残響のカルテ

残響のカルテ

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第一章 雨音のノイズ

「音」は嘘をつかない。

人間は表情を作り、言葉を飾り、記憶さえも改竄する。だが、その瞬間に空気を震わせた周波数だけは、残酷なまでに真実を記録し続ける。

僕はヘッドフォンを少しだけずらし、湿った咳払いをした。

地下室特有の、埃とカビが混じった匂いが鼻をつく。モニターに映し出された波形は、深海生物のように青白く発光しながら、不規則なスパイクを刻んでいた。

「……それで、警察はこのボイスレコーダーを『証拠能力なし』と判断したわけですか」

カウンター越しに座る依頼人、相沢美月(あいざわ みづき)は、膝の上で握りしめたハンカチをじっと見つめていた。喪服の黒が、彼女の白すぎる肌を際立たせている。

「はい。父は……自殺でしたから」

消え入りそうな声。だが、僕の耳は彼女の声帯が僅かに震え、緊張によって喉が締め付けられている音を拾った。悲しみだけではない。そこには「恐怖」に近い何かが混じっている。

「父が亡くなっていたアパートの部屋に、これが遺されていました。再生しても、ただの雑音しか聞こえないんです。でも……」

彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で僕を射抜いた。

「父は、私に何かを伝えようとしていたはずなんです。あんなふうに、黙って逝く人じゃなかった」

僕は溜息を殺し、依頼されたICレコーダーを指先で回した。チープな量産品だ。表面には細かい傷が無数についている。

僕、瀬名(せな)律(りつ)の職業は「音響解析士」。

表向きは古いレコードの修復やノイズ除去を請け負うエンジニアだが、裏では警察や探偵がさじを投げた音声データの解析を行っている。世間では「耳の探偵」なんて呼ばれることもあるが、やっていることは音の死体解剖に近い。

「解析料は高いですよ。それに、知りたくない真実が掘り起こされることもある。それでも?」

「お願いします。私は、父が私たち家族を捨てた理由を……最期の瞬間に何を思っていたのかを、知りたいんです」

彼女の覚悟を確認し、僕はレコーダーを専用の端子に接続した。

PCがデータを読み込む。波形が表示される。

『ザザッ……ザ……ブツッ……』

スピーカーから流れたのは、耳障りなホワイトノイズだけだった。意図的に録音された「無」の音。あるいは、マイクが壊れていたか。

だが、僕の「左耳」だけが反応した。

事故で視力を一部失った代償なのか、あるいは神様の気まぐれか、僕の左耳は可聴域を超えた周波数の揺らぎを、まるで「色」のように感じ取ることができる。

このノイズの中に、色が混じっている。

灰色の中に、微かな「赤」。

「……隠されていますね」

「え?」

「このノイズは、意図的に被せられたものです。何重もの音の層(レイヤー)で、一番下にある『本当の音』を塗りつぶしている」

僕はキーボードを叩き始めた。

ノイズキャンセリングのアルゴリズムを走らせ、特定の周波数を削ぎ落としていく。

音の化石発掘が始まった。

第二章 空白の十三年

美月の父、相沢修平(しゅうへい)が姿を消したのは十三年前のことだ。

当時、彼は町工場を経営していたが、多額の借金を抱えて失踪したとされていた。残された美月と母は、親戚の家を転々とし、苦労を重ねてきたという。

「父は優しい人でした。日曜には必ずピアノを弾いてくれて……。だから、借金を苦にして蒸発したなんて、信じられなかった」

解析が進むにつれ、ノイズの皮が一枚ずつ剥がれていく。

第一層のノイズを除去した時、聞こえてきたのは「風の音」だった。

ヒュウウウ、という乾いた風。それに混じって、遠くで電車の走行音が聞こえる。

「これは……海風ですね。それも、かなり高い場所。そして、この独特なジョイント音……京浜急行線か」

僕はモニター上の地図と波形を照らし合わせる。

「場所は特定できそうです。三浦半島の先端。おそらく、灯台の近く」

「父が見つかったアパートとは、全然違う場所です」

美月が身を乗り出す。

さらに解析を進める。第二層のノイズを取り除く。

今度は、より生活感のある音が現れた。

『……よし、これでいい』

掠れた、老人のような男の声。

「お父さんの声ですか?」

「……はい。でも、私の知っている父の声より、ずっと年老いて聞こえます」

その声の背景に、カチ、カチ、という規則的な金属音が混じっている。

「工場の旋盤(せんばん)……いや、違うな」

僕はヘッドフォンのボリュームを上げた。金属音のリズムが、どこか音楽的だ。

「これは、オルゴールだ」

「オルゴール?」

「誰かが手作業でオルゴールのシリンダーにピンを埋め込んでいる音です。躊躇いがない。熟練の職人の仕事だ」

相沢修平は、失踪後、どこかでオルゴールを作っていたのか?

