***第一章 噤まれた告白***
古びたインクと紙の匂いが満ちる書斎で、響野朔(きょうの さく)は受話器を握りしめていた。電話の向こうから聞こえる無機質な声が、彼の唯一の親友、葉山湊(はやま みなと)の死を告げていた。アトリエでの事故死。有毒な画材の吸引によるものらしい。警察はそう結論づけた。
朔の視界の隅で、黒い蝶がひらりと舞った。電話口の事務的な声の主が、ありきたりな慰めの言葉を口にした瞬間のことだ。朔にとって、それは見慣れた光景だった。彼には、人のつく嘘が、その口から飛び出す黒いアゲハ蝶として見える。その能力は、幼い頃から彼を世界から孤立させてきた。人間関係は嘘で塗り固められ、愛の告白も、励ましの言葉も、その多くが黒い羽ばたきと共に彼の前を通り過ぎていった。
だからこそ、湊の存在は奇跡だった。画家である湊は、いつも真っ直ぐな言葉で語りかけた。彼の口から蝶が舞うのを、朔はただの一度も見たことがなかった。彼は、朔が唯一心を許せる、嘘のない聖域だったのだ。
その湊が、死んだ。
数日後、朔は遺品整理のために湊のアトリエを訪れた。絵の具の油とテレピン油の匂いが混じり合った、懐かしい空間。壁には、鮮やかな色彩で描かれた湊の作品が並んでいる。太陽の光を浴びて燃えるような向日葵、深い海の碧を湛えた夜の港。彼の絵はいつも、生命力に満ちていた。
床に散らばったスケッチブックを片付けていた朔は、一枚の殴り書きを見つけた。それは、間違いなく湊の筆跡だった。震えるような文字で、こう記されていた。
『僕の絵は、嘘をついた』
朔は息を呑んだ。嘘?湊が?あり得ない。彼は嘘がつけない人間だった。朔の世界で、唯一真実だけを紡いできた男が、なぜ最期にこんな言葉を残したのか。警察は事故だと言った。だが、このメッセージは、まるでダイイングメッセージのように朔の胸に突き刺さった。
これは単なる事故ではない。この言葉に秘められた意味を解き明かさなければ、湊の死を受け入れることなどできそうになかった。朔は、自らが忌み嫌ってきた能力を、初めて親友のために使うことを決意した。無数の黒い蝶が舞う、偽りに満ちた世界へと、再び足を踏み入れる覚悟を固めて。
***第二章 舞い踊る欺瞞***
朔はまず、湊の恋人だった遠野玲奈を訪ねた。彼女は新進気鋭のキュレーターで、湊の才能を世に送り出した立役者でもあった。カフェの席で向かい合った玲奈は、目を泣き腫らし、憔悴しきっていた。
「信じられない……あんなに才能豊かな人が、あんな形でいなくなるなんて」
彼女がそう呟いた瞬間、その艶やかな唇から、漆黒の蝶がふわりと生まれた。それは優雅に宙を舞い、窓から差し込む光の中で黒曜石のようにきらめいて、消えた。朔は無表情を装いながら、内心で舌打ちした。
「湊さんは、何か悩んでいる様子はありませんでしたか」
「いいえ、全然。次の個展に向けて、すごく意欲的だったわ。『今までにない、最高の作品を描いてみせる』って……そう言っていたのに」
彼女が語る思い出話の合間にも、大小さまざまな蝶が次々と羽ばたいた。「彼を心から愛していたの」「彼のいない世界なんて考えられない」。その言葉が紡がれるたびに、黒い羽が朔の視界をちらつき、彼の心を苛んだ。玲奈の悲しみは、すべてが偽りだった。だが、それが直接、湊の死に結びつく証拠にはならない。彼女の嘘は、自己保身か、あるいは別の何かを隠すためのものか。
次に朔が会ったのは、湊のライバルと目されていた画家の倉田宗介だった。彼のアトリエは湊のそれとは対照的に、無機質で冷たい光に満ちていた。
「葉山のことは残念だよ。俺たちは競い合ってきたが、彼の才能は本物だった」
倉田の言葉は、本心らしかった。蝶は飛ばない。だが、朔が核心に触れようとすると、空気が変わった。
「彼の死を望んだことは?」
一瞬の沈黙。倉田の目が鋭く光る。
「……あるわけないだろう。あいつがいなくなって、せいせいしたなんて思っちゃいない」
小さな、しかし輪郭のくっきりとした黒い蝶が、彼の口元から飛び立った。嫉妬と、そしてライバルを失った安堵。その黒い感情は確かにある。だが、それもまた、殺意とは言い切れない。
玲奈の全面的な嘘。倉田の部分的な嘘。どちらも疑惑を深めるだけで、真相には程遠い。朔は無力感に襲われた。この能力は、嘘の存在を教えてはくれても、その裏にある動機や文脈までは教えてくれない。まるで、答えの書かれていない問題集を延々と見せられているようだった。
焦燥感に駆られながら、朔は再び湊のアトリエへと戻った。あのダイイングメッセージが、まだ彼を呼んでいる気がしたのだ。『僕の絵は、嘘をついた』。湊、お前は一体、どんな嘘をついたんだ?言葉にすれば必ず蝶が飛ぶはずなのに、なぜ俺は一度もそれを見なかったんだ?
