第一章 漆黒の深淵
「先生、呼吸が浅いです。一度外へ出ましょう」
担当編集者の美咲の声が、どこか遠くで反響している。
発掘現場特有の、濡れた土とカビの腐臭。
それが鼻孔にへばりつき、俺の嘔吐中枢を直接撫で回していた。
「……構うな」
革手袋をはめた指先が、痙攣したように跳ねる。
ここに埋まっているのは、ただの遺物じゃない。
二千年前の絶叫だ。
飢餓、寒冷、疫病。それらが泥炭層に圧縮され、『情念の残滓』となって俺の神経を逆撫でする。
「ですが、顔色が……」
「ブツを見せろ。早く」
俺の焦燥に圧されたのか、作業員たちが無言で木箱の梱包を解く。
重々しい音と共に、蓋が開かれた。
その瞬間。
テント内の空気が、真空パックされたように張り詰めた。
「……なんだ、これは」
現場監督の権藤が、しわがれた声で呻く。
そこに在ったのは、錆びついた銅鏡ではない。
光を一切反射しない、空間に穿たれた『穴』のような漆黒。
黒曜石の鏡。
いや、石ですらない。
その表面は、視線を向けると網膜が滑り落ちるほどに滑らかで、それでいて不規則に脈動しているように見えた。
(呼んでやがる)
俺の鼓膜の奥で、耳鳴りがハウリングを起こす。
キィィィィィン。
不快な高周波。
「ありえない……」
美咲が口元を覆う。
「弥生時代に、こんな完全な平面加工なんて……」
俺は無意識に一歩踏み出していた。
触れなければ。
この黒い深淵の底に指を突き入れ、そこに沈んでいる『何か』を引きずり出さなければならない。
「香月先生、手袋を!」
俺が素手を晒したのを見て、権藤が血相を変えて飛びかかってきた。
「国宝級だぞ! 皮脂がついたらどうする!」
「放せ!」
俺は権藤の腕を振りほどいた。
正気ではない。自分でもわかっている。
だが、強烈な渇きが理性を焼き切っていた。
喉が渇いた時に水を求めるように、俺の脳髄がその『黒』を欲している。
「先生、おかしいですよ!」
美咲が俺の腰にしがみつく。
邪魔だ。どいつもこいつも。
俺は美咲を乱暴に突き飛ばした。
彼女が悲鳴を上げて道具箱に倒れ込む。
「触らせろ……確かめなきゃいけないんだ!」
狂人の形相で、俺は黒い鏡面に右手を叩きつけた。
冷たい。
液体窒素に触れたような、痛みを伴う冷気。
直後。
俺の視界から、色が消えた。
テントも、美咲も、権藤もいない。
鼻をつく土の臭いが、鋭利で無機質な『金属臭』に塗り替えられる。
錆びた鉄の味じゃない。
もっと人工的で、完璧な滅菌室の臭い。
(……接続、承認)
頭の中に、女の声が響いた。
言葉ではない。
膨大なデータパケットが、直接脳神経に流し込まれる感触。
ドロリとした何かが、鼻から垂れた。
鼻血だ。
脳の処理能力を超えた情報量が、俺の肉体を破壊し始めている。
「が、あぁぁぁ……!」
視界の端で、風景がバグる。
ノイズ混じりの灰色の空。
そして、その下で蠢く『何か』を見た。
第二章 汚染
「うぐっ……オェッ」
胃の中身をぶちまける音で、俺は現実に引き戻された。
自分の足元が吐瀉物で汚れている。
「先生! 救急車! 誰か!」
美咲の悲鳴が聞こえる。
だが、俺の目は焦点が合わなかった。
現実の風景の上に、さきほどの『ビジョン』が半透明に重なっている。
あれは、戦場ではなかった。
地獄だ。
弥生人の服を着た男が、自分の腕を石器で削いでいる。
叫び声はない。
彼は、まるで極めて合理的な作業を行うように、無表情で自らの筋肉繊維を解体し、観察していた。
『筋肉の収縮構造……非効率だ……』
傍らでは、母親が赤子を抱いている。
だが、あやしているのではない。
赤子の首の角度を、奇妙な数式に合わせてねじ曲げようとしている。
『角度修正。これで完全な円環に……』
狂気?
違う。
これは『高度すぎる知性』だ。
彼らは、何かを知ってしまった。
人体の構造、物理法則、宇宙の真理。
そのあまりに巨大な『正解』をインストールされた結果、人間としての倫理や感情がバグり、ただの物質として世界を再構築しようとしているのだ。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れる。
これが、邪馬台国の正体か。
卑弥呼が封印したのは、悪霊なんかじゃない。
『情報ウイルス』だ。
空を見上げると、銀色の巨大な構造体が浮いていた。
雲を裂き、地上を静かに見下ろす『目』。
そこから青白い光が降り注ぐたび、地上の人々が蒸発していく。
あれは侵略ではない。
消毒だ。
バグを起こした生態系を、初期化するための焼却処分。
「先生、しっかりしてください!」
権藤が俺の頬を叩く。
その痛みで、ようやく二重写しのビジョンが薄れた。
「鏡を……」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、呻くように言った。
「鏡を、割れ」
「は?」
権藤が目を剥く。
「何言ってるんだ! 救急車が来るまでじっとしてろ!」
「あれは受信機だ……! まだ繋がってる……!」
俺にはわかる。
黒曜石の鏡が、微細に振動しているのを。
俺という『適合者』を見つけ、残りのデータを全て流し込もうと待機している。
もし、あれが完全に起動したら?
