硝煙の恋文(ラブ・レター)

硝煙の恋文(ラブ・レター)

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第一章 硫黄と沈黙

慶応四年、春。

江戸の空は、鉛色に曇っていた。

湿った風が、硫黄と炭の匂いを運んでくる。

下谷の裏長屋にある花火屋『玉屋』の蔵。

想次(そうじ)は、黙々と乳鉢を擂(す)っていた。

ザリ、ザリ、ザリ。

黒色の粉末が、彼の指先を夜のように染めている。

「想次、また配合を変えたのかい?」

背後から、鈴を転がしたような声がした。

振り向くと、木戸の隙間から陽光が差し込んでいる。

その光の中に、紗夜(さよ)が立っていた。

想次は手を止め、小さく頷く。

言葉は出ない。

生まれつき、彼の喉は音を忘れている。

だが、想次には特異な才能があった。

「……綺麗な音だね」

紗夜が乳鉢を覗き込む。

「この音、深い藍色(あいいろ)がする」

彼女は知らない。

想次にとって、音は色として視えることを。

そして、紗夜の声が、世界で最も美しい「茜色」であることを。

「父上が言っていたわ。もうすぐ、上野で戦(いくさ)が始まるって」

紗夜の表情が曇る。

彼女は旗本、小栗家の娘だ。

本来なら、こんな煤(すす)だらけの長屋に来られる身分ではない。

「江戸中の花火が禁止された。お前たちの仕事も、これでおしまいね」

想次は、懐から一枚の和紙を取り出した。

そこには、炭で描かれた設計図がある。

「……まだ、作るつもり?」

想次は、強く頷いた。

ただの一発。

たった一発だけ。

誰にも見られず、夜空に溶けるような花火を。

紗夜は、着物の袖から小さな包みを取り出した。

「これを、使って」

包みを開くと、そこには鮮やかな緑色の結晶があった。

「南蛮渡来の硝子(ガラス)の粉。混ぜると、色が綺麗に出るって聞いたの」

想次は目を見開く。

それは、高価なバリウム化合物だった。

緑色の炎を生むための、禁断の材料。

「作って、想次。私のために、一番綺麗な花火を」

彼女の茜色の声が、想次の胸の火薬に引火した。

第二章 禁じられた配合

五月十五日。

雨が降っている。

上野の山から、断続的に砲音が響いていた。

彰義隊と新政府軍の戦いが始まったのだ。

ドーン。

ドーン。

その音は、想次の目には「濁ったドブ色」に見えた。

美しくない。

人を殺すための火薬の音は、こんなにも汚い色をしている。

想次は蔵の中で、最後の仕上げに取り掛かっていた。

五寸玉。

芯には、紗夜がくれた緑の粉。

外側には、想次が精製した深い藍色の星。

「逃げろ! ここも火の海になるぞ!」

表通りで誰かが叫んでいる。

想次は手を止めない。

麻紐で玉を縛り上げる指に、力がこもる。

(逃げるのは、俺じゃない)

紗夜は、今夜、江戸を離れる。

敗軍の将の娘として、密かに船で脱出すると聞いていた。

隅田川を下る船から、この空が見えるはずだ。

言葉を持たない想次にとって、これは手紙だった。

『生きてくれ』

その一言を伝えるための、命懸けの配合。

ガラッ!

不意に戸が開いた。

新政府軍の兵士が二人、土足で踏み込んでくる。

「おい! ここに火薬があるな!」

「徴収する! 全て出せ!」

想次は、五寸玉を背中に隠した。

「あ? なんだその態度は」

兵士がサーベルに手をかける。

想次は首を振った。

「口がきけねえのか。……おい、後ろに何を隠した」

見つかれば、没収される。

それどころか、敵への合図を送る間者として斬り捨てられるだろう。

想次は、作業台にあった黒色火薬の壺を掴んだ。

そして、それを迷わず床に叩きつけた。

バァァァン!!

粉塵が舞い上がる。

「うわっ! なんだ!?」

兵士が怯んだ隙に、想次は蔵を飛び出した。

背中の五寸玉の重みだけが、彼を現世に繋ぎ止めている。

雨は強くなっていた。

だが、想次の心臓は、導火線のように熱く焼けていた。

第三章 鐘楼の決意

目指すは、火の見櫓(やぐら)ではない。

もっと高く、もっと川に近い場所。

焼け落ちた寺の鐘楼だ。

想次は泥濘(ぬかるみ)を駆ける。

遠くに見える上野の山は、既に紅蓮の炎に包まれていた。

「お嬢様、早く!」

「いやよ! 想次が……約束したの!」

川沿いの柳の木陰。

微かに、その声が聞こえた気がした。

(紗夜……!)

