無垢なる世界の鎮魂歌
第一章 錆びた調律
カイの手の中で、古びた砂時計が静かに脈打っていた。「血流の古時計」――それが彼の仕事道具の名だ。彼は「感応石の調律師」。大地を巡る「歴史の血流」から、忘れ去られた感情の欠片を宝石として掬い上げる、孤独な職人だった。
今、彼がいるのは、忘れられた港町。潮風が錆びた鉄の匂いを運び、石畳の隙間からは、微かに虹色の靄が立ち上っていた。歴史の血流が、この地の記憶を滲み出させているのだ。カイは古時計を地面にかざす。時計内部の砂が、血流の波動に共鳴して淡い光を放ち始めた。
狙いは、百年前の灯台守が抱いた「後悔」。恋人を嵐で失った夜の、どうしようもなかった自責の念。古時計の針が特定の周波数で震え、やがてカチリと音がした。カイがそっと手を差し出すと、靄の中から小さな灰色の宝石が生まれ、彼の掌に落ちた。雫の形をした感応石は、氷のように冷たい。
「また一つ、か」
呟きは風に溶けた。最近、どうも世界の調子が悪い。歴史の血流は荒れ、各地で過去の幻影が暴走しているという噂が絶えない。彼が調律を施した場所ほど、その歪みが大きいような気がしてならなかった。自分の仕事が、良かれと思ってやったことが、世界の何かを少しずつ、しかし確実に蝕んでいるのではないか。そんな予感が、彼の胸に鉛のような重りを落としていた。
第二章 過去からの侵食
その予感は、王都を訪れた日に、悪夢のような現実となってカイの眼前に広がった。
広場を埋め尽くしていたはずの陽気な人々の喧騒が、突如として悲鳴に変わる。地面が大きく揺れ、アスファルトに亀裂が走った。そこから溢れ出したのは、濁った血のような赤黒い歴史の血流。靄は瞬く間に濃くなり、異形の影を形作った。
「あれは……『忌まわしき時代』の兵士……!」
誰かが絶叫した。歴史から完全に抹消されたはずの、大戦の時代の兵士たち。その幻影は半透明の体を持ちながら、手にした銃剣だけが鈍い鋼の実体を保っている。彼らの目は虚ろで、憎しみも怒りもない。ただ、底なしの絶望だけがそこにあった。幻影兵士たちは周囲の人々から生命エネルギーを吸収し、その輪郭を急速に濃くしていく。空気が凍てつき、生者の体温が奪われていくのが肌で分かった。
カイは咄嗟に古時計を構えた。彼らの感情を調律し、鎮めようと試みる。
だが、駄目だ。
流れ込んでくるのは、個人の感情ではない。一つの時代が生み出した、途方もない質量を持つ絶望の奔流。それはカイの精神を押し潰し、彼の存在そのものを呑み込もうとするかのようだった。
「ぐっ……!」
膝をついたカイの脳裏に、確信が突き刺さる。この暴走は、自分がこれまで行ってきた幾千もの小さな調律が引き金なのだ。歴史のダムに、無数の小さな穴を開け続けてきた結果なのだと。
第三章 古時計の脈動
王都の惨劇から逃れたカイは、師が遺した書庫に閉じこもった。『忌まわしき時代』に関する記述は、ほとんどが黒く塗りつぶされていたが、辛うじて読み取れた一節があった。
『――人は感情を根絶しようと試みた。悲しみを消し、憎しみをなくし、楽園を築くために。だが、捨てられた感情は死なず、歴史の底に澱み、呪いとなった。我々はそれを「嘆きの深淵」と呼び、歴史そのものから切り離した……』
その記述の横に、見慣れた意匠が描かれていた。カイが持つ「血流の古時計」だ。彼はハッとして、自身の古時計を手に取った。それはただの採取器具ではないのかもしれない。これまで集めてきた様々な感情の感応石――喜び、悲しみ、愛、後悔――を、時計の縁にある窪みの一つ一つに嵌めていった。
全ての窪みが埋まった瞬間。
ゴウン、と古時計が重く脈打った。内部の砂が黄金色に輝き、激しく渦を巻き始める。それはもはや時計ではなく、羅針盤だった。針が示すのは、地図のどこにも記されていない、歴史の血流が淀みきった禁断の領域。
