忘却の砂、後悔の残響

忘却の砂、後悔の残響

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第一章 残響の街

俺、レンの仕事は、過去を拾い集めることだ。もっとも、この街で「過去」という言葉に価値を見出す者はほとんどいない。人々は昨日の食事さえ曖昧にしか思い出せず、常に明日の計画や未来の夢を語り合う。記録は薄れ、石碑の文字は風に溶ける。それが、この世界の理だった。

俺の営む古物商『追憶の淵』は、そんな街の片隅で、忘れられたガラクタを並べているに過ぎない。客が求めるのは、物そのものの機能や形だけ。だが俺にとって、これらの品々は声なき声で満ちていた。

手に取った銀の懐中時計。冷たい金属に指が触れた瞬間、ぞわりと肌が粟立つ。耳の奥で、乾いた歯車の音と、微かな振動が響いた。『間に合わなかった』。それは絶望した男のため息であり、締め付けられるような胸の圧迫感だった。幸福な記憶は何も伝わらない。俺の指先が捉えるのは、常に誰かの未練、拭いきれない後悔の染みだけだ。

「また、この感じか」

最近、この『間に合わなかった』という残響に、異なる場所、異なる物から頻繁に触れるようになっていた。まるで、一つの巨大な後悔が、街の至る所にその破片を散らばらせているかのようだ。

ポケットの中で、ガラスの欠片を握りしめる。掌に馴染むそれは、いつから持っているのかも思い出せない『砂時計の欠片』。その中では、微細な銀色の砂が、重力に逆らって下から上へと静かに舞い上がっていた。この欠片を握ると、物の声が少しだけ鮮明になる。それは呪いであり、唯一の手がかりでもあった。

窓の外では、人々が未来の空中都市計画に胸を躍らせている。誰も、足元に沈殿する無数の後悔に気づかずに。俺は一人、その沈黙の悲鳴に耳を傾けていた。

第二章 消えゆく文字

繰り返される残響の糸を辿り、俺は街で最も古い建造物である中央記録院の、重い扉を押した。埃と、紙魚が蝕む乾いたインクの匂いが鼻をつく。ここでは、失われゆく僅かな過去を、未来へ引き渡そうとする儚い努力が続けられていた。

「何かお探しですか?」

声をかけてきたのは、亜麻色の髪を無造作に束ねた司書の女性だった。ユナと名乗った彼女の瞳には、この世界の住人には珍しい、どこか憂いを帯びた光が宿っていた。

「『空白の時代』について書かれた記録を探している」

俺の言葉に、ユナは諦めたように首を振った。

「その時代のものは、もう何も。ご覧の通り、文字は意味をなさなくなるんです」

彼女が指差した書架には、インクが滲んでただの染みと化した古文書が並んでいた。まるで、時間そのものが、過去を貪り食っているかのようだ。

諦めて帰ろうとした時、ふと記録院の礎となっている巨大な石壁に目が留まった。何気なく、その冷たい表面に手を触れる。

瞬間、嵐が来た。

『なぜ』『忘れなければ』『許してくれ』

無数の声が、悲痛な叫びが、怨嗟の振動が、脳を直接揺さぶる。それは個人の後悔ではなかった。一つの時代を丸ごと飲み込んだ、巨大な慟哭の残響だった。俺は立っていられず、その場に膝をついた。

「大丈夫ですか!?」

駆け寄るユナの顔が、歪んで見えた。壁が、この場所そのものが、何か巨大な秘密を叫んでいる。忘れることへの、抵抗の悲鳴を。

第三章 砂時計の導き

記録院の一室で、俺はユナに全てを話した。物に触れると後悔が流れ込んでくること。そして、この記録院の壁が、尋常ではない痛みを発していること。

ユナは黙って聞いていた。眉唾物の話だと笑い飛ばされても仕方ない。だが彼女は、ただ静かに俺の目を見つめていた。

「私の……祖母が大切にしていた万年筆です」

彼女が差し出した細身の万年筆。俺がおそるおそるそれに触れると、インクの匂いと共に、若い女性の後悔が流れ込んできた。『愛していると、なぜ伝えなかったのだろう』。それは、言葉にできなかった恋心の痛みだった。

俺が感じたままを口にすると、ユナは息を呑み、瞳を潤ませた。

「祖母が亡くなるまで、ずっと口にしていた言葉です。誰にも話したことはないのに……」

彼女は、俺を信じた。俺たちは協力者になった。

二人で『空白の時代』の手がかりを探すうち、ユナは院の地下深くで、誰にも解読できずに打ち捨てられていた一枚の石板を見つけ出した。表面には、奇妙な紋様が刻まれているだけだ。

俺はポケットから『砂時計の欠片』を取り出し、石板の紋様にかざした。すると、欠片の中の砂が、まるで嵐のように激しく舞い上がり始めた。ガラスが熱を帯び、俺の能力が増幅されていくのが分かる。