想次の視界に、茜色の波紋が広がる。

彼女はまだ、待っている。

船に乗らず、この雨の中で。

想次は鐘楼をよじ登った。

柱は半ば焦げ、足場は崩れかけている。

頂上に着くと、眼下には地獄が広がっていた。

燃える江戸の町。

逃げ惑う人々。

だが、隅田川の暗がりだけが、静寂を保っている。

そこに、一艘の小舟が見えた。

想次は、筒を設置する。

鉄製の打ち上げ筒。

重かった。ここまで運ぶのに、肩の皮が剥けて血が滲んでいる。

震える手で、火種を取り出す。

雨風が容赦なく吹き付ける。

(消えるな……頼む、消えないでくれ)

火縄の先が、蛍のように赤く瞬く。

彼は、空を見上げた。

分厚い雨雲。

黒い煙。

この世界は、いつだって想次から光を奪ってきた。

言葉を奪い、親を奪い、平穏を奪った。

だが、色だけは残してくれた。

想次は、五寸玉を筒に滑り込ませた。

シュゥゥ……。

導火線が燃える音。

それは、想次にとって「純白」の音だった。

「……あ……」

喉の奥から、にならない音が漏れる。

(紗夜)

彼は火種を、導火線の根本に押し付けた。

ドンッ!

腹の底に響く発射音。

光の塊が、雨を切り裂いて昇っていく。

高く。

より高く。

煙を突き抜け、雲さえも焦がすほどに。

第四章 硝煙の恋文

ヒュルルルル……。

笛の音が鳴り響く。

小舟の上で、紗夜は空を見上げた。

「……馬鹿よ、想次」

涙が雨と混ざって頬を伝う。

ドンッ、パァァァン!

暗黒の空に、花が咲いた。

それは、見たこともない色だった。

外側には、深い藍色の波紋。

静寂と、深い愛情を表す夜の色。

そして、その中心から遅れて開いたのは、鮮烈な翠(みどり)。

藍と翠。

二つの色が交じり合い、一瞬だけ、ありえない色を生み出した。

それは、紗夜が着ていた着物の柄と同じ。

『想い草』の色。

「綺麗……」

船頭が思わず竿を止めて見惚れるほど、それは神々しかった。

戦火の赤黒い空にあって、その花火だけが、凛として澄み渡っていた。

音は、遅れて届いた。

パラパラパラ……。

星が燃え尽きる音が、まるで囁くように川面に降り注ぐ。

『愛している』

『さようなら』

『生きて』

言葉のない想次の声が、光となって紗夜の網膜に焼き付いた。

「行きますよ、お嬢さん! 追っ手が来る!」

船が動き出す。

紗夜は、いつまでも空を見上げていた。

煙の彼方に消えていく、残像を抱きしめるように。

第五章 残り香

鐘楼の上。

想次は大の字になって空を仰いでいた。

筒は熱を持ち、白い煙を上げている。

「おい! そこに誰かいるな!」

下から、兵士たちの怒声が聞こえる。

鉄砲の構える音。

想次は、ゆっくりと目を閉じた。

瞼の裏には、まだあの緑と藍が焼き付いている。

そして、耳には残響が。

(……届いたか?)

ふと、風向きが変わった。

川の方角から、微かな色が流れてくる。

それは「茜色」。

『ありがとう』

幻聴かもしれない。

けれど、想次の唇は、自然と弧を描いていた。

彼は懐から、残った硝子の粉を取り出し、風にさらした。

キラキラと光る粉が、灰色の世界へ飛んでいく。

「撃てーッ!」

銃声が轟く。

だが、想次にはもう、その音は聞こえなかった。

彼の世界は今、鮮やかな極彩色に満たされていたから。

硝煙の匂いの中に、確かに甘い花の香りがした。

それは、二人が初めて出会った日の、沈丁花の香りだった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 想次(そうじ): 老舗花火屋『玉屋』の職人。先天的に声が出せないが、音を「色」として知覚する共感覚を持つ。その瞳で見る世界は極彩色であり、花火の配合において天才的な色彩感覚を発揮する。職人気質で頑固だが、内面は情熱的。
  • 紗夜(さよ): 旗本・小栗家の娘。好奇心旺盛で、身分違いの想次の元へ化学(火薬の調合)への興味から通うようになる。芯が強く、時代の波に翻弄されながらも自分の意志を貫こうとする。

【考察】

  • 「音」と「色」の逆転: 本作では、本来聞こえるはずの「爆発音」が戦争の象徴(汚い色)として描かれ、本来見えない「想い」が花火の色彩として可視化されている。想次にとって花火は、失われた「声」の代替機能以上の意味を持つ。
  • 藍と翠(みどり)のメタファー: 藍色は「ジャパン・ブルー」として庶民の生活や静寂を象徴し、翠(バリウムの緑炎)は当時の日本では珍しい西洋化学の象徴である。この二色の融合は、伝統的な職人と武家の娘、あるいは旧時代と新時代の融合を示唆しており、決して結ばれない二人の運命が一瞬だけ交錯した奇跡を表現している。
  • 歴史的背景との対比: 上野戦争という「破壊の火」に対し、花火という「美の火」を対置させることで、暴力に対する芸術や愛の儚い抵抗を描いている。
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