錆び色の和音

錆び色の和音

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第一章 壊れた旋律

音には、色がある。

僕、響かなでにとって、それは呼吸をするのと同じくらい当たり前の真理だった。ドの音は純粋な白、ファの音は新緑の緑、悲しげな短調は夜の海の藍色に染まる。世界は絶えず色彩豊かな音の洪水で満たされており、僕はその中で耳を塞ぐようにして生きてきた。この「共感覚」と呼ばれる特異な知覚は、僕から音楽家になる夢を奪い、代わりに孤独な調律師という仕事を与えた。

その日、僕は古い洋館の主、高名な作曲家であるマエストロ・桐谷正響の依頼で、彼の愛器であるスタインウェイの調律に訪れていた。重厚な樫の扉をノックしても返事はない。玄関は半開きになっており、ひやりとした空気が頬を撫でた。革の鞄を握りしめ、恐る恐る中へ足を踏み入れる。静寂が支配するホールを抜け、音楽室の扉を開けた瞬間、僕の世界は激しく歪んだ。

マエストロは、ピアノの前にうつ伏せに倒れていた。その背中には、深紅の染みが醜い花のように咲いている。しかし、僕の視界を奪ったのは、その血の色ではなかった。

空間に、音が「見えた」のだ。

それは、ひとつの音ではなかった。複数の音が衝突し、捻じれ、悲鳴を上げているような、おぞましい不協和音。そして、その音は僕が今まで一度も見たことのない色をしていた。鈍く、淀み、まるで生命そのものが腐食していくかのような、ざらついた手触りさえ感じさせる『錆びた赤色』。その色は、空間に粘りつくように残留し、僕の鼓膜の奥でじりじりと焼け付くような痛みを伴って明滅していた。

これが、マエストロが死の間際に聞いた、最後の音。

僕の全身が、理解を超えた恐怖に総毛立った。これは単なる物音ではない。誰かが意図して作り出した、殺意の旋律だ。僕の呪われたこの耳だけが、その無言のメッセージを捉えてしまっていた。

第二章 無色の容疑者たち

警察の捜査は、ありきたりなものだった。現場の状況から、顔見知りによる強盗殺人の線が濃厚だとされた。僕が「現場に奇妙な音が残っていた」と震える声で訴えても、年配の刑事は「気のせいだろう」と一蹴した。当たり前だ。音に色が見えるなんて、狂人の戯言にしか聞こえないだろう。

絶望が胸を覆い尽くす中、一人だけ、僕の話に耳を傾ける刑事がいた。月島と名乗る若い刑事だ。彼は僕の目を見て、「その『錆びた赤色』の音について、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」と真剣な表情で言った。彼の声は、澄んだ水色をしていた。嘘のない、誠実な色だ。

僕は初めて、自分の能力について他人に詳しく語った。月島刑事は眉間に皺を寄せながらも、熱心にメモを取っていた。彼の協力のもと、僕はマエストロの周辺人物に会って「音」を聞かせてもらうことになった。犯人があの不協和音を奏でたのなら、その人間の音にも『錆びた赤色』の片鱗が宿っているはずだと考えたからだ。

最初に会ったのは、マエストロの一番弟子である早乙女だ。彼は師の死に憔悴しきっていたが、僕の頼みに応じてピアノを弾いてくれた。彼の奏でるショパンは、悲しみに濡れた深い紫紺の色をしていた。次に、マエストロの妻。彼女のすすり泣く声は、ガラスのように脆く、淡い灰色のグラデーションを描いていた。最後に、長年のライバルだった指揮者。彼の声は、嫉妬とプライドが混じり合った、濁った黄土色をしていた。

誰もが、怪しかった。誰もが、動機を持っているように見えた。

しかし、決定的な手がかりはどこにもなかった。彼らの音には、悲しみや嫉妬、後悔の色はあっても、あの魂を腐らせるような『錆びた赤色』は微塵も含まれていなかったのだ。

自分の能力は、やはり何の役にも立たないのか。あれは単なる幻聴で、僕はマエストロの死の衝撃で錯乱しただけなのかもしれない。自己嫌悪が霧のように立ち込め、僕の見る世界から色彩を奪っていく。これまで呪わしいとさえ思っていた音の色が、今はひどく恋しかった。無音で無色の世界は、死んでいるのと同じだった。

第三章 共鳴する虚無

捜査が行き詰まり、僕が諦めかけた数日後の夜。月島刑事が僕のアパートを訪ねてきた。

「響さん、もう一度だけ、現場に行ってみませんか。何か見落としていることがあるかもしれない」

彼の言葉に、僕は重い身体を引きずるようにして、再びあの洋館へ向かった。

月明かりが差し込む音楽室は、あの時と同じように静まり返っていた。ただ、そこにはもう『錆びた赤色』の残滓はなかった。時間は、音の色を洗い流してしまう。僕は、まるで故人を偲ぶように、マエストロのスタインウェイの前に座った。冷たい象牙の鍵盤に指を触れる。

「犯人は、どんな音を出したんだろう……」

僕は記憶を手繰り寄せ、あの不快な和音を再現しようとした。いくつかの音を同時に叩く。だが、どれも違う。生まれる色は、どす黒い紫や、汚泥のような茶色ばかり。あの独特の『錆びた赤色』にはならない。

なぜだ? 何が違う?