借金から逃げるために?

だが、僕が感じた「赤」の正体は、これではない。

もっと奥。もっと深く、押し殺された音がある。

「相沢さん。ここから先は、少し覚悟が必要です」

僕は美月を見た。彼女は蒼白な顔で、それでも小さく頷いた。

第三層のフィルターを解除する。

そこにあったのは、決定的な「事件」の音ではなく、あまりにも静かな「日常」の断片だった。

『……み、づ、き……』

男が呟いている。

『きょうは、あめ。……みづきは、かさを、もったか』

その声は、独り言にしては必死すぎた。まるで、忘れてしまいそうな言葉を、無理やり繋ぎ止めているような。

「父は……何を?」

「記録です」

僕は波形の一点を拡大した。

「このデータの日付を見てください。失踪した直後から、亡くなる数日前まで、十三年間にわたって断続的に録音されています。彼は、毎日あなたたちの名前を呼んでいた」

『……えみこ。すまない。……おれは、もう……』

苦悶の声。

その背後で、ガサガサという紙をめくる音。そして、ペンが走る音。

「これは推測ですが」

僕は言葉を選びながら告げた。

「お父様は、認知症を患っていたのではありませんか。それも、若年性の」

美月が息を呑む。

「音が教えてくれています。彼は、自分の記憶が砂のようにこぼれ落ちていく恐怖と戦っていた。メモを取り、それを読み上げ、録音して確認する。それを毎日繰り返していた」

「そんな……だって、失踪した時はまだ四十代でしたよ!?」

「だからこそ、家族に知られたくなかったのかもしれない。自分が壊れていく姿を、最愛の娘に見せたくなかった。借金という汚名を被ってでも、あなたたちの未来を守るために、自ら姿を消した……」

そこまで言って、僕は違和感を覚えた。

美談だ。辻褄は合う。

だが、それならなぜ、最後にこの「ノイズ」を被せた?

ただの記録なら、そのまま遺せばいい。

なぜ、意図的にかき消す必要があった?

まだ奥がある。

僕の左耳が、警告音のような耳鳴りを拾っていた。

「まだ終わりじゃありません。……最深部に、もう一つ音が隠されています」

第三章 透明なノイズ

最後のレイヤーは、強固な暗号化に近い処理が施されていた。

周波数を反転させ、さらに時間を引き伸ばして圧縮している。

これは、素人の技ではない。

「お父様は、音響機器に詳しかったんですか?」

「いえ、機械は苦手な人でした。ビデオの予約も母に頼むくらいで……」

なら、誰が?

いや、違う。

僕は波形のパターンに既視感を覚えた。

これは「消そうとした」んじゃない。「守ろうとした」んだ。

ノイズの殻を割り、中から現れたのは、十三年前のあの日、彼が失踪した日の「音」だった。

『……おい、修平。約束が違うじゃないか』

低い、威圧的な男の声。

『金は用意した。これで、あの子たちには手を出すな』

修平の声だ。気丈に振る舞っているが、震えている。

『ハッ、この程度の端金で? 工場の権利書も置いていけよ』

揉み合う音。何かが倒れる音。

そして、決定的な音が響いた。

『ドスン!』

重いものが床に倒れる音。

続いて、荒い息遣い。

『……し、死んでる……』

修平の怯えた声。

美月が口元を押さえて立ち上がった。

「父が……人を殺したの?」

「聞いてください。最後まで」

録音は続く。

『……いや、違う。俺がやったんじゃない。あんた、勝手に転んで……』

その時、背後で微かな音がした。

『……パパ?』

幼い少女の声。

美月が、凍りついたように動かなくなった。

「これ……私の声……?」

『美月! 見るな!』

修平の絶叫。

そして、少女の泣き声。

僕はすべてを悟った。

パズルのピースが、嫌な音を立てて嵌っていく。

「十三年前、事務所に来た借金取りと揉み合いになったのは、お父さんじゃない。……あなただ、美月さん」

「え……?」

「幼かったあなたは、父親が責められているのを見て、突き飛ばしてしまった。あるいは、足元に何かを投げた。借金取りは転倒し、打ち所が悪くて亡くなった」

『美月、いいか。何も見ていない。お前は何もしていない。全部パパがやったんだ』

録音の中の修平は、必死に娘に言い聞かせていた。

『忘れるんだ。これは悪い夢だ。パパが全部持っていくから』

修平は、娘の罪を被ったのではない。

娘の「記憶」を守るために、罪と共に消えたのだ。

ショックで解離性健忘を起こした娘の記憶が蘇らないよう、彼は自分を悪者にし、二度と会わない選択をした。

そして、この録音データ。

これは、彼にとっての「保険」だったのだ。

もし自分が捕まれば、警察は現場検証で娘の痕跡を見つけるかもしれない。その時、「自分がやった」という嘘がバレないよう、現場の音声を加工し、自分の指紋だけを残すように工作した……いや、違う。