この場所を中心に、半径数キロの人間の脳が『知性の過剰摂取』で焼き切れる。
美咲も、権藤も、あんな風に自らを解体し始める。
「どけ!」
俺はよろめきながら立ち上がった。
足元にあったツルハシを掴む。
鉄の重みが、手のひらに食い込む。
「やめろ! 何をする気だ!」
権藤が立ちはだかる。
「殺す気か! どいてろ!」
俺は権藤を突き飛ばし、ツルハシを振り上げた。
筋肉が悲鳴を上げる。
だが、それ以上に脳が『やめろ』と叫んでいた。
鏡からの甘美な誘惑。
『知りたいだろう?』
『宇宙の果てを。生命の設計図を。全てを理解したくないか?』
「……うるせええええッ!」
俺は誘惑を断ち切るように、咆哮した。
知性などいらない。
真理などクソ食らえだ。
俺たちは、愚かなまま泥の中で生きていくんだ。
ガギィッ!!
硬質な衝撃音が鼓膜を破る。
ツルハシの先端が、黒曜石の中心に突き刺さった。
一瞬、鏡が虹色に発光し――。
衝撃波が俺の体を吹き飛ばした。
第三章 代償
視界がホワイトアウトする寸前、俺は見た。
砕け散る鏡の破片の中で、一人の女性がこちらを見ているのを。
白い装束。
血の涙を流しながら、それでも彼女は微笑んでいた。
『……ありがとう』
彼女の声ではない。
思念が、直接心臓に触れる。
『あやつらの“贈り物”は、人には毒すぎた』
『愚かさを守ってくれて、ありがとう』
卑弥呼。
彼女はずっと、たった一人でこの鏡を押さえ込んでいたのか。
二千年の間、あふれ出そうとする『破滅の知識』を、自らの魂を楔(くさび)にして。
(アンタも……キツかったな)
俺の意識は、そこで途切れた。
最終章 沈黙の守護者
「……月先生。香月先生」
消毒液の臭い。
規則的な電子音。
重い瞼を持ち上げると、白い天井がぼやけて見えた。
「気が付きましたか!?」
美咲が椅子から弾かれたように立ち上がる。
目の周りが赤い。泣いていたのか。
「……どれくらい、寝てた」
喉が張り付いて、うまく声が出ない。
「丸三日です。全身打撲と、右手の複雑骨折。それに……極度の脳疲労だと」
美咲が震える手で水を差し出してくる。
俺はそれを啜りながら、自分の右手を見た。
分厚いギプスで固定されている。
ツルハシを叩きつけた時の反動だ。二度と、発掘道具を握れないかもしれない。
「鏡は?」
「……粉々です」
美咲は唇を噛んだ。
「権藤さんは激怒してましたけど……破片を分析したら、ただの黒曜石に変質していたそうです。未知の金属反応も、全部消えていたって」
そうか。
終わったんだ。
俺は深く息を吐き、ベッドに背中を預けた。
「先生」
美咲が、真剣な眼差しで俺を見つめる。
その手には、ボイスレコーダーが握られていた。
「教えてください。あの時、何を見たんですか?」
彼女は優秀な編集者だ。
俺の異常な行動、鏡の破壊、そして譫言(うわごと)。
そこに、世紀のスクープが潜んでいることを嗅ぎ取っている。
「先生はずっと『データ』とか『初期化』とか呟いていました。邪馬台国は、何か高度な文明と接触していたんですか? それがあの鏡だったんですか?」
俺は窓の外を見た。
穏やかな秋の空が広がっている。
鳥が飛び、風が木々を揺らす。
そこには数式も、効率も、冷徹な真理もない。
ただ、美しく曖昧な『生』があるだけだ。
あの『知識』を公表すれば、世界は変わるだろう。
エネルギー問題は解決し、医療は飛躍的に進歩する。
だが、その代償に、人類は『生きる意味』というバグに耐えられなくなる。
知ることは、必ずしも幸福ではない。
俺は美咲の方を向き、口を開いた。
「……ガスだ」
「え?」
「地下に溜まっていた有毒ガスを吸ったんだ。典型的な幻覚症状だよ。巨大な宇宙船も、解体される人間も、全部俺の脳みそが見せた悪夢だ」
嘘だ。
俺の脳裏には、まだあの『数式』の残骸がこびりついている。
目を閉じれば、いつでもあの深淵を引き出せる。
「でも……鏡が光ったのを、私も見ました!」
「光の屈折だ。割れる瞬間のな」
俺は冷たく言い放ち、視線を逸らした。
「期待させて悪かったな。邪馬台国の謎なんて、最初からなかったんだ」
美咲の表情が凍りつく。
失望、疑念、そして悲しみ。
彼女はしばらく何か言いたげに唇を震わせていたが、やがて力なく肩を落とした。
「……わかりました。今は、ゆっくり休んでください」
彼女が病室を出ていく。
パタン、とドアが閉まる音が、俺と世界を隔てる分厚い壁の音に聞こえた。
静寂が戻る。
俺は左手で、動かない右手を撫でた。
痛みはまだある。
だが、これは『勲章』だ。
卑弥呼は死んで、その秘密を守り抜いた。
なら、生き残った俺が、次の『蓋』にならなきゃいけない。
孤独だ。
誰とも共有できない真実を抱えて、死ぬまで道化を演じ続ける。
発掘バカの香月先生は、ガス中毒で頭がおかしくなって引退した。
そういう筋書きでいい。
「……あばよ、女王様」
俺は窓の外の青空に向かって、小さく呟いた。
風が吹いた。
雲が流れ、太陽が隠れる。
その一瞬の陰りが、俺には銀色の船の影に見えた気がした。
俺は目を閉じ、暗闇の中に広がる無限の数式を、そっと脳の奥底へ沈めた。
世界は今日も、何も知らずに回っていく。
それでいい。