焦りと苛立ちで、僕は鍵盤をめちゃくちゃに叩いた。その時だった。

ゴーン……。

部屋の隅に置かれた大きな古時計が、厳かに時を告げた。その古びた、しかし深みのある鐘の音。それは、長い年月を吸い込んだような、温かみのあるセピア色をしていた。

そのセピア色の音色が、僕が叩いた不協和音の残響と混じり合った瞬間――僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。

見えた。

一瞬だけ、確かに見えたのだ。あの、忌まわしい『錆びた赤色』が。

「そうか……!」

僕は叫んでいた。

「一つの音じゃなかったんだ! 二つの音が重なって、初めて生まれる色だったんだ!」

犯人は、ピアノの音だけであの色を生み出したのではなかった。マエストロを殺害したあの瞬間、偶然にも、あるいは意図的に、この古時計の鐘が鳴るタイミングを計算していたのだ。ピアノの特定の不協和音と、古時計の鐘の音。その二つが完全に重なり合った時にだけ、あの『錆びた赤色』は生まれる。

そして、僕はもう一つの事実に気づいて戦慄した。この完璧なタイミングを計算し、実行できる人間。それは、秒単位で音の構成を組み立てる能力に長けた、ある種の天才しかいない。

「月島さん……犯人が、わかりました」

犯人は、早乙女だった。マエストロの一番弟子。彼は師から常に「お前の音には魂がない。技術は完璧だが、空っぽだ」と酷評され続けていた。そのコンプレックスが、彼を歪んだ方向へと駆り立てたのだ。彼は、音で人を殺せることを証明することで、師を超えようとした。

彼が犯行時に奏でたのは、技術の粋を集めた、しかし感情の全くない、空虚な不協和音だった。その「無機質な音」と、古時計が刻んできた「時間の重みを持つ音」。全く異質な二つの音が共鳴した時、生命の温かみを否定するかのような、あの苦しみに満ちた『錆びた赤色』が生まれたのだ。

第四章 世界に満ちる音

早乙女との対峙は、警察署の殺風景な取調室で行われた。彼は最後まで冷静だった。自分の犯行を、まるで一つの芸術作品を完成させたかのように語った。

「先生は、私の音楽を理解しなかった。だから、教えて差し上げたのです。音が、魂を直接破壊できるということを」

彼の声は、もはや色を失い、完全に透明になっていた。それは、あらゆる感情が抜け落ちた、恐ろしい虚無の色だった。

僕は、震える唇で彼に告げた。

「あなたの奏でた音は……あなたの音楽は、醜く錆びついた、苦しみに満ちた色をしていました。それは、僕が今まで見た中で、最も悲しい色でした」

その言葉を聞いた瞬間、早乙女の完璧な仮面が初めて崩れた。彼の瞳が大きく見開かれ、動揺が走る。彼は共感覚を持たない。自分の生み出した音楽が、どんな「結果」を世界にもたらしたのかを、知る由もなかったのだ。ただ完璧な理論を組み立てただけの彼の耳には、美しい不協和音としてしか聞こえていなかったのかもしれない。その音が、断末魔の叫びと同じ色をしていたとも知らずに。

事件は解決した。しかし、僕の心には、重い沈黙が残った。

数日後、僕は自分の部屋で、久しぶりにピアノの蓋を開けた。これまで呪いだと思っていた自分の能力が、マエストロの魂の叫びを掬い上げ、真実を明らかにした。それは、紛れもない事実だった。

僕はそっと、鍵盤に指を置いた。

ポロン、と弾いたドの音は、やはり純粋な白だった。悲しい和音を奏でれば、深い藍色が広がる。喜びの旋律は、光り輝く黄金の雨となって降り注ぐ。

そして、僕は思い出す。あの『錆びた赤色』を。

それは醜く、おぞましい色だった。だが同時に、それは失われた命が最後に遺した、精一杯のメッセージでもあった。世界は美しい音色だけで出来ているわけじゃない。不協和音も、悲鳴も、沈黙さえも、この世界を構成する一つの「音」なのだ。

僕は、自分の能力を、呪いでも祝福でもなく、ただありのままに受け入れようと思った。この目で音の色を見つめ、この耳で世界の本当の姿を聴き続ける。それこそが、音楽を愛しながらも一度は背を向けた僕に与えられた、新しい道なのかもしれない。

窓の外では、街の喧騒が様々な色を伴って響いていた。僕は静かに目を閉じ、その色彩の洪水に身を委ねる。そして、これから僕自身が生み出す音楽には、一体どんな色が宿るのだろうかと、ほんの少しだけ、未来に思いを馳せた。世界は、かくも豊かで、かくも切ない音に満ちている。

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