蝕まれた記憶の地誌
2 4371 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

蝕まれた記憶の地誌

第一章 静かなる侵食

左手の指先が、また少し石に近づいた気がした。カイは窓辺の光にそれをかざし、爪のあった場所が鈍い灰色に変質しているのを眺めた。表面は細かくひび割れ、まるで何世紀も風雨に晒された化石のようだ。痛みはない。ただ、そこにあるはずの体温だけが、静かに失われていた。

この街も同じだった。かつて中央広場に聳え立っていた英雄王の銅像は、今や誰の顔も映さないのっぺりとした石塊に成り果て、人々はその台座に刻まれたはずの名前すら思い出せない。建物の煉瓦は色褪せ、角は丸みを帯びて崩れ、まるで巨大な波に洗われ続ける砂の城のように、ゆっくりと輪郭を失っていく。記憶の風化。それはカイの身体を内側から蝕む病であり、同時に、この世界全体を覆い尽くさんとする静かなる侵食だった。

街角の古書店の主、エリオだけが、この現象を『時の枯渇』と呼んだ。皺深い顔に憂いを浮かべた老人は、埃っぽい羊皮紙を指でなぞりながらカイに語った。「世界の歴史は、大河の流れのようなものだ。源泉から絶えず『時』が注がれることで、我々の過去は形を保ち、現在は意味を持つ。だが、その流れが細っている。いや、どこかで堰き止められているのかもしれん」

エリオの言葉が、カイの左手に宿る冷たい感触と重なる。カイは知っていた。特定の歴史が、例えば「百日戦争」の終結の日付のような些細な事実が世間から忘れ去られるたび、彼の身体の石化は僅かに進行する。世界の忘却が、彼自身の存在を過去の遺物へと変えていくのだ。

第二章 琥珀の囁き

カイの左手薬指は、他の指とは異なっていた。そこは化石ではなく、夕陽の光を閉じ込めたような、透明な琥珀へと変化していた。時折、その琥珀に意識を集中すると、遠いざわめきや、知らない言語の歌声のようなものが聞こえる気がした。

「それは『記憶の琥珀』じゃろうな」

エリオはカイの指先を、拡大鏡越しに慎重に観察しながら言った。

「稀に、極めて強く、そして忘れ去られた記憶が結晶化することがある。歴史そのものの化石だ」

「この中に、何があるのですか?」

「分からん。だが、それはお前の身体の一部。お前が失いつつある記憶と、世界が失った歴史の、結節点のようなものかもしれん」

老人は一枚の古地図を広げた。大陸の中央、霧深き山脈の奥地を指し示す。「もし、この侵食を止めたいと願うなら、行くしかない。『時の流れ』の源泉、『刻の神殿』へ。そこで何が起きているのかを突き止めるのじゃ」

その夜、カイは自室で琥珀の指を見つめた。世界を救うなどという大それた考えはなかった。ただ、これ以上自分自身が失われていくことに、耐えられなかった。石になりゆく身体の中で、唯一温もりを宿しているかのような琥珀に触れる。その奥で、何かが囁いている。行け、と。真実を見届けろ、と。カイは小さな鞄に数日分の食料と水を詰め、夜明けを待たずに街を出た。

第三章 無色の境界

神殿への道は、世界の傷口をなぞる旅だった。カイが東へ進むにつれ、風景から色彩が抜き取られていった。豊かな緑を誇っていたはずの森は、すべての葉が灰色に染まり、風が吹いてもざわめき一つ立てなかった。鳥の声は聞こえず、土の匂いも消え失せ、まるで巨大な木炭画の中を歩いているかのような錯覚に陥る。

『無色の領域』。エリオがそう呼んでいた場所だ。歴史が完全に失われ、時間の流れから切り離された空間。カイは領域の境界線に立ち、その先に広がる静寂に息をのんだ。一歩踏み出すと、空気が薄くなったように呼吸が苦しくなる。足元の小石は重さを失い、自分の存在そのものが希薄になっていく感覚。ここは、かつて栄華を誇ったとされる古代王国の跡地だった。だが今、その痕跡は何一つ残っておらず、ただ虚無だけが広がっていた。

恐怖が足元から這い上がってくる。このまま進めば、自分もこの無彩色の風景に溶けて消えてしまうのではないか。その時、左手の琥珀が、不意にかすかな熱を帯びた。カイは無意識にそれを握りしめる。琥珀の微かな温もりが、彼の存在の輪郭をかろうじて繋ぎとめていた。彼は唇を噛みしめ、再び無色の荒野へと足を踏み出した。この世界の終わりを、この目で見届けるまでは、消えるわけにはいかない。

第四章 忘れられた幻視

旅の途中、カイは岩場で足を滑らせ、左手を強く打ち付けた。鋭い痛みが走り、見れば琥珀の指に蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。しまった、と思った瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

視界が、眩い光で満たされる。

気づけば、彼は見たこともない都市に立っていた。空には水晶でできた橋が架かり、銀色の翼を持つ鳥のような乗り物が静かに飛び交っている。建物の壁には幾何学模様が脈動するように明滅し、街全体がひとつの生命体のように、穏やかな音を奏でていた。人々の衣服は光を編んだように輝き、その表情はカイが知るどんな人間よりも穏やかで、満ち足りていた。

これは、なんだ。

俺の記憶か? いや、違う。こんな歴史は、どんな書物にも記されていなかった。

幻視は一瞬で消え、カイは再び灰色の岩場に一人きりでいた。しかし、あの都市の光景、肌を撫でた優しい風の感触、耳に残る金属の共鳴音は、あまりにも鮮明だった。左手の琥珀を見ると、亀裂は消えていたが、その輝きが僅かに翳っている。エリオの言葉が蘇る。『記憶の琥珀』は、割ることでその歴史を追体験できる。だが、その歴史は世界からさらに薄れていくのだと。