この複雑なノイズ処理は、彼にはできない。

「……誰が、この処理を?」

その時、モニターの波形が奇妙な形を描いた。

モールス信号のような、断続的なパルス。

『……頼む、律。このデータを、葬ってくれ』

僕の心臓が早鐘を打った。

その声は、聞き覚えのあるものだった。

「……父さん?」

死んだはずの僕の父。かつて伝説的な音響解析官だった父の声。

十三年前。父は、ある事件の証拠品を隠滅した疑いをかけられ、警察を追われた。

その事件こそが、相沢修平の失踪事件だったのだ。

相沢修平は、僕の父の友人だった。

父は、友人の娘(美月)を守るために、証拠となるこの音声を極限まで加工し、ノイズの中に隠した。

そして、それを修平に持たせた。

「万が一、美月が罪に問われそうになった時だけ、これを使え。それまでは、誰にも聞かせるな」と。

修平が最期までこのレコーダーを手放さなかったのは、美月を守るためのお守りだったからだ。

最終章 サヨナラの周波数

「……思い出しました」

長い沈黙の後、美月が呟いた。

涙は流れていなかった。ただ、瞳の光が揺れている。

「あの日、私は……怖い男の人に突き飛ばされた父を見て、近くにあったスパナを……」

彼女は両手を見つめる。

「父は、私を守ってくれたんですね。自分の人生を全部捨てて。私の記憶に蓋をして……」

「そして、僕の父も共犯者でした。二人の父親が、あなた一人の未来を守るために、それぞれの人生を犠牲にした」

僕はモニターの画面を閉じた。

「このデータは、修復不可能でした」

「……え?」

「ノイズが酷すぎて、何も聞こえなかった。ただの故障したレコーダーです。……そう報告書には書きます」

僕はSDカードを抜き取り、強力な磁気装置にかざしてデータを完全に破壊した。

「いいんですか? これは、真実なのに」

「音は嘘をつきませんが、沈黙が優しさになることもあります。お父様たちが守り抜こうとしたものを、僕が暴くわけにはいきません」

美月はようやく、大粒の涙をこぼした。

それは、十三年分のため息が形になったような、重く、温かい涙だった。

帰り際、彼女はドアの前で立ち止まった。

「あの……ノイズの中に、歌は聞こえませんでしたか?」

「歌?」

「父が、よく歌ってくれた子守唄です。……聞こえたような気がしたんです」

僕は微笑んで、少しだけ嘘をついた。

「ええ、聞こえましたよ。とても下手くそだけど、温かいハミングが」

本当は、聞こえていた。

最期のレイヤーの、さらに奥。

息を引き取る直前の修平が、薄れゆく意識の中で、繰り返し、繰り返し口ずさんでいたメロディ。

『……ララ……ラ……みづき……あいしてる……』

それはノイズなどではない。

世界で一番美しく、透明な、愛の音色だった。

雨が上がった。

地下室の天窓から、細い陽の光が差し込み、埃がキラキラと舞っている。

僕はヘッドフォンを置き、静寂という名の音楽に耳を澄ませた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 瀬名律 (Sena Ritsu): 音響解析士。過去の事故で視力を一部失う代償に、左耳で可聴域外の音や「音の感情」を聞き取る能力を持つ。シニカルだが、根は情に厚い。
  • 相沢美月 (Aizawa Mizuki): 依頼人。13年前に父が失踪し、苦労して育った。父の死に疑問を持ち、遺品のレコーダーを持ち込む。過去のトラウマにより記憶の一部が欠落している。
  • 相沢修平 (Aizawa Shuhei): 美月の父。借金苦で失踪したとされていたが、実際は娘の罪を被り、若年性認知症と戦いながら孤独に死んだ。

【考察】

  • ノイズのメタファー: 本作における「ノイズ」は、単なる雑音ではなく「隠された愛」や「つらい真実を覆う優しさ」の象徴として描かれている。ホワイトノイズがすべての周波数を含むように、父の愛もまた、娘の人生のすべてを包み込んでいたことを示唆する。
  • 「音は嘘をつかない」という逆説: 冒頭で提示されたこのテーゼは、結末において「音(データ)は真実を語るが、それを扱う人間(律)は優しさのために沈黙(嘘)を選ぶ」という形で裏切られる。これは、客観的な事実よりも主観的な救済を優先するハードボイルドな美学への回帰である。
  • 二人の父親の対比と共鳴: 律の父と美月の父は、共に「子供の未来を守るために汚名を被る」という選択をした。律がデータを破壊する行為は、亡き父との和解であり、継承の儀式でもある。
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