忘れられた都市のレクイエム

忘れられた都市のレクイエム

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第一章 痣と訪問者

神保町の古書店街の片隅に、霧島朔の営む「時忘れ堂」はひっそりと佇んでいる。埃とインクの匂いが染みついたその空間は、時間の流れから取り残された孤島のようだった。朔は、ただの古書店主ではない。彼は、人々から忘れられ、消えゆく歴史の断片を救い出し、特殊な古書に「定着」させる、最後の「歴史保存官」だった。

その朝、朔は自身の右腕に走る鈍い痛みで目を覚ました。袖をまくると、そこにはこれまで見たことのない奇妙な痣が浮かび上がっていた。それはまるで、古代の樹木の根が皮膚の下を這うような、複雑で禍々しい模様を描いていた。歴史保存官の一族に伝わる言い伝えによれば、これは歴史の連続性が大きく歪み、ある「事実」が世界から完全に消滅しかけている兆候だという。

朔が不安を胸に店を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。入ってきたのは、澄んだ瞳を持つ一人の女性だった。雨に濡れたトレンチコートを脱ぎながら、彼女は言った。

「あの、ここなら何か分かるかもしれないと伺いました」

彼女は葉月と名乗り、カウンターの上に古びた一冊の日記を置いた。羊皮紙の表紙は擦り切れ、インクの文字は滲んでほとんど判読できない。

「祖母の日記です。ここに何度も出てくる『アストライア』という古代都市を探しているんです」

朔は眉をひそめた。歴史保存官として、彼は古今東西のあらゆる記録に精通している自負があった。だが、「アストライア」という名には全く聞き覚えがなかった。

「申し訳ありませんが、そのような名の都市は、どの歴史書にも記録されていません。おそらく、お祖母様の創作か、何か別のものの比喩ではないでしょうか」

朔の言葉に、葉月はかぶりを振った。その瞳には、揺るぎない確信の光が宿っていた。

「いいえ、絶対に存在しました。祖母は嘘をつく人ではありませんでした。この日記には、その都市の石畳の匂いや、星を映す水路の煌めきまで、まるで見てきたかのように書かれています。誰に聞いても、空想だと言われるだけ。でも、私には分かるんです。これは、忘れられてしまった真実なのだと」

その瞬間、朔の右腕が再び疼いた。痣が、まるで葉月の言葉に呼応するかのように、じくりと熱を持った。日常を覆す予感が、古書のインクの匂いに混じって、朔の胸に満ちていく。存在しないはずの都市と、自身の腕に現れた不吉な徴。二つの無関係に見える事象が、朔の孤独な使命の前で、静かに交差しようとしていた。

第二章 忘れられた都市の影

朔は、葉月の強い眼差しに抗うことができなかった。それは単なる好奇心ではなかった。右腕の痣が、この謎を解き明かせと彼に命じているかのようだった。彼は時忘れ堂の奥、一般客を決して入れない書庫へと葉月を招き入れた。そこは、彼が救い出してきた「忘れられた歴史」が眠る聖域だった。

「これは…?」

葉月は、革の装丁が施された分厚い書物を指差した。それは朔が歴史を定着させるための媒体であり、どのページも空白に見えるが、保存官の血を引く朔だけが、そこに綴られた無数の物語を読むことができる「歴史録」だった。

「僕の一族に伝わる記録です。ですが、ここにもアストライアの名はありません」

二人は、葉月の祖母が残した日記を手掛かりに、共同で調査を始めた。日記に記された断片的な記述――「銀の葉を持つオリーブ」「三日月の湾」「歌う石」――それらを頼りに、古い地図や民俗学の文献を渉猟する日々が続いた。

調査を進めるうち、朔は葉月という女性に次第に惹かれていった。彼女は、朔が守ってきた「過去」というものに、彼と同じくらい真摯な敬意を払っていた。夜が更け、二人で温かいお茶を飲みながら議論を交わす時間は、これまで孤独な使命に生きてきた朔にとって、温かな光そのものだった。彼は、自分のこの特殊な能力と宿命を、彼女になら打ち明けられるかもしれない、とさえ思い始めていた。

ある晩、彼らは古い海洋伝承の中に、ついに手掛かりを見つけた。それは、かつて地中海に存在したとされる、蜃気楼の島についての記述だった。

「『かの島は、星の運行を読み、未来の嵐を歌で知らせる民の住まう地なり。されど、神々の嫉妬に触れ、一夜にして霧の彼方へ消え去りぬ』…三日月の湾、という記述も一致します」

朔が読み上げると、葉月は息を飲んだ。

「歌で未来を知らせる民…」

その言葉が、朔の脳裏にある仮説を点火させた。もし、アストライアが存在し、そして消えたのだとしたら、それは自然の力によるものではないのかもしれない。あまりにも強大な力を持つがゆえに、「意図的に忘れさせられた」のではないか。歴史から抹消された都市。だとしたら、一体誰が、何のために?