答えを求めるようにアトリエを見渡した朔の視界に、壁にかけられた一つの作品が飛び込んできた。それは、湊の最後の作品だった。他の色彩豊かな作品群の中で、それだけが異彩を放っていた。
広大なキャンバスは、ただ、真っ白に塗りつぶされていた。
そして、その隅には小さなプレートが取り付けられていた。
タイトル、『響野朔へ』。
***第三章 色のない世界の真実***
真っ白なキャンバス。朔はそれに釘付けになった。他のどの作品よりも雄弁に、それは何かを語りかけているようだった。なぜ、これを俺に?
答えを探して、朔は湊が使っていた机の引き出しを片っ端から開けていった。そして、一番奥にしまい込まれていた、一冊の古い日記を見つけ出した。表紙には、湊の少年時代の文字で『秘密』とだけ書かれていた。
朔は震える手でページをめくった。そこに綴られていたのは、彼の想像を絶する告白だった。
『今日、美術の授業で「空は青い」と教わった。僕には、それがどんな色なのか分からない。僕の世界は、白と黒と、その間の灰色だけでできている』
心臓が氷の塊になったようだった。ページを繰る指が止まらない。日記には、湊が完全な色覚異常――全色盲であることが、克明に記されていた。彼が見ていた世界は、モノクロームの映画そのものだったのだ。
それなのに、彼は色彩の魔術師と呼ばれた画家になった。どうやって?
日記は続いていた。
『絵の具のチューブには、色の名前が書いてある。「カドミウムイエロー」「ウルトラマリンブルー」。僕はその名前と、色の持つとされる印象、例えば「黄色は暖かく、喜びの色」「青は冷たく、悲しみの色」という情報を暗記した。光の三原色、色彩理論、すべてを数学の問題のように解いた。人々が「美しい」と感じる色の組み合わせを、僕は計算で導き出した。僕の絵は、僕には見えない色彩のパズルだ』
朔は愕然とした。『僕の絵は、嘘をついた』。
その言葉の意味が、雷に打たれたように全身を貫いた。湊の画家としての人生そのものが、一つの巨大な「嘘」だったのだ。彼は、自分には見えない色鮮やかな世界を、ただひたすらな知識と想像力だけで描き続けてきた。
しかし、それは悪意のある嘘ではない。むしろ、あまりにも誠実な、悲しいまでの願いから生まれた嘘だった。人々を感動させたい。美しい世界を描きたい。その一念が、彼にモノクロの世界で色彩を創造させた。
朔は、自分の能力の限界を思い知った。彼の能力は、言葉の真偽しか判定できない。だが、湊がついていたのは、言葉に発せられることのない、存在そのものをかけた「嘘」だった。それは、朔の知る「嘘」の定義を超えていた。だから、彼の口から蝶は飛ばなかったのだ。彼の行為は、欺瞞ではなく、絶望から希望を紡ぎ出す「創造」そのものだったからだ。
***第四章 真っ白なキャンバスに寄せて***
日記の最後のページに、湊の死の真相が記されていた。
『最近、海外で開発された特殊な画材を手に入れた。特定の光を照射することで、色覚異常者でも「本来の色」を知覚できる可能性があるという。眉唾ものかもしれない。でも、もし本当なら……。一度でいい。僕が描いた向日葵の黄色が、僕の愛した海の青が、どんな色なのか、この目で見てみたい』
それが、彼の最期の願いだった。彼は、自分のついた「美しい嘘」の真の姿を、一度でいいから見たかったのだ。警察の言う通り、死因は事故だった。しかし、その背景には、一人の画家のあまりにも切実な魂の渇望があった。
玲奈の嘘は、湊の名声と財産だけが目当てだったという自己中心的なもの。倉田の嘘は、ライバルへの矮小な嫉妬心から生まれたもの。彼らの嘘から生まれた蝶は、醜く、利己的だ。
だが、湊の嘘は違った。それは、誰かを傷つけるためのものではなく、世界を美しく彩るためのものだった。彼の「嘘」は、どんな真実よりも崇高で、感動的だった。
朔は、再びあの真っ白なキャンバスの前に立った。
『響野朔へ』。
これは、全色盲である湊が、偽りなく見ていた「ありのままの世界」の姿だった。そして、彼が嘘のない唯一の親友である朔にだけ、見せたかった「真実」の姿でもあった。
朔は、涙が頬を伝うのを感じた。自分の能力が捉える「嘘」が、いかに表層的で、一面的なものだったかを思い知った。世界は、真実か嘘か、白か黒かでは割り切れない。その間には、湊が描き続けたような、無限の色彩――無限のグラデーションが存在するのだ。
古書店に戻った朔は、窓から差し込む夕陽を眺めていた。それは、部屋の埃を金色に照らし、まるで光の粒子が舞っているように見えた。彼はもう、人と話すときに相手の口元を凝視することはしないだろう。
世界には、黒い蝶の飛ばない嘘がある。そして、どんな真実よりも気高く、美しい嘘がある。
湊が遺した真っ白なキャンバスは、何もない無(む)でありながら、すべてが始まる可能性に満ちた全(ぜん)でもあった。朔は、初めて自分の能力という呪縛から解放された気がした。これから出会う人々の言葉を、その裏にあるかもしれない無数のグラデーションを、彼はただ、受け入れてみようと思った。
湊が命をかけて見ようとした色彩豊かな世界を、今度は自分が、自分の目で見つめていく。友の魂と共に。朔の心に、静かだが確かな光が灯った。それは、新しい物語の始まりを告げる光だった。
黒蝶のテゼ
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