「嘆きの深淵」
古時計は囁いていた。行け、と。全ての始まりであり、終わりの場所へ。お前が開けた穴は、お前自身で塞ぐのだ、と。
第四章 嘆きの深淵
カイが辿り着いた場所は、音も光も、風さえも存在しない無の空間だった。足元には、凝固した歴史の血流が黒い水晶の大地のように広がっている。ここが、人類が忘却の彼方へと追いやった感情の墓場、「嘆きの深淵」。
その中心に、「それ」はあった。
山のように巨大な、脈打つ心臓のような黒い感応石。人類史の全ての負の感情――絶望、憎悪、悲哀、苦痛――が圧縮され、結晶化した「原初の感応石」。世界中で頻発する暴走は、この巨大な感情の塊が、封印を破って漏れ出した断末魔の叫びだったのだ。
そしてカイは悟った。自分の調律は、善意の行いではなかった。歴史の血流に微細な波紋を起こし、この巨大な封印に絶え間なく刺激を与え続けていたのだ。小さな親切が、結果として世界の終わりを招こうとしていた。
絶望が胸を締め付ける。だが、彼の手に握られた古時計が、新たな脈動で応えた。
その真の機能。それは、蓄積した感応石のエネルギーを逆流させ、歴史の堰を開く「鍵」。だが、同時に、術者自身を器とすることで、溢れ出した濁流を全て受け止め、堰を閉じるための「錠」にもなるのだ。
道は、一つしかなかった。
第五章 最後の調律
カイは覚悟を決めた。古時計を胸に当て、目を閉じる。彼の精神は光の糸となり、眼前の巨大な「原初の感応石」へと繋がっていく。
「始めよう……最後の調律を」
その瞬間、世界が変わった。
人類の歴史が始まって以来、流された全ての涙が、全ての憎悪が、全ての絶望が、津波となってカイの魂に殺到した。戦場で死にゆく兵士の無念。愛する者を失った者の慟哭。裏切られた者の怨嗟。未来を奪われた子供たちの悲鳴。何十億、何百億という魂の叫びが、彼の精神を億千万の刃で引き裂いていく。
「ああ……ああああああああッ!」
悲鳴は声にならなかった。意識が千切れ、砕け散る。だが、彼は耐えた。一本の指でダムの決壊を支えるように、ただひたすらに、その濁流を受け止め続けた。
どれほどの時間が経ったのか。
ふと、流れが止んだ。世界を覆っていた赤黒い靄は晴れ、暴走していた幻影たちは光の粒子となって消えていく。世界に、穏やかで清浄な光が満ちた。
カイがゆっくりと目を開けると、そこには新しい世界が広がっていた。街では人々が互いに微笑み合っている。その笑顔に、憂いや翳りは一切ない。争いも、悲しみも、後悔も知らない、生まれたての赤子のような無垢な瞳。
世界は、救われたのだ。
第六章 楽園の孤独な神
だが、カイだけが知っていた。これは救いではない、と。
人々は悲しみと共に、他者への深い共感を失った。憎しみと共に、不正義への怒りを失った。後悔と共に、自己を省みる心を失った。苦悩から生まれる芸術は色褪せ、深遠な問いから始まる哲学は意味をなさなくなった。
世界は、争いのない完璧な楽園になった。そして、人間は、その「人間性」という魂を根こそぎ抜き取られたのだ。
カイの心には今、人類が失った全ての負の感情が、巨大な渦となって永遠に荒れ狂っている。彼はもう、心の底から笑うことも、純粋な喜びを感じることもできない。ただ、世界中の痛みと悲しみを、たった一人で理解し続けるだけだ。
彼はポケットから、あの港町で採取した灰色の感応石を取り出した。灯台守の「後悔」。それは今や、この美しく空っぽになった世界で、唯一残された本物の「人間らしい」感情の欠片だった。
空はどこまでも青く、子供たちの無垢な笑い声が響く。
カイは、自分が救ったはずの世界を静かに見つめる。魂を失った楽園で、その全ての重荷を背負い、永遠にたたずむ。
世界を救い、神にも等しい存在となった、ただ一人の傍観者として。