謎が深まるほど、朔の腕の痣は濃さを増し、その模様は不気味なほど鮮明になっていった。まるで、真実がすぐそこまで迫っていることを告げるかのように。

第三章 保存官の罪と真実

朔と葉月は、ついにアストライアの核心に迫る手掛かりを、時忘れ堂の地下深く、初代保存官が封印したとされる禁書庫で見つけ出した。それは、一族の誰にも読むことを許されなかった、黒い革表紙の日誌だった。朔が震える手でそのページをめくると、彼の血に呼応して、淡い光と共に文字が浮かび上がった。

そこに記されていたのは、衝撃的な真実だった。

アストライEアは、実在した。その民は、星々の配置から未来を正確に予知する能力を持っていた。彼らはその力で天災や飢饉を未然に防ぎ、周辺諸国に繁栄をもたらしていた。しかし、ある時、彼らは歴史上最大規模となるであろう、大陸全土を巻き込む大戦乱を予知してしまう。

その予知は、当時の覇権を狙う為政者たちにとって、あまりに不都合な真実だった。彼らはアストライアの力を恐れ、その存在そのものを歴史から消し去ることを決断した。そして、その非道な計画に手を貸したのが、初代歴史保存官だったのである。

『我は歴史を守る者。されど、未来を守るため、一つの歴史を葬ることを決意せり』

日誌には、初代保存官の苦渋に満ちた言葉が綴られていた。彼の能力は、歴史を「定着」させるだけでなく、強力な意志をもって、人々の記憶や記録から特定の事象を「消去」することも可能だったのだ。彼は為政者たちの依頼を受け、アストライアという都市の存在を、人々の記憶から、あらゆる記録から抹消した。それが、彼が信じた「より大きな善」のための選択だった。

朔は愕然とした。自分の祖先が、歴史を守るべき使命を持つ者が、一つの文明を抹殺する片棒を担いでいたという事実に。そして、彼をさらに絶望させたのは、続く一文だった。

『消去は完全にあらず。アストライアの血を引く者が現れし時、忘れられし歴史は蘇らんとするだろう。その時、我が子孫よ、お前は再びその歴史に封印を施すのだ。お前の腕に浮かぶ痣こそが、そのための鍵である』

右腕の痣は、消された歴史が蘇ろうとする抵抗の証であり、同時に、朔がその歴史を完全に消し去るための「鍵」を意味していた。そして、そのトリガーを引いたのが――葉月。彼女こそが、幾多の世代を経て奇跡的に生き延びた、アストライアの民の最後の末裔だったのだ。

朔は顔を上げた。目の前には、何も知らずに心配そうな顔で彼を見つめる葉月がいる。愛おしいとさえ感じ始めた女性。その存在のルーツである輝かしい歴史を、この手で、完全に消し去らなければならない。それが、歴史保存官としての彼の使命。彼の価値観が、足元から音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。愛か、使命か。彼は、あまりにも残酷な選択を迫られていた。

第四章 二人のための歴史

書庫の冷たい空気が、朔の肌を刺した。目の前には、自らの祖先の罪と、これから自分が犯すべき罪が、黒いインクの文字となって横たわっている。腕の痣が、まるで最終通告のように、激しく脈打っていた。使命を全うしろ、と。忘れられた歴史に、永遠の眠りを与えろ、と。

朔は顔を上げ、葉月の澄んだ瞳をまっすぐに見つめた。彼女の瞳の中には、祖母から受け継いだ、まだ見ぬ故郷への純粋な憧憬が揺らめいていた。この光を、自分が消し去るのか。為政者のエゴと、祖先の過ちのために。

「朔さん…? 何が書いてあったの?」

不安げに問いかける葉月の声に、朔の中で何かが決壊した。彼は日誌を閉じた。パタン、という乾いた音が、彼の決意を告げていた。

「葉月さん。君の探していたアストライアは、確かに存在した。星を読み、未来を歌う、美しく賢い民が住む都市だった」

彼は、初代保存官が犯した罪も、自分に課せられた使命も、すべてを正直に話した。彼の腕の痣が、葉月の存在によって現れ、彼女のルーツである歴史を完全に消し去るためのものであることも。

葉月の瞳から、みるみる光が失われていく。自分の存在が、愛する故郷の歴史にとどめを刺すための引き金だったという事実に、彼女は打ちのめされていた。

「じゃあ…私は、ここにいない方がよかったのね…」

絞り出すような声に、朔は力強く首を振った。

「違う。君がいたから、僕は真実を知ることができた。君がいなければ、アストライアは誰にも知られず、ただ闇に葬られたままだった」

朔は葉月の冷たい手を取った。

「僕は、使命を放棄する。歴史保存官であることをやめる」

彼は、空白のページが広がる「歴史録」を開いた。そして、自らの指先を小さく傷つけ、滲んだ血で、そのページに言葉を綴り始めた。それは、アストライアの物語だった。星を詠む民のこと、銀の葉を持つオリーブのこと、そして、その歴史を探し求めた葉月という一人の女性がいたこと。

これは、公の歴史を変える行為ではない。ただ、忘れられた歴史を、たった一つの愛の物語として、この世に「定着」させる儀式だった。彼が文字を綴り終えた瞬間、右腕の痣が眩い光を放ち、そして跡形もなく消え去った。同時に、朔は感じていた。自分の中から、歴史を読み、定着させる特別な力が失われていくのを。

彼はもう歴史の番人ではない。ただの古書店主、霧島朔になったのだ。

「僕の力はなくなった。もう、歴史を守ることはできない。でも…」

朔は葉月を抱きしめた。

「君の記憶の中にあるアストライアを、僕が守る。これからは、二人でその物語を語り継いでいこう」

葉月の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは絶望の涙ではなかった。

世界は、アストライアという都市が存在したことを知らないままだ。壮大な歴史の記録は、何も変わらない。けれど、神保町の片隅にある古書店で、一つの都市の記憶は、確かに救われたのだ。一人の男の決断と、一人の女の想いによって。

歴史とは、巨大な年表や英雄譚だけを指すのではないのかもしれない。誰かが誰かを想い、忘れまいと心に刻んだ小さな記憶の連なり。それこそが、決して消えることのない、本当の歴史なのかもしれない。

朔と葉月の間には、これからもずっと、星を詠んだ都市の優しい光が灯り続けるだろう。それは、二人だけが知る、ささやかで、そして永遠の歴史の始まりだった。

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