章 真実の音色
橘静子の手紙とカセットテープは、藤井の無実を証明し、同時に彼女の悪事を白日の下に晒した。警察は静子夫人の行方を追うが、彼女は巧妙に姿をくらまし、その後の足取りは一切つかめなかった。彼女は自らの計画通り、藤井を犯人に仕立て上げ、悠の記憶を利用して、彼を絶望させようとしたのだろう。だが、オルゴールが奏でる「偽りの旋律」の中に隠された「真実の音色」が、その企みを打ち破った。
悠は、長年抱き続けてきた妹の失踪に対する苦悩と、その真の加害者が、かつて自分たちの恩人だったという事実を受け入れるのに時間がかかった。彼は、自分の記憶が、都合の良いように歪められ、真実から目を背けていたことを痛感した。あのオルゴールの旋律は、単なる郷愁の音ではなかった。それは、抑圧された過去の叫びであり、静子夫人が子供たちに課した「完璧」という名の鎖だったのだ。
しかし、ミオの歌声が録音されたカセットテープは、悠に新たな光をもたらした。ミオは、決して屈することなく、自分の声で真実を歌い続けていた。その歌声は、静子夫人の支配から自由であり、希望に満ちていた。妹は、絶望の中でさえ、強く生きていたのだ。
悠は、これまで失われた妹をただ「探し出す」ことだけを目的としてきた。しかし、真実を知った今、彼の目的は変わった。ミオが何を見て、何を伝えようとしていたのか、その全てを明らかにし、彼女の魂が安らぐ場所を見つけること。それは、もはや単なる探偵としての仕事ではなく、彼自身の人生の贖罪であり、妹への最後の約束だった。
悠のオフィスには、あの漆黒のオルゴールが置かれたままだ。だが、以前のような不穏な影はそこにはない。時折、彼が螺子を巻くと、オルゴールは相変わらずあの哀しい旋律を奏でる。しかし、悠の耳には、その旋律の奥に隠された、ミオの自由で力強い歌声が聞こえるようになっていた。それは、過去の苦しみを乗り越え、真実を見つめることの重要性を語りかける調べ。
橘静子の行方は、今も不明だ。彼女は、どこかで新たな仮面を被り、また誰かを傷つけているのかもしれない。だが、悠はもう恐れない。真実が時に残酷であっても、それを受け止め、前を向く強さを手に入れたからだ。
彼の瞳は、もはや過去の悲しみに囚われてはいない。未来を見据え、真実の光を追い求める、揺るぎない決意に満ちていた。オルゴールは、忘れられた過去の残響であり、しかし同時に、未来への静かな希望の調べを奏で続けている。