カイは、自分が体験したものが、この世界から意図的に『忘れられた』文明の記憶であることを直感した。そして、この世界の異変の核心に、その忘れられた歴史が深く関わっていることを。

第五章 源泉の番人

霧の山脈を越え、カイはついに『刻の神殿』にたどり着いた。苔むした巨大な石造りの建造物は、それ自体が時間の化石のようだった。だが、神殿の内部は静まり返り、時の流れを司るという源泉――巨大な砂時計のような水晶――は、その輝きを失い、砂の落ちる音も途絶えていた。

「あなたが、来ることは分かっていました」

凛とした声に振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。光を編んだような白い衣をまとい、その瞳にはカイが幻視で見た都市の光景と同じ、穏やかで、しかし底知れぬ悲しみの色が浮かんでいた。

「あなたは?」

「リラ。この源泉を止めた者たちの、最後の一人です」

彼女は、カイが『忘れられた文明』と呼んだ民の末裔だった。リラは静かに語り始めた。彼らの祖先は、時の流れを調律し、歴史の調和を守る民だったこと。しかし、後に現れたカイたちの祖先が、その力を恐れ、彼らの存在そのものを歴史から抹消したこと。都市は破壊され、民は殺され、記録はすべて焼き払われた。彼らは、不当に忘れ去られたのだ。

「源泉を破壊したのは、私たちの祖先の最後の抵抗。偽りの歴史の上で繁栄するあなたたちに、真実を思い出させるための、たった一つの方法だったのです」

リラの言葉が、カイの存在を根底から揺さぶった。

「源泉を元に戻せば、あなたたちの世界は救われるでしょう。ですが、完全に安定した『正しい歴史』は、矛盾である私たちの存在を許さない。私たちは、今度こそ完全に消滅する」

その瞬間、カイの身体に激痛が走った。歴史の真実が、彼の内部で矛盾の嵐を巻き起こす。左腕が急速に風化し、皮膚が古びた石碑のようにひび割れ、ボロボロと崩れ始めた。忘却と記憶の奔流が、彼を破壊しようとしていた。

第六章 不完全な調律

カイは崩れ落ちそうになる身体を支え、喘ぎながらリラを見つめた。世界を救うか、彼女たちを見捨てるか。どちらを選んでも、何かが決定的に失われる。どちらも、正しくない。

彼は、ひび割れた石の腕で、かろうじて人の形を保っている琥珀の指を掲げた。

「これを…割れば、記憶は追体験できる。だが、歴史は薄れる…」

カイの口から、言葉が途切れ途切れに紡がれる。

「忘れることと、憶えていることは、敵同士じゃないのかもしれない…」

彼はリラに、そして彼女の背後にいるであろう忘れられた民の魂に、語りかけた。

「源泉を元に戻そう。だが、完全じゃない。歴史を、再構築するんだ」

カイの提案は、狂気の沙汰に聞こえたかもしれない。それは、すべての歴史を平等に記憶するのではなく、意図的に『余白』を作り出すことだった。リラの民の存在を、正史としてではなく、神話や伝説、語り継がれる物語として歴史の隙間に織り込む。ある事実は史実として記憶し、ある事実は詩として記憶する。真実と虚構の境界を曖昧にすることで、矛盾する二つの世界を共存させる。それは、完全な記憶でも、完全な忘却でもない、第三の道だった。

「そんなことが…」

リラが息をのむ。

「やってみるしかない」

カイは、ひび割れた腕を、光を失った時の源泉へと伸ばした。「俺のこの身体が、新しい歴史の礎になる」

第七章 境界の守人

カイが源泉の水晶に触れると、彼の身体から淡い光が放たれた。石化した腕から、琥珀の指から、彼の記憶と存在そのものが流れ込んでいく。彼は世界の忘却と記憶を一身に引き受け、その調律を始めた。百日戦争の英雄の名は再び人々の記憶に刻まれ、だがその傍らで、空飛ぶ船の歌が子供たちの間で囁かれるようになった。古代王国の遺跡は現れなかったが、その場所には『夢見の民が眠る丘』という名が与えられ、巡礼者が訪れるようになった。

世界の風化は、止まった。色褪せた街はゆっくりと色彩を取り戻し、人々は失われた記憶の断片を、まるで新しい物語のように語り始めた。

カイの身体の変質もまた、止まった。しかし、彼の左腕は風化した石碑のまま、指先は琥珀の輝きを宿したまま、二度と元に戻ることはなかった。彼は、人間でも遺物でもない、何か別の存在へと生まれ変わったのだ。

リラと彼女の民は、消滅を免れた。彼らは歴史の表舞台に立つことはないが、人々の夢や物語の中で、永遠に生き続けることになった。

神殿を後にしたカイは、夕陽に染まる丘の上に立っていた。蘇った世界は、不完全で、どこか歪で、矛盾をはらんでいた。だが、それは確かに息づいていた。ふと、彼は自分の石の腕に目を落とす。硬質な石の表面、その僅かな亀裂から、小さな緑色の苔が芽吹いているのが見えた。

彼はもう、過去を失うことを嘆く男ではない。カイは、忘却と記憶の境界に立つ、この不完全で美しい世界の、最初の番人となったのだ。彼はその腕に芽生えた小さな命を、壊れ物を扱うかのように、そっと右手で撫でた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る