石板に、もう一度触れる。

閃光。

視界が真っ白になり、燃え盛る街並みと、天を突く塔の幻影が脳裏を焼いた。絶望の中、誰かが強く念じる声が響く。『二度と繰り返さぬために。我らはこの痛みを、未来から切り離す』。

それは、後悔ではなかった。悲壮なまでの、決意の残響だった。

第四章 忘れられた聖域

ビジョンが示した塔の幻影。それは、街の外れに聳える禁忌の遺跡『沈黙の塔』に酷似していた。古くから「近づく者は記憶を失う」と噂され、誰も寄り付かない場所だ。

俺とユナは、覚悟を決めてその塔へと足を踏み入れた。外の世界とは明らかに空気が違う。音がしない。匂いもしない。まるで五感の一部が奪われたような、完全な「無」が支配する空間だった。俺は恐る恐る壁に触れてみたが、何の残響も感じなかった。喜びも、悲しみも、そして後悔すらも、ここには存在しないのだ。

螺旋階段を上り、最上階に辿り着く。

そこには、巨大な砂時計があった。いや、俺が持っている欠片の、原型とでも言うべき巨大な装置だ。それはゆっくりと、しかし確かに稼働しており、世界全体から何か目に見えないものを吸い上げているかのような、途方もない圧力を放っていた。

「これが……」

ユナが息を呑む。

俺は吸い寄せられるように、その装置のガラスに手を伸ばした。

指が触れた、その瞬間。

ポケットの『砂時計の欠片』が甲高い音を立てて共鳴し、目も眩むほどの光を放った。欠片の中で舞い上がっていた銀色の砂が、一瞬にして頂上へと達し、完全に満たされる。

そして、堰を切ったように、忘れられた奔流が俺の魂へと流れ込んできた。

第五章 管理人の真実

それは、歴史ではなかった。人類が自ら葬り去った、破滅の記憶そのものだった。

かつてこの世界は、多様な記憶と思想、そして消せない過去の憎悪によって、終わりなき大戦を繰り返していた。血は血を洗い、報復が新たな報復を生む。その地獄の果てに、当時の賢者たちは一つの結論に達した。争いの火種となる『過去』そのものを、人の記憶から消し去る以外に道はない、と。

この『沈黙の塔』こそ、そのために創られた巨大な記憶消去システム、『忘却の炉』の心臓部だった。世界中の人々の記憶は、時間の経過と共にこの炉に吸収され、浄化される。記録物が劣化するのも、このシステムの影響だった。

だが、システムは完璧ではなかった。特に、死者の強い後悔は消しきれず、『残響』という歪みとなって世界に澱む。その歪みが蓄積すれば、システムは暴走し、全ての記憶、つまり人の精神そのものを破壊しかねない。

だから、『管理人』が必要だった。

残響を感知し、その歪みを自らの内に受け止め、システムを微調整する存在。

俺の一族は、代々その役目を担うために存在していた。後悔を感じるこの能力は、そのために与えられた証。そして『砂時計の欠片』は、管理人として炉と接続するための鍵であり、吸収した歪みを少しずつ浄化するための器だったのだ。

俺は、忘れられた全ての痛みを一身に背負うために生まれてきた。この偽りの平和を守る、孤独な番人。それが、俺の真実だった。

第六章 ただ、そこに在る痛み

意識が現実に戻ると、ユナが俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。俺の目から、涙が止めどなく流れていた。それは俺自身の涙ではなかった。歴史の底に沈められた、名もなき幾億の人々の悲しみの奔流だった。

「レン……?」

俺は、流れ込んできた真実の全てを、静かに彼女に語った。人々が未来だけを見て笑い合えるのは、俺のような存在が、彼らの代わりに過去の痛みを全て引き受けているからだと。

ユナは言葉を失い、ただ震えていた。この残酷な真実と、世界の優しい嘘の間で。

「君は、忘れていい」

俺は微笑んでみせた。

「それが、この世界の優しさなんだから。君も、俺のことも、この塔のことも、やがて忘れる」

その言葉が、どれほど彼女を傷つけるか分かっていた。だが、それが彼女を守る唯一の方法だった。ユナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。その記憶さえ、やがて時間と共に薄れていくのだろう。

俺は街に戻った。古物商『追憶の淵』の店主として。

街の喧騒は何も変わらない。誰もが未来に夢を馳せている。俺は店先の古い椅子に腰掛け、そっとそれに触れた。温かい木肌から、子供を失った母親の、決して癒えることのない後悔が伝わってくる。

その痛みは、もはや呪いではなかった。俺が守ると決めた、この世界の一部だった。

ポケットの中では、『砂時計の欠片』が再び、底からゆっくりと銀色の砂を舞い上げ始めていた。次の、忘れ去られるべき誰かの後悔を拾い集めるために。

俺は目を閉じ、ただ、そこに在る無数の痛みと静かに向き合う。それが、忘れられた歴史の管理人である俺の、永遠の務めなのだから。

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